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(回答先: 協同組合は関われば関わるほどその意義が感じられると思います。 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 4 月 16 日 00:15:51)
マルクス主義同志会のページで、宇野派経済学者の青木孝平氏との論争をみていたら、
http://homepage3.nifty.com/mcg/japan/theory/theo-index.html
逆に、青木氏側もワーカーズのアソシエーショ二ズムに触れていて、
つい、そちらを検索していたら、おそらく、ワーカーズ内でのことと思いますが、次のようなものをみつけました。私自身、まだ、ゆっくりは読んでませんが、ワヤクチャさんのいってるのは、こういう感じなのでしょうか?
http://www.workers-net.org/
以下、転載します。
協同組合的社会をめぐる諸論争
目次
前書き
1.協同組合の連合が商品生産を廃止する
@協同組合の連合とは何か?
A新しい「社会的個人」の登場
B生産手段の個人的所有は「再建」される
2.労働者革命とは何か? 国家の役割とは何か?
@資本主義が準備した革命の課題とは?
A生産手段の「国家への集中」はよけいな回り道だ
B労働者権力の果たすべき役割
C補足・その他
3.エンゲルス・レーニンの「国家主導社会主義」路線
@国家独占資本主義は「社会主義」への接近なのか?
Aロシア革命は「国営経済」路線を否定した
4.「社会主義=一工場」論は不適当だ
5.未来社会は科学的に構想できる
前書き
一連の飛鷹論文(「協同組合の連合は協同組合的社会を実現するか?」「共有を基礎に個人的所有もまた花開く」「『個人的所有の再建』をめぐる緒論から社会主義を考える」それぞれ『Workers』175,176,177〜189各号)を読んだが、それは本人もいっているように、多くの「マルクス主義者」「社会主義者」のいわば「常識」をわれわれに対置したものとなっている。つまり飛鷹さん個人の見解にとどまるものではないといえる。実際、同様の批判を何度か見聞きしている。たしかに、双方間に誤解やすれ違いもあるが、本質的な対立点も少なくないと思われる。だからこそ看過すべきではないと考えた次第である。今回、これら従来からの「社会主義・共産主義者の常識」に、辛辣になったら申し訳ないが、これらの人たちの再考を少しでも促せたらよいと考え、批判を試みた。同時に現代革命の輪郭をより鮮明にし、議論と運動の活性化を促せればとの期待もある。
(私が今回「反論」をしようとするのは、阿部文明の拙稿『アソシエーション社会への道』が直接批判されている部分が中心です。一連の飛鷹論文が繰り広げた他の論者への批判へは、強い関連がない限り取り上げません。彼らの見解は部分的にはともかく、全体としては我々と同じとはいえないからです。また、「協同組合的社会」については「ワーカーズ」の多数の見解ではありません。従ってそれを擁護するために書かれた本文は、「われわれ」と言った表現にも関わらず、「ワーカーズ」を代表したものではありません。あらかじめお断りしておきます。)
1.協同組合の連合が商品生産を廃止する
@協同組合の連合とは何か?
飛鷹さんは言う。
「なぜ(協同組合の)連合なのでしょうか。連合するなら、各主体は、独立しているはずです。……したがって生産物はまず協同組合の所有物として現象します。この共有された私有物は交換されるしかありません。かつての共同体と共同体の間に商品が自然発生的に発生してきたように。…もし生産物が商品とならないなら、各協同組合は、独立した主体ではありません。」(workers175)。
飛鷹さんの考えの前提は二つの点で誤っている。「独立」「自立」した生産単位は、その生産物を商品として交換するとは限らない、というのが第一点である。未開や原始の社会での経済交流は、文化人類学者達(E・サービスなど)によれば、疎遠な共同体間では「略奪」(歴史の中では、この不道徳的行為も立派な経済行為として認められなければならない)が一般的である。他方、友好的な共同体間での物資の交流は互酬的な「贈与」である。この点が重要である。共同体間の関係が友好的であれば、この経済交流は商品関係を取らない。歴史から何かを学ぼうとするなら是非銘記してほしい点だ(全面的社会変革のもとで、協同組合の「連合」は商品を廃止できる可能性の端緒を示しているのだ)。そして共同体間での物資の交流が商品交換として行われるのは、これらの中間の関係(敵対的ではないが友好的でもない)の共同体間で初めて発生するのである。
