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(回答先: 「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア (4)、(5)、(6) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 10 月 14 日 04:01:14)
(7)教育文化政策
すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29日)は「日本語普及運動宣言」と題して、マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。(中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。
ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、日本語を公用語として強制することまではできなかった。マラヤでは、1943年11月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。
現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。
(8)強制労働と労務動員
日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。
泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。勤労奉仕隊として17万7300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。
泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。
当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきたインドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。
「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」
カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。
東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、日本軍によって処刑されたケースを多かった。
香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には50〜60万人にまで減少した。その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。
(9)日本軍「慰安婦」
太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。その町の数は30以上にのぼると見られる。
東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる(吉見義明・林博史編著『共同研究 日本軍慰安婦』大月書店)。
第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。
第二に新聞などで募集したケースがある。シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。
第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。
第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。
第五に暴力的な拉致によるケースである。日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているがインドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。
徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。
中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。
また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。
地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200〜300人が慰安婦にさせられている。慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。
慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。
日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。
占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。