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(回答先: また昼休みです。 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 11 月 02 日 15:33:26)
竹中さん、私は先程まで狼狽し続けておりましたのに(チキン野郎なのであります)竹中さんと対話が続けられるようで
嬉しく思い、違う意味で狼狽しております。フニャコです。
本日は休みでございましたので、都内23区の中でも恐らく最も緑の多い地元にて散歩など楽しんでまいりました。
実は私も、解説出来るほど儒教に詳しいわけではございませんので、ものすごく乱暴に申し上げます。
基本的に儒教は、
「人心なんか荒廃しちゃってるからよ、儀式みたいなもので縛って外側から強制しちゃおうぜ。なぁ。」
と言った具合であると(本気で乱暴ですが)言えます。
人への思いやりやら色々な情を「礼」で表そうとしました。儀式だと思ってください。
先に規範として「礼」を強制する事で「本当の礼」が身につくだろうと、そんな具合です。
(私は老子ダイスキ人間でございまして論語は熟読はしていません。)
(就職活動などする際には社長室に「論語」があるとその会社をパスします。)
(高みから人を見下している倫理になど極力従いたくありません。)
また孔子のおっさんは、現代で言うと「現代のやつらはダメだ。教育勅語を復活させないとダメだ」みたいなことを飲み屋で言っている
おっさんと大して変わらないものだと(個人的に)思います。
昔にあこがれて周囲を「今の人」とひとくくりにしちゃってるところが“アレ”です。
「昔」というのは「王が徳で治めていた周王朝」の事です。
(そりゃ重い労働は奴隷がやってたんですから平民を徳で治める事も出来るでしょう)
この「昔」を理想にしています。ですから儒教は権力者に都合のいい教えだと言われるのです。
一方で私の大好きな老子おじさんが、いつもながら身も蓋もないことを言っています。
故失道而後徳,失徳而後仁,失仁而後義,失義而後禮。
夫禮者,忠信之薄,而亂之首。前識者,道之華,而愚之始。
【ぶんなげ訳】
道が失われて徳が出てきて、徳が失われて仁がでてきて、仁が失われて義が出てきて
礼が出てくるのは義すら失われたあとである。
「礼」なんてもんは人の本性が失われて出てくるので乱世の走りなのだ。
「智」なんてもんは見せかけの飾りに過ぎず、愚の始まりに過ぎない。
もう老子のおじさんにかかると身も蓋もありません。
この他にも道家の流れの本には孔子を揶揄する部分が沢山あるんですが、上記の「道徳経38章」は、孔子の考えの核心の部分をぶん投げております。
竹中さんの仰る
>都合が悪い状態になっても誠実に反省しないどころか詭弁を弄して乗り切りを図る。
>こういう連中を見ていると、彼らの子孫まで真似をすることはまちがいありません。
老子の言う上記のものがこの構造の「仕掛け」なのではないかと思います。
>武家社会では倫理として通用していた時代もある。
確信はないのですが、戦国時代の武士とその後の武士はなにか本質的に違うような気がいたします。
我々の思う武士は江戸時代の官僚的なもので、外人が言うところの「サムラーイ」はきっと戦国期のそれのような気がします。(ぶっちゃけミフネ)
きっとあれですね。
権力のピラミットが現れる時に儒教が顔を出して皆窮屈な思いをするのでありましょう。
私は今の住所で人生の大半を過ごしておりまして、先程の散歩の際にも2〜30分おき位に知り合いと遭遇いたしました。
その都度「ちゃんと食ってるか?」とか「ちゃんと仕事してるか?」「困ってないか?」といったような言葉をかけられます。
「礼」という制度がなくても、社会は機能するだろうなと思う今日この頃です。
また取り止めのないレスでございます。ごめんなさい。
勝手な申し出なのですが、今後「昼休み」で話す場合には、思考飛び飛び論点ズレズレ飲み屋でヘベレケトークで行きませんか?
雑談板はほぼ議論板のライト版のような格好でROMは気軽に出来ますが、書き込むとなるとなかなか無責任な事など言えず窮屈ですので。
では、どうもごめんなさい。