二つの原始的共同体があったとする。両者は地域的にも血族的にも近く、友好的な関係にあったとする。そうすれば両者の経済的関係は、物資の交換(商品交換)ではあり得ないのである。それは自分たちの生産物や取得物の相互提供なのである。地域の特産品や季節の収穫物を相互に提供する。売買やそのための交渉とは無縁で、多分に政治的意味合いも込めた互酬的な経済行為なのである。
* * *
では未来の共同体であるアソシエーション社会(今はその入り口としての協同組合的社会を念頭に置いているのだが)ではどうなるのだろうか。すでに、相互信頼関係にある共同体間の物資の交流は商品として現れないことを述べたが、それが自給自足経済時代の細々としたものであることは指摘されるまでもない。市場経済よりも「原始的」だとも言える。はるかに密接で全面的な経済交流を築きあげた現代社会では、何億という人々の必要な物資や労働が、必要なときに必要な場所に調達されなければならない。そのための高度な経済的統合性をもったシステムを、創り出さなければならない。それは資本主義の一時代によって準備されるほかなかった。
今や、血族的、地域的狭隘姓の変わりに、全人類的な交流と国際的文化の醸成がある。自給自足に近い小地域経済にかわって、地球規模での経済交流が開始されている。情報網や経済的交易も地球の一体化を推し進めている。小共同体に精神的にも物質的にも深く従属した人間から、国際的で個性的で自立した個人が成長しつつある。
資本主義権力とその法的諸関係を廃棄した後。ならびに資本主義の経済システム、すなわち利潤の追求を至上の目的とし、企業同士で激しく競争し、追い落とし、他方、労働者の健康や生活を省みず、環境や資源の保持を一顧だにしない経済を廃棄した後、このような条件下にあって、諸個人は、一定の経済的充足と引き替えにではあるが、自らが管理し所属する協同組合(註1)に労働を提供するであろう。さらにこうした諸協同組合は、「全国」的な経済的活動の中に、相互信頼をもって自らをリンクさせ、社会の有機的経済構成の一端を担うのである。
社会的有用労働の相互提供と互酬原理によって協同組合的社会は形作られる。これがアソシエイト(連合)するということである。このような社会構成を持つ以外に、現実に商品生産や資本の原理を克服することは出来ないであろう。かくして協同の経済(註2)が現代によみがえる(註3)。
飛鷹さんの言う「近代国家」や「労働者国家」はそれ自身では、どんなにあがいたとしても、資本主義もしたがって商品生産も廃止することは出来ない。後々述べるように、国家による強制や外的強力はこの点では何も解決できないのだ。
(註1)ここで「協同組合」というのは、資本主義下で形成された労働者協同組合を意味するばかりではない。パリ・コンミューンの故事にならって、経営者の逃亡した工場等、管理権を労働者が奪った生産・労働単位を「協同組合」と表現している。マルクスがこのことを「収奪者の収奪」と賞賛したのは有名なところである。労働者がささやかな資材や労力を提供して始められた資本主義下以来の「労働者協同組合」と、資本家の追放により成立した労働者管理の工場とは、成立過程が異なるとはいえ、革命後は本質的に両者を隔てるものは何もない。
(註2)協同の経済原理をモデル化して単純な形で述べておきたい。仮に千人(十億人でも良いのだが)の社会があったとする。そのうち百人は衣料工場を協同で運営し、社会全体に衣料品を提供する(決して商品として売るのではない)。もちろん原料や機械を提供する工場も必要だ。別の百人は建築労働を提供する。また別の百人は農作物を提供する。別の百人は医療・福祉労働を提供する等々。千人がそれぞれ自分を含めた全員のために労働や生産物を直接に提供しあう。自分たちの直接的な利用(消費)を目的とし、貨幣とか利潤を目的とはしない。これが最も単純な形での協同の経済である。言うまでもなく現実には無数の工場・労働単位が存在する。でたらめに労働したのでムダが出る。社会的需要を的確に確定すること、生産・労働単位(協同組合)が相互に密接に連携すること、そのための高度に発達した調整機構やさらには中・長期の経済水準等を社会的に確定する総合的な社会システムの創出などなどが不可欠だ。(私見については拙稿『アソシエーション社会への道』参照)
