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(回答先: 「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア (7)、(8)、(9---慰安婦) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 10 月 14 日 04:03:28)
(10)住民虐殺・虐待
アジア太平洋戦争における最初の大規模な残虐事件は、シンガポールの華僑虐殺だった。1942年(昭和17)2月15日にシンガポールの英軍が降伏し、マレー半島全土を日本軍が占領下においた。その直後、第25軍司令官山下奉文は「最も速かに市内の掃蕩作戦を実施し、これ等の敵性華僑を剔出処断」せよという命令を下した(河村参郎『十三階段を上る』亜東書房)。憲兵隊を中心としたシンガポール警備隊が市内の、近衛師団が市内を除くシンガポール島を担当、18歳以上50歳までの華僑男子は21日までの指定された場所に集まるように布告が出された。各検問所では簡単な尋問がおこなわれただけで、「抗日」とみなされた者はトラックに乗せられて郊外の海岸などの運ばれ、機関銃で射殺された。この粛清の事実上の首謀者だった軍参謀辻政信は検問所をまわって、「何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」と憲兵隊を激励してまわった(大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版)。この粛清を指揮したシンガポール警備隊長河村参郎の日記には、粛清の途中の23日に憲兵隊長を集め、そこで「処分人数総計五千名」と報告を受けたことが記されている。
戦後、日本軍関係者が作成した文書では約5000人を「厳重処分」(裁判にかけずに直ちに処刑すること)したとしている。シンガポールでは4〜5万人が虐殺されたとされている。
シンガポール粛清が始まった2月21日、第25軍はマレー半島全域での粛清を命じた(以下、林博史『華僑虐殺』すずさわ書店)。第25軍傘下の第18師団と第5師団はマレー半島各地に移動し、その後約1カ月にわたって粛清をおこなった。 マレー半島南部のネグリセンビラン州とマラッカ州では3月3日から25日まで歩兵第11連隊によって粛清がおこなわれた。「抗日分子」や「抗日ゲリラ」が潜んでいると疑われた村が皆殺しにあった。特に主な道路から離れた、奥まった所の村やゴム園の宿舎がやられた。そのため町にいると危ないと考えて避難してきていた女性や子どもが多数殺された。都市では皆殺しにはできないので、一軒ごとに日本兵がまわって「抗日的」と見なした者を検挙した。日本軍の命令書によると「態度終始不遜ナル者」や「本人ノ存在」が「社会ノ秩序ヲ乱」すと判断した者は処刑せよとされており、検挙されてから郊外に連れて行かれ処刑された。当時、人口が約30万人だったネグリセンビラン州だけで、30数カ所3千数百人の華僑が虐殺された。同州には数十人のゲリラがいたと見られるがかれらはジャングルのなかのキャンプにいて助かった。
日本軍はマレー半島の華僑全体を「抗日的」だとみなし、シンガポール攻略前から粛清の計画を立て実行した。太平洋戦争の初期のこれらの一連の虐殺は、この戦争が中国への侵略戦争の延長線上におこなわれたことを示している。
フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。米軍が44年10月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。
ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。
ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。
侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。
ところで、こうした日本軍の残虐行為はアジア民衆に対してだけでなく、日本人に対しても向けられた。その最初はサイパン戦だった。
サイパンには約2万人の日本の民間人が残っていたが、その半数が1944年6月から7月のサイパン戦で犠牲になった。サイパンに住んでいた日本人の約6割は沖縄県出身者であった。この戦闘のなかで、逃げ込んだ洞窟のなかで泣きやまない赤ん坊を殺害したり、親子ごと洞窟から追い出したり、米軍に投降しようとした民間人を射殺するなど日本軍による残虐行為が頻発した。また民間人の投降を許さず「自決」を強要するなど、後の沖縄戦で見られる状況がほぼすべてこのサイパン戦で現れていた。
さらに1944年10月から米軍の反攻が始まったフィリピンでは、ここにも多くの日本人移民がおり、太平洋戦争開戦前にはその約7割が沖縄県出身者であった。ミンダナオ島では米軍の上陸により山中に追いやられた日本兵による日本人からの食糧強奪や殺害がおきたし、パナイ島では日本軍とともに逃避行を図ったが、付いていけない民間人たちは「自決」を強要され、残された傷病兵の手によって手榴弾や銃剣によって殺された。
こうした状況がさらに大規模に生まれたのが沖縄戦であった。
(11)捕虜虐待
太平洋戦争において日本軍の捕虜になった連合軍将兵は約35万人にのぼり、うち29万人が開戦後、6カ月以内に捕まった者である。このうちイギリス、オランダ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの本国軍将兵が約15万人、残りはインド人やフィリピン人などである。後者の場合は日本軍に協力することを宣誓させた上で釈放したり、インド人の場合は日本軍が組織させたインド国民軍に編入されたりしている。ただ一部には協力することを拒否して処刑されたシンガポールのマレー人将校たちのようなケースもある。
