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(回答先: 人間の宗教心理(信仰心)の在り処は? 投稿者 如往 日時 2004 年 11 月 25 日 18:54:10)
如王さん 初めまして
レスありがとうございます。示唆に富んだ内容に感服しております。
拙い分析ではありますが、貴殿の問いに対する私の見解を以下に記述致します。
まず、エス・自我・超自我という概念で考察してみます。ご存知の通り生誕時の人間に自我はほとんどありません。エス、その中でもマズローの欲求階層でいう生理的エスが大部分を占めます。幼少期の発達段階において、ゲゼルの成熟論(先天的に行動はプログラムされているとする見解:遺伝因子重視)やワトソンの行動主義(客観的に確認できる刺激とそれに対する反応との相関を明らかにする:環境因子重視)に代表される、内的要因と外的要因との相互作用が後の発達の方向性を決める訳ですが、社会的学習理論(自己の体験や、親を始めとした他者の経験を見聞きすることで学習することが個性や態度の変化に表れるという考え方)に基づく超自我の獲得と、その狭間で自我が徐々に形成され、安全・親和(集団帰属/愛)・承認/自尊心・自己実現・自己超越という欲求をコントロールしていくことになります。お分かりかと存じますが、エスと自我が生来的に重視する欲求は生存>安全>集団帰属/愛>承認>自己実現>自己超越となります。この欲求のメカニズムにこそ、「何故人間は信仰心を持つのか」という問いに一定の解を与え得るのではないかと考えています。即ち、古来の人々にとって、時に猛威を振るう自然は『超越的存在』に他ならず、『安全に生活する』ことすら容易ではなかったがためにその低次欲求を満たそうと『原始的鎮礼』を行ったことが宗教の始まりではないかと推測しています。ポイントは、宗教が人間の心の拠り所になるといった存在ではなく、人間が生き延びるために自ら編み出した「産物」に過ぎないということです。この派生系が多神教です。これに対し一神教はもっと筋が悪いと考えています。一神教の誕生は、その全てが生活・文化的水準で言えば『安全に生活する』という低次欲求が満たされていることが前提となっています。人々の最低水準の欲求は『集団帰属/愛』です。この時代は国家・民族といった帰属集団が既に確立されています。先ほど述べました社会的学習理論に基づく超自我の獲得の際に、為政者が巧みに宗教的要素を散りばめておけば(教会設立や戒律の明示等)、自我は宗教が刷り込まれた超自我を目指し、無意識にそれ(信者)になろうとします。即ち、『集団帰属/愛』という欲求を満たすこと=『ある宗教の信者になる』=『ある民族の一員である』『ある国家に帰属する』という構図が成立する場合、人はいとも簡単に「信仰心を持ってしまう」と考えられるのです。では、「何故信仰心を持つ人間と持たない人間がいる」のでしょうか?現代社会は前述した構図がそれ程成立しないと思われます。ご指摘にあった通り、無神論者が突然ある宗教にはまることも多々あります。この要因にはやはり超自我が関係すると思われます。超自我は無意識下における「自分の理想的な姿」であり、死ぬまで生成発展・変化します。この領域に、ある宗教の教義が影響を及ぼすともう誰の手にも負えません。本人は「覚醒」したと思い込んでいるからです。では貴殿や私のように「信仰心を持たないの人」はどう説明すればよいのでしょうか?答えは単純です。『集団帰属/愛』という欲求を満たしているからです。「信仰心を持たない人」は「持つ必要がない」のです。より高次な欲求、即ち承認・自己実現・自己超越を志す人は、「自立」しています。「自立」している人は宗教の言葉を借りずとも、自分の言葉で「愛」「平和」を語ることができます。それを実践することができます。「人に動いてもらう」こともできます。「帰属の対象」でしかない「宗教」に、『後戻りするようなことはしない』のです。
言葉足らずで恐縮ですがご不明な点などございましたらお待ちしております。
今後とも宜しくお願い致します。