(註3)ここで付け足しに以下のことを述べておきたい。「アソシエーション革命」が全世界で同時に勝利していないような過渡期では、国際的には商品交換を廃止できない云々、ということを何度か聞かせられた。確かに革命国家や協同組合的社会と他の資本主義国家との経済関係は「商品交換」を媒介とせざるを得ない。しかし、協同の経済を取る社会(旧国家)関係にあっては、経済関係ははじめから労働(生産物)の相互提供として発展することができるであろう。たとえば日本とスイスが「協同組合的社会」になったとする。両者が従来それほど密接な経済関係がなくとも、互いに協同の経済を発展させようとするならば、商品、資本関係をはじめから排除することは可能であろう。
A新しい「社会的個人」の登場
このように、協同組合的社会での「自立した」「自覚的な」個人、あるいは彼らが構成する諸協同組合の「自立性」云々を我々が強調するのは、ブルジョア的思想への譲歩ではまったくない。われわれをこのような罪状によって責め立てる人々は、むしろ自らが、ブルジョア的思考の枠を越え出ることが出来ないでいるのではないか。飛鷹さんたち批判者の第二の誤りがここにあるように思われる。
資本主義的関係の中では、「個人」とはすなわち「私人」である。後で少し詳しく述べるが、そこにおいては「個人的所有」とはなるほど「私的所有」と同義である。しかし、協同的経済関係の中では「個人的」とは公的・社会的であることと何ら矛盾するものではない。いや、より明確に述べれば、労働者革命は個人と社会との対立すなわち資本主義的諸関係(私的所有)を排除し、再び個人と社会の統一を作り出すのである。
我々の文書から「個人的」「自立」「自由」云々の文言を切り出して「それは私有だ」「共有制と矛盾する」「ブルジョア社会と同じだ」「商品生産を廃止できない」と非難することが出来る人々は、結局のところ個人と社会が根本的に対立する存在であると深く信じ込んでいるということである。資本主義的諸関係を永遠の真実だと思いこんでいるのである。またしたがって、これらの人々は、マルクスの「共有(共同占有、と翻訳すべきところなのだがー阿部)を基礎とする個人的所有の再建」などと言う言葉を絶対に理解することが出来ないのである。「社会主義では生産手段の個人的所有などあってはならない!」と。そこから彼らの訳の分からない「マルクス解釈」やこじつけが延々とでてこざるを得ないのである。我々の批判者は率直に、この点でのマルクスの「ブルジョア思想への譲歩」や「ブルジョア的曖昧さ」を非難すべきではないのか。
さて、「私的所有」あるいは「私的」とは、ひとつの資本主義的疎外物である。それはその背後にある人間的共同性に対する悪性肉腫である。農村共同体の解体過程にその歴史的淵源をもち、周知のように近代において世界を席巻しているこれらの歴史所産物は、アソシエーション的革命によって、切除されなければならない。ここに個人と社会との統一性、しかも新しい止揚された両者の統一が実現される(開始される)のである。共同体に埋没せず、個性的で自由な個人、社会性を自発的に発揮する個人、社会・経済システムの転換に裏打ちされて、このような人々による共同社会への道が切り開かれる。
だから自立した自由な個人とか、同じく自立した協同組合の連合とかを「私的所有」「商品関係」と完全に同一視する頑迷さのなかに、むしろ批判者達の逆立ちしただけのブルジョア的制限を見いださざるを得ないのである。
あるいは批判者達は、「共同体」「共同所有」を古代や未開のレベルでしか想像できないのであろうか。「個性」「個別」「自由」はよくないと。「共同体社会」と相容れないと。近代の後に立ち現れる未来の共同体、アソシエーション社会の個人性と社会性、別言すれば個別性と共同性の新たな統合という歴史的契機を、彼らは全く理解しえないのであろう。そこでは自由で「社会的な個人」(註1)の自発性が、あらゆる社会運営の基軸となる。もっとも、ここで取り上げているのは「協同組合的社会」であり、アソシエーション社会のいりぐちにすぎない。とはいえ、この社会にあっても一定の制限(互酬制度)の元ではあれ人間のこうした社会性・自発性が発揮されなければ成り立たないのである。自立、個性、個別はできるだけ尊重されなければならない。近代的個人、市民の上に開かれる「社会的個人」とその新しい社会原理を、われわれの批判者達は理解することが出来ないであれこれ批判する。
