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(回答先: Re: なぜ、エスはスーパー・エゴを求めようとするのか? 投稿者 Carry That Weight 日時 2004 年 12 月 03 日 11:20:43)
Carry That Weightさん、こんにちは、レスをありがとうございます。
>まず貴殿の前提として自動車の例えにありました、「エゴをギア即ち知性、スーパー・エゴをアクセル&ブレーキ即ち情念と意志」のご認識については、私の認識では逆であります。「スーパー・エゴ」とは「成長過程で無意識のうちに習得する社会性・倫理道徳概念」即ち人間を人間たらしめる要素であり、「エゴ」とは「欲望=エス」の衝動=「アクセル」と「理性・知性=スーパー・エゴ」の抑制=「ブレーキ」のさじ加減をコントロールする「固有の明確な意識」を指すという認識です。
現実に生が進行している、即ち人間が生きている只中で、エスをコントロールしていくのはエゴというギア(複数で多様な)の形成にかかっていると思います。エゴ=知性によるコントロールを理想とし、また絶対的なスーパー・エゴが存在するというのは幻想であると考えますが、断じて盲信・盲従するのではなく、スーパー・エゴを到達点に措定して、エゴの効力に関する試行錯誤を繰り返していくのが人間の常道ではないかと思っています。私はエゴを知性の一つの様態(内容=シニフィエ)と捉えているのですが、そのほうがここで意識について説明しなくても済みますし、エゴ的存在であるとするよりは知性的存在とするほうが人間の人間たる所以を叙述する上ではより近接するものになるのではないかと考えています。
>「欠落」についての私見は「人間に欠落しているものなどない」という認識です。ある人の価値観・物差し・成熟度から見れば「欠落だらけ」の人でも、その人が「スーパー・エゴ」や自己実現目標と現状の乖離を「欠落」と捉えない「エゴ」を持っていさえすればいいだけだと考えています。「欠落」に拘ることは「自我崩壊」に繋がり、それがまた「入信」へのきっかけにもなり得ると思っております。
ここで云う「欠落」とは、例えば乳児の時に母親から直接にしかも十分な期間に亙って授乳されなかったこと、つまり「体験の不在」=「欠落」を指すもので、その後の代償作用が不完全であると、男性の場合にはいつまでも巨乳の女性を追い求める等、「欠落」の補完に囚われる傾向を示すというものです。普段はそれが振舞いに表出してきたり行動に影響することはないのですが、エモーショナルな状況に晒された場合には刺激にたいする反応基準の優先順位の高位に位置付けられ得るという見方です。
また、慢性的に食欲が満たされぬまま食盛りの幼年期を過ごした人達(日本では1940年頃〜1950年頃に少年期を過ごした)にとっては、食するという生理的欲求を満たすことが生存の第一義的な要件として潜在意識に刻み込まれ、少なからずその後の生き様に影響を与えているようです。この年代の人達と会食すると、彼等が先ず食事の質(味)よりも量に拘っていることが判りますし、自分の分け前の確保に専念したり、非常にせわしく野卑な食し方をする傾向が見られます。どうやらこうした性向はその人に一生付き纏うようなのですが、エゴというギアの獲得やスーパー・エゴとの出遭いないしは形成によって、日常生活において隠蔽されもしくは完全に封印されてしまうことはあると考えています。
宗教について考えると個人的にはいろんな想いが込み上げて来ます。その昔、宗教に恋人を奪われそうになったこともありましたし、親しい間柄でありながらも標し(信仰)に関しては互いに譲れずに本心の部分ではよそよそしさを拭いきれないこともありました。はたしてCarry That Weightさんの宗教に纏わる体験はどんなものだったのでしょうか。
信仰という名の思考停止状態への没入に陥るのも仕方がないと想える境遇の人達や思考停止の誘惑に魅入られてしまう人の心に対面すると、或る種遣る瀬無い気持ちになります。それは、たとえキリスト教であろうが、S学会であろうが、天皇(教)であろうが同様ですし、私自身はあくまでもエゴ=知性の力を信じたいと考えています
また、会いましょう。