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(回答先: Re: “奇蹟”の周縁 投稿者 Carry That Weight 日時 2004 年 12 月 10 日 14:24:15)
Carry That Weightさん、こんにちは、早速のレスをありがとうございます。
>この「途方もない安堵感」こそが如往さんのお感じになられた法悦に他ならないのではないかと思うのです。ですが、それは一時のもので、我を殺さざるを得なかった状況(如往さんのように揺ぎ無い精神をお持ちの方にはそれで済んでも、人によってはこの体験を通じて洗脳されてしまう可能性もありますが)から開放されれば、悪夢に魘されていたかのような感覚が残存するだけではないでしょうか。
私は必ずしも「悪魔に魘されていたかのような感覚が残存するだけではない」と考えています。逆にそうした感覚刺激が絶えず反復されて増幅されると、恰も中毒症状に陥ったかのようで、さらにエクスタシーに至る過程では全く狂気の沙汰としか思えぬ様相を呈することになるでしょう。その先にあるのが「途方もない安堵感」であるかどうかは、私自身は完全に「降服」したとの自覚がないために明言ができずにいます。しかし、“奇蹟”の顕現に遭遇したり祈祷を終えた直後の信者達の表情を見た限りでは、Carry That Weightさんの指摘が的を射ているものでないと否定はできないと思っています。
本来ならば信者一人一人にたいし入信の動機や背景について面接調査を重ねながら、信仰心の萌芽の状況や要因を探究する必要があると思っています。もちろん総ての宗教に当て嵌まるものではないでしょうが、事一神教のキリスト教に関して言えば、表面には顕在化して来ない信者とそれ以外の人達との間にある隔絶は想いの外深いものであると感じています。実際、過去には機を捉えて幾度も信者達にインタヴューを試みましたが、結局は一般信者の本音を聞くことはできませんでした。寧ろ、決まって教団の幹部が出張ってきては全く埒の開かない会話に終始したものです。おそらく信者にたいし部外者と教義に絡む論争には及ばないようにと箝口令(かんこうれい)が敷かれているためではないでしょうか。反面、かくして信者達を護っているのだというのが幹部連中の言い分なのかも知れません。
私のような世人にとって世過ぎ身過ぎの大半は妥協の産物ですが、敬虔な信者なればこそ容易に妥協出来得ぬことが沢山あるのでしょう、人間性の根底のところで異質感や障壁の存在を発見することがしばしばあります。何か宗教という鎧に隔たられた人間関係の切断状況を物語っているような気がしてなりません。
「長年車椅子の生活を強いられ立つことさえ容易ではなかった人が突如歩き出す」や「医者からも見放された幼児期からの吃音の人が治癒して忽ち喋り出す」とは、取り分けキリスト教系団体の“奇蹟”の定番であるらしいのですが、重要なことはそれが教団にとっても必要な出来事であり、信者にとっても霊験あらたかなる“奇蹟”への臨場によって至福の思いを享受できるという構図が成立してしまっていることです。多少意味は違うでしょうが、彼のO真理教の信者達の心象風景にも“奇蹟”は存在し、信者の意識に強く刻印されていたことは確かでしょう。
今般、アンチキリスト666さんによる問題提起を受けてあれこれ考えてみましたが、私は聖書に纏わる問題を“奇蹟”を如何に取り扱うかといった問題と等価に見ています。聖書の解釈は“奇蹟”をどう捉えるか(受け入れるか)によって全く反転してしまうからです。
同様に、宗教システムに組み込まれてしまいがちな人間心理の解明も重要であると認識しています。アンチキリスト666さんは聖書の問題を俎上に乗せようとしつつ、裏面ではご自身が切実な問題を抱えていることの表明ではないかと余計な想像をしていますが、今は話が進んでいませんので何とも言えません。また、おそらくあのような遣り方で問題解決を図ろうとするのがアンチキリスト666さん独特のスタンスであろうと推察しています。ただし、これ以上は下司の勘繰りにもなり兼ねませんので、止めにしますが。
さて、多分Carry That Weightさんは既にお気づきの通り、私が心理学の分野で主に影響を受けているのはピアジェ(Jean Piaget)やエリクソン(Erik H .Erikson)の見識です。しかし何せ随分古い記憶からなるもので、引き出して照合・確認する作業では四苦八苦しています(大汗)。そんなぎごちなさを斟酌していただき、加えてCarry That Weightさんの興趣にも適うものならば、お互いに時間の許す範囲で宗教心理についてもう少し掘り下げてみたいと考えています。
また、会いましょう。