(註1)もちろん「社会的でない人間」などはそもそも存在しない。ここでは明らかなようにブルジョア的な「私的個人」、排他的で協同的でない人間に対置して述べている。直接的に社会との共同性に立つ人間、また社会の全般のことを自分のものとして感じ考える人間として述べている。
B生産手段の個人的所有は「再興」される
このような次第だから、マルクスが「個人的所有の再建」云々と言うと、批判者達は大混乱に陥るほかはないのだ。「生産手段は個人的所有ではあり得ない」と。心配にはおよばない。マルクスも「共同占有に基づく…」と言っているのである。
マルクスの言う「自由なアソシエーション」は、言うまでもなく共同体社会であり、またしたがって生産諸手段の所有形態は共同所有なのである。しかし、それは過去の諸共同体とは違うのである(過去の共同体も多様であるが)。自由な社会的な個々人が協同して所有し管理し運営するのである。
諸個人はこの生産手段・社会的諸施設に対して、自らのものとして関わる。あるいは社会的に支出される労働を、自らに関わるものとして、自発的に「喜びに満ちて」行使する(註1)。このような共同所有に基づく新しい所有形態をのことを「個人的(個々人的)所有」とマルクスは言っているのである。批判者達が心配するように生産手段は「個人だけのもの」ではない。つまり何度も言うように私的(排他的)ではない。社会的な個々人が、共同所有される生産手段に対して「自分のものとして関わる・所有する」さらにいえば「自発的に関わる・積極的に関わる」ということである。このような「特殊」な共同所有と言える。これ以上の説明が必要なのであろうか。
一義的ではないが、未開の共同体は個人的な優越や個人的所有を「恥」として否定してきた。その後の農業共同体においても、個性や個人の能力(の発揮)には冷淡であった。過去の農業共同体は、土地などの個人的な利用を厳しく統制し、そうすることによって成立していたからである。個人的能力の発揮は農業共同体システムを混乱させるものとして忌避されたのであった。こうした過去の共同体の持つ特質は、「平等社会」のもう一つの側面として、生産の向上・発展あるいは技術革新の点では著しい停滞性をもたらした。ところが、農業共同体の解体過程で発生した新しい事態はこれらの関係を転倒させたのである。近代の個人的所有が、私的所有として過去の共同体の否定として現れ、こうした経緯の結果、近世から近代にかけての個人的な「私的所有」の台頭は生産・労働に対する熱意や創意工夫の刺激として強く作用したのであった。
こうした過去の共同体の欠点は今や克服される。アソシエーション的社会では、個々人が共同体を自らのものとして積極的に関わり、管理運営することによって停滞が突破されるのである。停滞は共同所有の宿阿でないことが示されるのである。
* * *
この章のまとめに入ろう。プロレタリア革命は、自ら占有する生産手段運輸手段その他社会的な施設を自主的に管理運営することを実現する。かくしてこれら各協同組合は全社会的な需要を考慮した労働・活動を自分たちの「占有する」諸施設・工場等を利用して開始するのである。革命後の労働者協同組合は「自立」していても、自分を含む社会のために有用労働(生産物)を提供する機関となっている。そのためには何をどのぐらい生産すべきかとかを把握し、全社会的に自分たちの労働を、幾多の調整を媒介として(コンピュータシステムがそれを可能とした)リンクさせるのである(註2)。だから、「独立」した各協同組合は「私的」ではなくはじめから社会的な「公的」な存在なのである。彼らの生み出す生産物ははじめから商品ではあり得ないのである。協同組合の連合社会が商品・資本関係を廃止するのである。アソシエーション社会への道はこうして切り開かれる。
(註1)このような「社会的個人」が成熟し完成するのは、資本主義後に直ちに成立するところの協同組合的社会ではまだ困難であろう。協同組合的社会の一時代の経験と社会の進化(経済的、技術的、精神的な)によって準備され、本来のアソシエーション社会で達成されるであろう。したがって「個人的所有」の再興も、こうした社会の進化にしたがって、本来のものとしてもたらせられるであろう。
(註2)本論においては、重要な意味を持つ「協同組合間の調整システム」がどのようなものでありうるかは、ここでは立ち入っては何ら考究されていない。私見については『アソシエーション社会への道』参照。
2.労働者革命とは何か?国家の役割とは何か?
@資本主義が準備した革命の課題とは?
