現在地 HOME > 雑談専用12 > 584.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: 【如往さん】へ 私からの質問です 投稿者 Carry That Weight 日時 2005 年 2 月 08 日 19:31:18)
Carry That Weightさん、こんにちは。
ご質問の趣旨に副うものになるかどうか心配ですが、あの頃の記憶を辿りながら回答したいと思います。
>当時日本において支配的な心理学の範疇はやはり臨床心理学だったのでしょうか。
結論から言えば支配的ではなかったと想われます。
学部時代に元々が心理学専攻であったならば、修士課程における方向づけを模索するためのインデックスが与えられたのでしょうが、新たに専攻分野をセグメントするのには戸惑いました。
けれども、実存主義系の哲学を専攻していた経緯や、諸々の時代状況も相俟って実存主義をラボ(Laboratory)するとは如何なることか、そんなテーマを朧気に浮べていました。少し前では、実存主義のラボとしてはサルトルの戯曲が代表的なものだったでしょうし、サルトルの実存主義とはアプローチが違いますが、心理学の分野ではフランクルの実存分析(Logotherapy)などが挙げられるでしょう。私の場合、卒論のテーマが後者の研究に幾分か関係するものでしたので、辛うじて修士試験にエントリーできたのだと思っています。
さて、本題に入りますと、Carry That Weightさんのご賢察の通り、文科系の心理学のテーマは例えばフロイトの精神分析が有するContextの解釈ならびにその援用が主体で、スーパーヴィジョン(Supervision)体制の不備の問題もあり、臨床への実際的な応用の範囲は極々限られていました。その一方でささかやなTrialとして、東京大学文学部心理学科の出身の国谷信朗先生等が、政府の外郭機関を基盤にして交流分析のエクササイズの普及に尽力されてもいました。
日本では精神医学会がなかなか初期の心理療法を認知せずに、文科系の人達が勝手にやっていることと無視しているかのような風潮がありました。ただし、唯一教育学との接点は認めていたと想われます。それは、治療行為とは別に、教育学が現実問題としてラボと切り離すことができない宿命を負っていたからです。つまり、生徒・学生を教育するという使命があったのです。
東京教育大学(筑波大学)が日本における教育心理学研究の嚆矢であったわけですが、間もなくして、九州大や千葉大や群馬大等、医学部からのアプローチによって新たなコラボレイションが生まれたと聞き及んでいます。ただ、Carry That Weightさんが学ばれた教育学部への設置は必然的なこととしても、現在では、取り分け臨床心理学が文学部に設置される場合にどんな位置づけになるのか、結局は「古典主義」に限局される結果になってしまうのか、やはり臨床心理学は大学院での設置が妥当なのか、そんな疑問を懐いています。
キリスト教との関係で言えば、おそらくユングまでが「古典主義」の限界(頂点)でしょう。その反面、前にも述べましたが、ラボがキリスト教系大学の心理学科設置とほぼ同時に導入された経緯や理由がよくわかりませんでした。後の家族療法などではキリスト教の教理との乖離あるいは矛盾が露呈することになるのではと推測していましたので、ラボそのものが成立するのか、そんな疑問が浮んだまま今日に至っていました。相変わらずスーパーヴィジョンに象徴されるCriteriaに関する課題は残ったままであると考えています。
そして、ここまでが私の限界です。一年で中断してしまっているので、それほど心理学の知識やラボのスキルがあるわけではありません。今般、アンチキリスト666さんの問題提起に端を発し、色々と想いを廻らして来ました。そこで、キリスト教等の所謂人工的な宗教による呪縛から人々を解き放つためには、心理学のラボ及び心理学的な手法(Art)が有効ではないかと考えているのですが、Carry That Weightさんはどう思われるでしょうか。けれども、それが西欧的思惟を基に生まれ進化してきたものであるだけに、人々を操作(Process)する道具にもなり得る諸刃の剣であることを、十分認識する必要があるのは言うまでもないと思っています。
また、会いましょう。