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(回答先: 六区と老子 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 11 月 02 日 23:25:06)
竹中さんこんにちは。
先日、所用あって北陸へ出かけました。
運良く上越新幹線は越後湯沢まで通っており、そこからの在来線もダイヤの乱れなどありましたがなんとか通れる状態でした。
越後湯沢から新潟からは反対方向へ行ったのですが、旅の途中で余震があり線路点検などで止まることも多く、その度に
様々なことを考えたりしました。「近くを通っているのに何もしなくていいのか」等。
結局「義援金など少々出しているのだから」「足手まといになる」と自分を納得させ通過しました。
(義援金を出したので今月出席する友人の結婚式のご祝儀が少なめになると言うことは秘密です)
近くにいたのに妙によそよそしい理由で自分を納得させた事に関して複雑な思いでいます。
話は飛ぶんです。
私の大好きだったねぶた祭りは無くなってしまいました。
祭り自体は存在していますが、なんと言いますか私に対してどことなくよそよそしくなってしまいました。
観光客の事を考えてねぶたコースも綺麗な道へ綺麗な道へと変わって行き、毎年「カラス」対策に警官が多数出動しています。
しかし私は思うのです。頑張っていらっしゃるお巡りさんやお役人さんには悪いのですけれども「カラス」よりもお巡りさんの
「勤務中のよそよそしい顔」のほうが景観を壊しています。(「警官だけに」と言おうとしたことは秘密です)
ガラの悪いあんちゃんに対する恐怖心などもあるかと思います。
しかし、そのあんちゃんこそが地元なのです。あんちゃんと「ぶつかった」「ぶつかってない」で喧嘩したり、未成年なのに飲酒
したり「世間的には悪」をも内包して初めて「そこ」であり「ここ」であると思います。
(私が始めて飲酒したのもねぶたにハネトとして参加した時であったと記憶しています。小学生でした。小さい缶ビール(80ml?)
はこの時ばかりは『子供用』になります。思えば女の子の手をはじめて握ったのもねぶたでありました。)
マスコミや観光客を意識するとどうにもよそよそしくなり、祭りはイベントになってしまうようです。
祭りは自然発生でありましょうから人為があってはならないと思います。
「無為にしてなさざるは無し」なのでしょうか。
最近の私の生活はまさに清潔すぎて混沌がありません。
竹中さんの書き込みで思い出しましたが「無常」と「万物流転」をおぼろげに知ったのはバキュームカーのおかげでございました。
祖母の家にバキュームカーが入り「今まさに吸っていて、しかももう終わる」時に用を足した覚えがあります。
「今吸っているから」我慢していたものが我慢できなくなったのであり、相当した覚えがあります。
トイレの下のほうで「あー」という残念な声が未だに忘れられません。
その直後祖母に「あの吸ったものはどこに行くのか」質問しました。
肥やしになるのだろうと教わりました。
「さぁ終わる」と言う時に上から落ちてくる。そしてそれはいずれ口に入る。
昔の生活ほど、論理ではなく直感で物事が判りやすかったんではなかろうかと思います。
その祖母は既に他界しましたが、いずれ私の口に入ってくる生まれ変わってくるだろうと直感しています。
なんと言いますか、整然としたものの中に整然としたものがあるのではなくて、混沌としたものの中に整然としたものがあるような気
がしてなりません。
論点横滑りしまくりでレスになってませんね。
芋煮て笑ってるほうが直感しやすいんではないかという事でひとつ。ええ。
乱文でどうもごめんなさい。
せばの。