飛鷹さんはさらにこのように言う。
「労働者は(革命で)収奪した生産手段を山分けしたりはしないでしょう。…労働者国家というという単一の協同組合(?)が登場します。」。
「ある運ちゃんは、シロ猫運輸の労働者であった自分が『国家』となり、その国家に生産手段が集中された結果、いつの間にか自分自身を雇っていることに気がつくでしょう」(workers175)。
協同組合と国家が同一視されているという問題は、後にあらためて検討しよう。さて、労働者の革命は、飛鷹さんがのべるように、生産諸手段の国家への集中を必然化するものなのであろうか?これは、労働者革命の歴史的課題というものを、根本的に誤解しているのではないかと思われる。
資本主義の発展がもたらしたものは、広がりゆく協業と、それに基づく生産諸手段あるいは社会的諸施設の労働者による共同占有である。ブルジョア権力とその法的体系は、資本家達の「所有」(註1)を高々と掲げているが、その実態は労働者が占有し、それらを動かしているのである。このことはゼネストの時に明らかになる。資本家達は生産や流通のコントロールを失う。労働者こそが多くの企業・公共事業体・社会的諸施設等の実質的占有者・潜在的運営者なのである(当然に個人経営的なものをのぞいて)。
労働者革命は、私的所有を共同所有に置き換えるものだと言われる。しかし、それは間違っていないが、下記の内容が正しくふまえられていなくてはならない。労働者革命は、すでに潜在的に労働者の共同占有にあるものを、その政治的・法的外皮である、ブルジョア的所有を吹き飛ばし、労働者が名実共にそれらの支配者になることである。何ももってない労働者が、どこからか所有物を獲得するのが革命なのではない。資本主義の発展の過程で、すでに「労働」(協業という集団労働)という形態で、労働者は生産手段等を自然的に「共同占有」しているという現実がある。それらを公然たる労働者の「所有」物に転換することなのである。こうして生産労働や有用労働は直接に社会的性格を獲得し、管理する施設を利用して、自分を含む社会のための活動を開始するのである。これが労働者革命の課題であり、またその直後の社会のあり方とならざるを得ないのである。革命といえども歴史が提起した課題を「段抜かし」で飛び越すことは出来ないのである。
* * *
トヨタのA工場、B工場。国家所有であった郵政C局、D局等々。あるいは「シロ猫運輸」ネットワークでもよい。労働者がすでに労働によって共同占有してきたものを公然たる労働者管理に置き換えるのである(註2)。この行為こそ、パリ・コンミューンでも、ロシア革命でも示された労働者革命の心髄である。マルクスは前者について「収奪者の収奪」と評した。労働者革命は、ブルジョア権力の打倒にとどまることなく、生産的諸力等を資本家の所有から労働者の所有に移し換える社会革命となる。労働者の中央政治権力はこうした過程を背後でバックアップし、あるいは前面にでて推進しなければならない。
したがって、こうした事態が一応完了すれば次に提起されるべきものは、こうした労働者管理の「諸企業」(協同組合)の社会的連合が開始されなければならない。これが労働者革命後の歴史的課題である。
各労働者協同組合は、人員数やその状態、労働能力、設備力、資材等を勘案して何をどこまで出来るかを(あるいは、何がどれだけ必要なのかを)全社会に提示する。何度かのフィードバックを通じて、全社会的経済運営に自己をリンクさせるのである。すでに述べたことではあるが、各協同組合は「中央当局の指令」や「国家の決議」の実行を一方的に求められるのではない、という意味では「自立」した「自主的」なものである。諸協同組合は、自立した対等なもの同士なのだから、経済の合理的な運営のためには「相互調整」が特色となる。他方、すでに私利私欲の追求の手段ではない、という意味では「私的」な性格を失っているのである。これが革命後に成立する、自立した協同組合の連合社会である。こうした社会こそが資本主義の無政府的生産、搾取、貧富の差、自然破壊エネルギーや資源の浪費等々を排除し、調和ある持続的な統一的経済を実現できるのだ。「自由なアソシエーション」(マルクス)への第一歩である。
(註1)形の上では、企業の所有者は株主である。彼らの選出した経営者が企業の管理運営を権を持つという事になる。ここで特に支障がない限りはそれらを一体のものとして取り扱っている。
(註2)本論では記述の簡略化のためにあえて論及しないが、協同組合的社会では、労働時間の短縮や個人的能力の増大とともに、複数の「職業」に、人々はつくようになるだろう。個々人が複数の職場・労働単位で働き管理するという新しい事態は、協同組合の連合をより強固なものとするであろう。アソシエーション社会へ向けての大きな前進ともなる。
A生産手段等の「国家への集中」はよけいな回り道だ
さて、上記の諸点を確認した上で、あらためて問題の核心に入らなければならない。資本主義が準備した労働者革命は、その歴史的必然性において、なんら生産諸手段の「国家への集中」ということを含んでいないのである。(資本主義の発展が、国家と経済の癒着をもたらしたという歴史過程は、むしろ労働者革命がそれを精算しなくてはならない。)
