現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用12 > 107.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
Carry That Weightさん、こんにちは、昼休み板での応答をありがとうございます。
この話は行きがかり上、多分Carry That Weightさん宛に語るほうがよいだろうと考え、かつ気分を換えてこちらに投稿してみました。
私は嘗て“奇蹟”が起る様子を二度目撃したことがあります。もう、30年以上も前になりますが、異なる二つのキリスト教系団体の集会でのことです。両方とも、生まれつき殆ど車椅子の生活で歩くことができなかった人が宣教師(牧師)の導きと集う人々の励ましによって歩き出すといったものでした。
今から想えば子供騙しのようなものですが、集まった信者達の気分が高揚したり、あるいは祈りが最高潮に達したとき、用意されていた“奇蹟”が起ります。人々はそのことが自分自身に起きたことのように内化し、自分にも起り得るべく同化しようと必死になります。その熱情の発露は傍目には異様に映るでしょうし、正しく光景を叙述しょうとするとなかなか適当な言葉が見つからず、私は取り残されたかのように茫然となっていたものでした。
異常に高揚した気分の中では“奇蹟”が用意されたものであるか否かは信者にとって問題ではありませんし、全く疑おうはとしません。カタルシスの余韻を得て“奇蹟”を語り合い、あるいはシェア(発表)する信者の表情は妙に輝いて見えたものです。
“奇蹟”は聖書に書かれていることのタイムリーな証として、信者には大へん有り難いものですし、宗教システム運営者である教会側の人間にとっては信者達を懐柔していくためにも重要なもののようです。特に原理主義的なキリスト教系の新興の教団には著しくその傾向が見られましたし、TV報道や漏れ聞くところによると昨今でもそれには変わりがないようです。
当時もすでに私は十分天邪鬼で疑り深い性格でしたので、そうした実態を目の当たりすると違和感ばかりが心身を支配し、昂じた拒絶感によって当然のように以後は集会にもいかなくなり、教団からも離れていく結果になりました。
しかし、集会という閉鎖的空間の中で精神の浄化と高揚を鼓吹され続けたならば、誰もがいつの間にか強烈な刺激の中毒になってすっかり洗脳されてしまうでしょう。心に何か痛みや悩みを抱えている人ならば尚更のことです。事実、少し大きな集会や合宿集会等では“奇蹟”こそがクライマックスであり、参会者全員が待望していることでもありました。それはまた、信仰が大枠では思考停止と呼べるのにたいし、集会の状態を叙述するものとしては奇妙奇天烈で異様な熱気としか表現ができません。けれども、あの状況では人々の個々のエゴなどは簡単に何処かに吹っ飛んでしまうのではないかと思われます。
目撃談としては具体性に乏しいもので申し訳ありません。個人的な体験を自分が特定されないように披瀝するのには自ずと限界がある点をご容赦下さい。それにしても、もう少しヴィヴィッドに語れないものかと苦心惨憺していますが、それは私の次なる課題でもあります。
しかしながら、実際に体験するのも良かろうなどとこの種の集会への参加を勧めている訳ではありません。ただ、体験しないとクライテリアすることが困難なことがあるのも確かですし、精神の強靭さに自信があり、加えて余り深い悩みを抱えていない場合には、“奇蹟”を体験するのも一興であるとは思っています。
自身の体験で唯一つ否定が難しいのは、一心不乱に祈っているときの、あの感性が解き放たれたような法悦(エクスタシー)の状態でしょう。錯覚かも知れませんが、そのとき不思議にも周囲の人達の感性と同調したような感覚になることです。それを単にカタルシスの所産と片づけてしまうのには幾許か粗雑な分析の感が否めませんので、Carry That Weightさんの見解も伺ってみようと思った次第です。
また、会いましょう。