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(回答先: 誤字訂正:如往さん失礼しました(往→王)(本文なし) 投稿者 Carry That Weight 日時 2004 年 11 月 26 日 22:47:27)
Carry That Weightさん、レスをありがとうございます。
私が学んでいた頃(70年代初頭)は、日本において臨床心理学はまだまだ一般的ではなく、ようやく確か九大や群馬大等の一部の大学に萌芽が見られた程度でした。そして、宗教心理学も社会学ないしは宗教学の一ジャンルを構成していたのに過ぎず、独立した分野として認知されてはいなかった記憶があります。そのように未だ宗教心理学が確立されていない当時の日本の状況であっても、院生にとっては各宗派の信者達さんに入信の動機や背景について聞き取り調査をするといったフィールド・ワークから始めることも可能だったかも知れません。胸踊る大層楽しい作業になったのではないかと想像しています。今想えば色々と手掛けたいことはあったのですが、あれから既に30年が経過し今更追い着くことは不可能ですし、悔やんでも詮無きことです。今後は、若き研究者達の業績に期待したいと思っています。
ところで、フロイトの精神分析に関する基本概念は基礎的なレベルでは理解しているつもりです。然るべき心理学のオーソリティからは民間心理学と揶揄されそうですが、今回はEros&Thanatosの話は脇に置きつつ(本当は避けては通れないと認識しています)、特に本能的衝動[the es or the id]、自我[ego]、超自我[the super-ego]に焦点をあてて述べてみたいと考えます。
私は、エスを自動車のエンジンの出力即ち人間においては生存欲(生命力)、エゴをギア即ち知性、スーパー・エゴをアクセル&ブレーキ即ち情念と意志と云ったような捉え方も可能ではないかとみています。そこで、我々人間は普段、環境や情況に適合するように出力を制御しながら活動し生き、通常は、知性を磨くこと(知識や技術の習得)によってあらゆる出力調整に適うギアを獲得していく訳ですが、換言すればそれを成長と呼べると思います。
何故私が特定の宗教を拠り処にしないのかというと、おそらく人間の知性にたする信頼、つまり人間のエゴの機能にたいする信頼感が勝っているためかも知れません。それは同時に機能の反復活用によって絶えず検証され信頼度の向上が図られるべきものです。しかし、エゴの機能にたいする信頼性の欠如か、思考停止によるエゴの恣意的忘却によるものか、人によっては制御に関して他力を頼む場合があり得ます。その他力の総体をスーパ−・エゴと措定することは可能でしょう。
日本人の宗教感覚(信仰心の発露)は一神教を基軸にする西欧人の場合とは多少異なる点があると感じています。教科書的な見方では、前者が自然の延長としての我(われ)を認識しようとするのがモメントになるのにたいし、後者は自然と対峙する我として捉えようとすることがベースになっているでしょう。究極的には自然を支配する、もしくは内なる自然であるエスを飼い馴らすためにもスーパー・エゴが必要になって来ます。その代表格がキリスト教で、モーセやイエスはスーパ−・エゴの象徴的存在(権化)と言えるでしょう。
>即ち、古来の人々にとって、時に猛威を振るう自然は『超越的存在』に他ならず、『安全に生活する』ことすら容易ではなかったがためにその低次欲求を満たそうと『原始的鎮礼』を行ったことが宗教の始まりではないかと推測しています。ポイントは、宗教が人間の心の拠り所になるといった存在ではなく、人間が生き延びるために自ら編み出した「産物」に過ぎないということです。
ある特定の集団に属することによって己の下位欲求の達成を保証(担保)すると信じ込まされる、あるいはそのように構成員が信じてしまうことは十分あり得ることだと考えます。また、宗教の発生要因を文化人類学的に捉えるならば、外在するものに対する畏怖の念が信仰の原基となったと言えないことはありません。さらに、宗教が人間の歴史的所産であることにも異論はありません。
けれども、マズローの欲求五段階説の『集団帰属/愛』が個別の信仰心の発揚にどれほど関与しているかは、少なからず疑問を禁じ得ません。私が接触した限りでは、キリスト教やS学会や天理教等において、信者達が所属集団に対し没我的かというと意外にも一定の距離感があったことを憶えています。無論、例祭などの特別な行事の場合には一致団結して取り組みますが、普段は例外無く信者同士は非常にプラグマティックな付き合い方をしているなぁと感じたものです。天理教は決してS学会や統一教会のように人の不幸に付け入ることはしないのですが、それでも災厄を回避するための方法の追求を怠ってはいませんし、例えば消極的にではありますが易学鑑定を信者獲得のための裏技として使っています。日本人の一般的な心性としては、災禍をどの様に受けとめるかに係わる、つまり身の処し方に惑う時にこそ、信仰心が喚起され易いでのはないかと想うのですが、日本在来の宗教の中でもとりわけ新興宗教と云われるものは、信者のニーズを把握して、時には恫喝・誘導にまで及びながら微に入り細に入った働き掛けをしていたと体験的にも感じています。
私はマズロー理論については人間の成長を五段階の階梯を辿るものと述べているようには考えていません。寧ろ、現在の振舞いや行動の要因を成長過程に求めるときのdimensionとして、特に欠落の状態を把捉するための手立てとして、重要なスキームであるとの認識を持っています。何故なら、自己実現や自己超越に向っているように見えても、実は人は欠落部分に拘るあまり、欠落を埋めるべく一生を費やしているものだといった見方もできると考えるからです。信仰心を持つ者と持たざる者を別つ要因が何たるかは一様でないでしょう。それでも、一応の共通項があると推測し、それを探索していこうとするところに学問的営為の本義があると思っています。
私という存在を受容する主体が何も人間が創作した神ではなく、現に存在する人そのものでもOKではないかと考えているのですが、Carry That Weightさんが仰るように『集団帰属/愛』がベースにあるから自身が自立した心象でいられるかは定かでありません。ただし、所謂村社会的な習性や呪縛から解き放たれることが容易ではない日本人の信仰心を考察する上では、『集団帰属/愛』は看過でき得ない媒介項であるのかも知れません。
さて、行動やその結果を承認されることではなく、唯在ること(この世に生まれたこと)を受容されていると感覚できることこそが、人が生きてく上で最も重要なベースとなるべき体験ではないでしょうか。素朴な、そして夢想を語るような物言いが許されるならば、受容されまた受容する主体が互いに人間同士であることに何の不都合があるのでしょう。
私的な自問に過ぎぬ「何故人間は信仰心を持つのか、何故信仰心を持つ人間と持たない人間がいるのか」に関するCarry That Weightさんの応答に感謝いたします。これを機に松本滋氏、オルポート、フロム、エリクソン等の著作を読み返してみる必要性を感じました。今後とも宜しくお願いします。
また、会いましょう。