そればかりではない。生産諸手段の「国家への集中」は、労働者革命の歴史的性格に逆行さえするのである。労働者国家が多数者による民主的支配を実現するとはいえ、国家の運営は一部の代表者による管理・運営を越え出ることは出来ない。パリコンミューンをみよソビエトをみよ(註1)。このような組織が経済を管理するとすれば、資本主義が準備してきた労働者の共同占有を、労働者の支配管理権の確立へと成就することは出来ず、新たな経済的疎外の出発点を作り出すに過ぎないであろう。なぜなら、「労働者の代表」による管理・所有は「労働者自身」による直接の所有とは違うのは明らかである。国家機関に送り込まれた「労働者の代表達」は、政治的権力の行使のみならず、不本意にも経済管理権も「代表」することになるからだ。これでは他人所有を労働者の自己所有に転換することにもならない(革命の結果としては極めて中途半端なもの、あるいは不幸にして反動となろう)。だから、革命による労働者大衆の共同所有や自己所有の確立及び経済運営の実現を、全社会的に保証するには、こうした各協同組合の連合を必然的に伴うのである。なぜなら、そこにあっては個々の労働単位の「共同所有」のみならず、それをベースとして全社会的な経済調整と中・長期の経済プランの策定等々、全経済の運営に全ての労働者は関与できるからだ。こうしてこそ革命はその歴史的本性に従って前進できるのである。
飛鷹さんは、協同組合とその連合を「よけいな回り道」だと非難しているが、私には飛鷹さんのように「国家への生産手段の集中」などということこそが「よけいな回り道」に思える。必要性や必然性のないことをする意味はない。労働者革命はストレートに労働者自身の自己所有を確立すべきなのだ。どうして国家、すなわち民主的ではあろうが「労働者の代表」に獲得したものを差し出さなくてはいけないのか。そのような経済的な必然性や合理性は、少なくとも現在においてはどこにもないだろう。
協同組合の連合社会こそが、労働者の自己所有も全員による経済運営も直ちに実現できるのである。そのための革命ではないのか。
それとも批判者達は、労働者国家は少数の代表者ではなく、ゆくゆくは全員が参加し総労働者大衆のものになる、と言うのか。このような国家への「生産手段の集中」は、労働者による自己所有・共同所有を意味する、と言うのか。レーニンの見解(『国家と革命』)を無批判的に受け入れるべきではない。
第一に確認すべきは、この見解はどのような歴史的事実によっても証明されたことはない。パリコンミューンが示したのは、マルクスがコンミューンについて論じたように、また、上記したように、市民・労働者のもっとも献身的な代表者による機動的で安上がりな政治的統治機関である(べきであった)。全般的な経済の国家管理や「全員参加の国家」といった空想とは無縁であった(註2)。一方、ロシア革命(ソビエト権力)が示したものは、経済システム・管理の国家への集中(強いられたにしても)であり、それは国家を急速に肥大化させ官僚化・政権の腐敗を加速させた。権力の急速な変質と新たな経済的政治的疎外の発生をもたらせた。これが歴史の現実である。このような問題に一切論及せずに、「労働者国家への生産手段の集中」が労働者の解放になり、「社会主義」の実現になると、飛鷹さん達はすっかり決め込んで涼しい顔をしている。
(註1)パリコンミューン、ソビエト両「労働者権力」の場合でも、最良の状態でさえ全人民の武装を除けば、代表者による統治機構であったのは明白である。だから「労働者並の賃金」や「解任制度」などが必要なのである。「代表者達」の堕落や変質や暴走を牽制し、人民のコントロール下におく方策を要したのだ。「全人民の武装」も同様の意味合いもあるであろう。「権力の運営を代表者に(拘束)委任しているに過ぎない」と。全労働者人民こそ「主人」だと。であるなら、労働者が共同所有し運営するはずの「生産手段」―まさに革命の成果―を、これら代表者に委ねるなど本末転倒となろう。
(註2)パリコンミューンのもとで、郵政事業が継続された例や、二つばかりの工場を協同組合と共同で立ち上げようとしたなどの事例はある。が、基本的には「コンミューン」は政治権力であり、経済の国有化等とは全く無縁であった。階級闘争や内乱を戦い抜くべき政治権力は、その能力を発揮するためにも「代表者」の統治、あるいは権限のある程度の集中はさけられない。フランス大革命における公安委員会、パリ・コンミューン、ロシア革命のボルシェビキ権力等。それは善し悪しではなく大なり小なり避けられない傾向であった。むしろ、パリコンミューンは、こうした民主的で高度に集中された機動的権力機構を、速やかに創出出来なかったところに敗北の一因があった。
B労働者権力の果たすべき役割