戦争中の捕虜の扱いについては1929年(昭和4)に締結されたジュネーブ条約などにおいて人道的に扱わなければならないことが国際法上、確立していた。日本は日露戦争でロシア人捕虜を、第一次世界大戦ではドイツ人捕虜を人道的に扱った。しかし1929年のジュネーブ条約については軍の反対により批准しなかった。捕虜の扱いを心配した連合国が日本政府にジュネーブ条約の適用を求めてきた際に日本政府は「準用」すると回答した。しかし実際にはそうならなかった。
日本軍は国内外に捕虜収容所を設け捕虜を収容したが、その過程で起きた大きな事件が「バターン死の行進」だった。1942年4月フィリピンのバターン半島に立てこもっていた米比軍が降伏した。彼らは収容所までの長い道のりを一部区間を除いて歩かされ、途中、飲食物をろくに与えられず、警備の日本兵から殴打されたりし、収容所にたどり着くまでに7万6000人中約1万7000人が死亡した。収容所についてからも犠牲者が続出した。
泰緬鉄道の建設には約6万5千人の捕虜が投入された。泰緬鉄道はタイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの415キロの鉄道で、42年6月大本営によって建設が決定され、直ちに着工、翌年10月に完成した。人跡未踏のジャングルの山岳地帯であり、マラリヤなど熱帯伝染病の多発地帯に短期間に鉄道を建設するために病気の捕虜までも作業に駆り出し、食糧も医薬品も欠乏するなかで約1万2000〜3000人が犠牲になった。特に奥地に送られたFフォースと呼ばれた捕虜グループでは7062人中3096人(44%)が犠牲になった。
戦局が悪化すると、捕虜たちの待遇が一層悪化したにとどまらなかった。台湾収容所ではいざという場合には捕虜を「圧縮監禁」し「最後の処断」に備えることが指示されていた。つまりいざとなれば捕虜を殺せということだった。事実、パラワン島では日本軍の飛行場建設のために連れてこられていた米兵捕虜140人が1944年12月日本軍によって虐殺された。
またボルネオ島東北部のサンダカンの捕虜収容所にいたイギリスとオーストラリア軍の捕虜約1850人は西海岸まで道のないジャングルと湿地帯のなか約400キロを歩いて移動させられた。途中で動けなくなった者は日本兵によって射殺され、ようやくたどり着いた者も食糧運搬などの強制労働によって次々に死んでいった。その結果、戦後まで生きのびることができたのはわずか6人だけだった。この「サンダカン死の行進」では日本兵もたくさん犠牲になっているが、人命軽視の日本軍の体質は捕虜に一層ひどくはたらいた。
軍人だけでなく東南アジアにいた欧米の民間人も日本軍によって抑留された。特にインドネシアでは9万9830人のオランダ人が抑留され、1万2542人が死亡した。その中の一部の女性は日本軍の慰安婦にさせられた。
捕虜も民間抑留者も、解放されてからも精神障害や身体障害、悪夢などに悩まされており、「収容所後遺症」と言われている。
欧米諸国の兵士に対しては、一応捕虜にする措置がとられたが、 中国での捕虜については、捕虜にさえもしないという政策がとられた。満州事変後の1933年(昭和8)に陸軍歩兵学校が頒布した『対支那軍戦闘法ノ研究』のなかには「支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮ニ之ヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」と書かれてある。1937年の日中戦争が始まると、8月に陸軍次官の通牒によりハーグ条約などの交戦法規を「悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」と指示した。太平洋戦争開戦後は欧米人を対象とした俘虜情報局と俘虜収容所が設置されるが、中国に対しては設置されなかった。南京大虐殺のなかでの重要な出来事は中国軍捕虜の大量虐殺であり、それが日本軍によって組織的におこなわれたことはその表れである。欧米軍の捕虜の何倍あるいは何十倍もあったはずの中国人捕虜は、殺されるか、強制労働させられた。
(12)中国占領地
日本軍は満州を除く中国本土に約70万人、敗戦時には約100万人の大軍を派遣した。しかし都市と交通網だけ、つまり点と線のみ抑えただけで農村部までおさえることはできなかった。「現地自活」方針をとっていた日本軍は食糧を確保するために市場価格より大幅に安い価格で米などを強制買い付けした。また国民党軍や共産党軍に対する経済封鎖をおこなったため、都市には農産物が入らず、農村には工業製品が入らない状況になった。そこに日本軍は物資調達のために軍票や円系通貨を乱発し激しいインフレを引き起こした。
1940年9月の第一期晋中作戦、すなわち山西省の抗日根拠地に対する「燼滅作戦」以来の日本軍の燼滅・粛清作戦は、中国側から三光作戦と非難をあびるようになっていたが、太平洋戦争開始後も各地でおこなわれた。また1942年から万里の長城沿いの地域の「無人区」化が図られた。これは八路軍の活動を封じるためにこの地域を「無人区」にしようとした作戦で、対象となった村は焼き払われ、抵抗する村人は殺された。追い出された人々は「人囲い」と呼ばれた集団部落に集められたが、農地も家畜も不足し、ひどい環境のしたで伝染病や飢えのために多くの犠牲を出した。長城のすぐ北側の熱河省興隆県ではこの「無人区」化によって7万間余りの民家が焼かれ、3万頭余りの家畜が奪われた。1万5402余りが殺され、1万5千人が強制労働のために満州に連行され、そのほかに凍死、餓死、病死者を多数出した。その結果、16万余りの人口が10万人余りにまで減少した。
こうした三光作戦や「無人区」化作戦によって、1941年から翌年にかけて華北の抗日根拠地の面積は六分の一に、人口は4000万から2500万人に、八路軍の兵力は40万(1940年)から30万人に減少した(姫田光義・陳平『もう一つの三光作戦』青木書店)。
しかし、こうした日本軍の作戦は中国民衆を一層、抗日に追いやっただけだった。1944年以降、日本軍が太平洋戦線に部隊を転用したことと、アメリカ軍の援助を受けた国民党軍の強化が進んだこと、解放区からの反攻が始まったことなどから日本軍の戦線を縮少しはじめた。軍事的にも経済的にも日本軍占領地の崩壊が進みはじめだした。