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【如往さんへ】遅くなりましたが返信です(どうやら投稿できませんので雑談板へ代理投稿いただけると助かります)
http://www.asyura2.com/0406/nametoroku2/msg/806.html
投稿者 Carry That Weight 日時 2005 年 2 月 02 日 13:16:42: JJIy3maLdB0sk
如往さん ご無沙汰しております。
余計なことをしてしまったようで雑談板に投稿できませんでした。
以前のやり取りの中で、「何故キリスト教系大学が積極的に心理学を取り入れたのか」ということについて私見を述べる機会を逸したまま今日に至ってしまったことをお詫び致します。その上で、遅ればせながら簡単に述べさせていただきます。
キリスト教をシンプルに見つめてみますと、イエスの言動を解釈することに他ならないと考えております。それは聖書を媒介してのみ行えることであり、改ざん等の歴史的変遷を鑑みれば、アンチキリスト666さんが指摘された「矛盾」が付き纏うことは致し方ない一方で、その矛盾も「解釈の仕方」によっては「矛盾」とは言えない「曖昧な記述」が多いことも言えますし、日本語に翻訳された時点で「翻訳者の主観・イエスに対する価値観」を投影したものに変換を余儀なくされます。かような「不確実性」に満ちた「聖書」の解釈から、イエスの本質を汲み取るのは至難であると考えております。
そこで、キリスト教徒であるか否かに関わらずイエスに対する共通認識にして本質的な要素、即ち「隣人愛」に眼を向けると心理学との関連性が浮かび上がってくるのではないかと考えた次第です。
「隣人愛」と「自己愛」とは対立関係にあると思われています。フロムによれば「カルバン等プロテスタントの神学」が「利己的」であることを否定した、即ち人間は無力で邪悪な存在であり、自己愛は最大の罪とされ、神と隣人を愛することが救済に繋がるとしています。カントは、人間の幸福追及志向が徳・価値等を持つことはなく、生来的に悪である人間は規範的義務を全うすることが道徳だと考えました。これにニーチェ等が反論しました。「隣人愛」は弱さの裏返しで「偽善」であり「利己的」や「自己愛」が美徳である、即ち本当の愛は与えられる程強く豊かな自己でなければならないという考えでした。
これに対しフロムは、イエスの「汝を愛するように、汝の隣人を愛せ」とは自分を愛さずに他者を愛せと言っているのではなく、「自己愛」と「他者愛」が分断できないと指摘しました。これを換言すれば「人は自分を愛する程度しか他者を愛せない」ということになります。
このように、古典心理学からの重要なテーマである「自己愛」と二律背反する立場を取る「神学」との整合性をどこ見出すのかというのが、「キリスト教系」大学における主要な問題であったことはある程度推測できるかと思われます。「自己愛」に乏しい「利己主義者」や「他者愛」の「神経症的介入」への変容等、付随する心理学的考察要素は多いと思っております。
以上、稚拙ですがご意見などいただければと思っております。