もしかすると、労働者が、革命によって獲得した資産や設備を私利私欲のために、つまり「私的」に運営するのではないかということが、結局のところ批判者達の不安の源泉なのかもしれない。それでは元も子もなくなってしまい、資本主義を止揚することなどできないのは当然だ。革命のような動乱期に、このような逆行が絶対に生じないとは断言できないだろう。
だからこそ、ブルジョア権力が打倒された後も「政治的過渡期」はさけられないし、労働者の権力が必要なのである。労働者の全国権力が、こうした社会的生産手段等施設の、部分的簒奪や割譲を許さないのである。こうした政治的・行政的行為が「国家に生産手段を集中する」ことと明確に区別しうるものであることは明白であろう。
労働者権力の歴史的使命は、生産手段を自分自身の元に集中することではなく、「政治的過渡期」に対応した政治権力を行使することである。これが核心である。全国的な統一的行動、適切な機動性、有効な強制力等々をもって、こうした革命の過渡期を乗り切るための政治権力(警察、司法、立法、行政力等を併せ持つ)が求められているのである。労働者国家の歴史的使命はこれにつきると言っても過言ではない(註1)。もっとも献身的で鍛えられた労働者の代表者達が、労働者の権力機構に結集し、労働者の革命の成果、すなわち新たな労働者の共同所有(自己所有)を守り、また革命の前進の道を掃き清める役割を担うのである。
資本主義が発展させてきた労働者の共同占有を、公然たる共同所有・管理運営権の確立へと転換させること、これこそが革命の「主」たる内容であり、労働者国家は「従」であり、その道具にしか過ぎない。ところが批判者達は言う「生産手段を国家に集中させろ、それが社会主義への道だ」と。これはまさに転倒以外のなにものでもない。無反省なやり方で国家を肥大化させることは、革命を流産させることである。
言うまでもなく、ここで問題にしているのは科学的概念として、あるいは典型的な革命プロセスとしてであって、例外的措置として労働者権力が、直接に何らかの生産手段等を管理すること(たとえば放送局や軍需工場などの一時的管理)を、私といえども絶対的に否定しているのではない。こうしたことは時の状況によって変動しうる。ところが、飛鷹さんの論述は、労働者革命のその必然の姿として「生産手段の国家への集中」がいわれているのであり、それゆえに是認しがたい誤りであると思うのである。
(註1)労働者国家は、今からでは特定し得ないある時点で消滅するであろう。すなわち、階級の存在が無くなり、さらに協同組合的経済が、資本主義に取って代わる新しい信頼できる経済システムであることが事実によって確証され、全人民的な合意となり、したがって系統的な階級的な反乱が収束した時点である。国家に残されてきた全人民的に有用な公務は全てこの時点で協同組合の連合組織に引き継がれる。なを、誤解なきように願いたいが、労働者国家が消滅した後も全人民の武装は継続される。なぜならそれは、国家機構とは異質のもの、いやその反対物で全住民による自治の一形態であるからだ。人間がまだ「国家」を知らない太古の時代から維持している「制度」だからである。国家の消滅後、住民同士のトラブルや経済的不正や不公正など全ての社会問題は、それぞれに適切なレベルでの住民(協同組合)の直接的な決議をもって裁かれるであろう。レーニンは『国家と革命』で、すっかりこのことを忘れてしまって「階級が消滅してもルールを守らせるために国家は残る」云々とのべている。人間は国家が存在しなくとも一定の社会ルールを作りそれを守るシステムを創り出してきたのである。(拙稿『アソシエーション社会への道』参照)。
C補足・その他
私はこれまでのところで、日本など先進国革命のプロセスを前提として、労働者権力への「生産手段の集中」は不必要だと言ってきた。しかし、ロシア革命が示したように、後進的諸国の革命にあっては、依然として、革命後の「国家主導による」経済建設路線が強められる可能性がある。ロシア革命については前記したように、レーニン達革命指導者のビジョンとして経済の国家化が容認された面があるが、客観的な社会の後進性(註1)、大衆の未成熟の問題があった。端的には共同占有する各職場・工場の労働者が自分たちで自分たちの工場等を管理運営できなかったという現実があった。内乱や干渉戦争がさらに国家による管理を促したのであった。労働者の選抜された代表者達に、経済管理全般をゆだねざるを得なかったのである(これもうまくいかなかったのだが)。しかしこうした事態は、さらに権力の上方への集中や、旧ツアーリー官僚の復帰をもたらさざるを得なかったのだ。
このように、後進的な地域の革命にあっては、労働者市民の成熟度や自覚の度合いによって、それが低ければ、これらの不足分を国家が補おうとする衝動が生じるであろう(註2)。労働者国家に結集した先進的な労働者や人民の代表者が、大衆に代わって管理しようと。それは確かにさけられない傾向ではある。が、こうした事態は革命にとって新たな困難となるであろう。
* * *
この節の冒頭で少し触れたように、飛鷹さんは労働者国家は「単一の協同組合」になるとしている。さらにそれを「単一の労働者共同体」ともみなしている。重複するが引用しよう。
