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(回答先: 私の補足です 投稿者 Carry That Weight 日時 2004 年 12 月 14 日 18:34:27)
Carry That Weightさん、レスをありがとうございます。私の方こそ相変わらずの間の空いたレスになってしまい申し訳ありません。
さて、ピアジェやエリクソンに関する私の知識は、案外底が浅いものでCarry That Weightさんを落胆させてしまうかも知れません。この二人の碩学を知ったのはLiberal artsで履修した「児童心理学」でした。日本の大学の教養課程は専門性を頼むに全く堪え得るものではありませんが、私にとっては少なくともインデックスの役割は十分果たしたと思っています。後に修士課程において「宗教心理学」を大枠にしてAssignmentを考えていましたが、人間行動[Behavior]の「動因」の解明という個人的テーマからも、児童心理学すなわち発達心理学的視座から発生学的に人格形成論を展開する重要性を意識することになりました。
私が依拠したピアジェやエリクソンの見識の主だったところを極々粗っぽく概括しますと、前者は乳児期から児童期にかけての所謂「発生的認識論」、後者は青年期から成人期にかけてのアイデンティティーの確立に関する考察です。
ピアジェの理論は私自身の子育て(娘)においても大いに示唆を受けたと感じています。その一つは乳児期において早くオムツを取ろうと焦らず、本人の満足のゆくまでさせていましたところ、同じ年頃の子供達よりも数ヶ月ほど遅れましたが、自分の方からオムツにサヨナラをしてパンツを履くようになり、夜尿症にもならずに下のほうの粗相の心配をまったくしなくてすんだ児童期を過ごしました。
人間の宗教心理の分析にあたっては主にエリクソンの認識に拠るところが大きいと思っています。ただし、エリクソンの「人生八段階における精神発達の様相」はやや予定調和的な感が否めず、特に児童期から青年期に到る自発性が目覚める過程で、既に洗礼を受けていて有形無形に教徒的心性を身につけていった人達には果たして自生的なアイデンティティーの萌芽と確立があり得るかといった疑義が生じます。
ピアジェとエリクソンに関して今回はこれくらいに止めたいと思います。ただ、一つだけ付け加えさせていだけますならば、偏狭な男性原理から私を解き放ってくれたのはユングの『男女両性具有論』だったと言えます。これについては、ここ阿修羅ではぷち熟女さんという得難い才知を得て、自身の体験を織り交ぜながら真剣で楽しい遣り取りをすることができました。
『男女両性具有論』に触れて爾来、頑なに男性原理に付き従い保守しようとする、キリスト教を代表格にした一神教的世界観に修復不可能とも云える違和感を覚えるようになりました。私の心象風景はアニマ(男性に潜む女性性)的なもので大部分を占められているわけではないのですが、アニマ的なもので何割かは占められていると自覚しています。また、そのように了解した方が勿論アイデンティティーについて論じるためにも、先ずは自身をより正確に理解することに繋がるのではないかと思っています。
>所謂「選民」意識、自らを特別視する傾向は必ずあります。問題は信じている自身を「絶対的」存在として捉え、プチ宣教師となって周囲を巻き込もうとし、それでも意に沿わない人間には諦め・憎悪の感情で接するケースが往々にしてあるということです。文字通り、自らの意思決定が宗教に乗っ取られた洗脳状態がそうさせたと言えましょう。
「選民」意識にも関連して前言を補いますと、「決まって教団の幹部が出張ってきては全く埒の開かない会話に終始したものです」に関して言えば、原理研(勝共連合⇒統一教会)の程度の低さは酷いものでしたが、エホバの証人(もののみの塔)も同列に置かれても仕方がないような、信じる者だけ護ってあげるといった対応でした。中でもモルモン教の在日米国人は宣教師でもあり教義に精通しているずなのに、一切議論には応じる気配がなく何やら宣教師がロボットにも見えて余計に本部の統制にたいする懐疑を深めたものです。さらに、「信者にたいし部外者と教義に絡む論争には及ばないようにと箝口令(かんこうれい)が敷かれている」は、殆どの宗教宗派に共通していると実感しました。
また、会いましょう。