「(労働者革命後)労働者国家という単一の協同組合が登場します。…これは協同組合的組織ですが『的』であるにすぎずもはや協同組合と呼ぶのは不適当です。労働者共同体と呼びましょう」(workers175)。
しかしこれは概念の混乱ではないかと思われる。すでに述べてきたように、この「協同組合国家」とは何者なのだろうか。科学的歴史概念足りうるのか。さらに驚くことは、労働者「国家」と労働者「共同体」を同一視していることである。労働者「国家」は、多数者の代表による支配であること、それ故に階級の消滅とともに自分自身も消滅する、という点ではかつての国家とは区別されている。それを「半国家」と称する人もいる。それはいい。しかし他方では、労働者国家もまた国家であり、階級支配の道具であること、階級闘争の存在によって規定されている点では従来の国家と同じであることを忘れてはならない。だから、飛鷹さんのように労働者国家と労働者共同体を同一視するのは危険な間違いである。端的に言えば「国家」とは抑圧的・暴力的力を主要な属性とする機関である。他方「共同体」は融和的社会(システム)を意味するであろう。どうしてそれらが同じであり得るのか? なぜ飛鷹さんはこんな事を言うのか。
(註1)20世紀初頭のロシアは、一方では、依然として農民が八割を占め、半封建的な支配と、古い農耕技術で低い生産性にとどまっていた。が、他方では世界で第五位の工業力を持ち、工業生産諸力の発展はめざましいものがあった。したがって当時のロシアを単に「後進国」と規定するのは不当な、誤解を呼び起こす誤った認識と言わねばならない。それにもかかわらず、「社会主義」(協同組合的社会)を直ちに実現できる諸条件を当時は十分には生み出していない、という意味で、ここでは「後進性」「後進的」と述べているのである。
(註2)『共産党宣言』でも、その末尾に革命後の諸方策として、いくつかの「国有化」が述べられている。しかし、これを革命後に普遍的に妥当する路線として提起しているとは解せられない。これは当時の18世紀前半のヨーロッパの現状から書かれたものであろう。当時はイギリスを除けば産業革命も起きていなかったのである。こうした「後進性」を考慮してマルクスらは「国有化」による生産の向上を提起しているのであろう。これらの部分は歴史的な文書としての意味しかないと考える。現代にそのまま引き写そうとは、我々の批判者達でさえ考えていないと思うが。
3.エンゲルス、レーニンの「国家主導社会主義」路線
@国家独占資本主義は「社会主義」への接近なのか?
飛鷹さんと我々の見解の対立は、言うまでもなくエンゲルスやレーニンの「革命プロセス論」をどう評価するのかということに帰着する。これまで論じてきた点と重複する部分もあるが、ここではあらためてエンゲルスやレーニンの見解を検討してみよう。
20世紀を前にして「安上がりの小さな政府」「夜警国家」はすでに過去のものとなり、国家による経済への介入が顕著なものとなった。先進国を中心に国家と独占企業の癒着が現れ、後発諸国にあっては諸産業の育成のためにも国家が巨大なテコとなってきたのである。エンゲルス・レーニンらの革命像にこうした時代の反映を指摘できるであろう。
レーニンは言う。
「客観的な事態は、戦争が資本主義の発展を促進し、資本主義が帝国主義へ、独占から国営へ前進したことを示している。これら全てのことは、社会主義革命を近づけ、そのための客観情勢をつくりだした」(一九一七年五月七日の報告より)。
「国家独占資本主義が、社会主義のためのもっとも完全な物質的準備であり、社会主義の入り口であり、それと社会主義と名付けられる一段の間にはどんな中間段階もないような歴史の段階の一段である」「ユンカー=資本家国家のかわりに、地主=資本家国家のかわりに、革命的民主主義国家をもってきたまえ。そうすれば、真に革命的民主主義国家のもとでは、国家独占資本主義が、不可避的に社会主義に向かっての一歩あるいは数歩を意味することがわかるだろう」。(『差し迫る破局それとどう闘うか』)。
20世紀の直前まで生きて独占や国家の肥大化を目の当たりにしたエンゲルスも同様の見解を述べている。
「資本主義的生産様式は、大規模な社会化された生産手段の国有への転化をますます促進することによって、それ自身この変革を遂行するための道を指し示している。プロレタリアートは国家権力を掌握して、生産手段をまず国有に転化させる。だが、そうすることによってプロレタリアートは、プロレタリアートとしての自分自身を廃棄し、それによって一切の階級差別や階級対立を廃棄し、したがってまた国家としての国家をも廃棄する」(『空想から科学へ』)
レーニンやエンゲルスにあっては、資本主義的独占や国有企業を管理統御する強大な国家独占資本主義体制は、社会主義の前夜であった。そこでは国家が生産的手段をたばね、生産の「社会化」が飛躍的に高まったと考えた。そしてブルジョア国家がそれらを統制しうるのならば、そこに革命的な労働者権力を置き換えてみよう。広範な生産手段を管理する労働者国家は社会主義への前進であると。彼らは、このように大筋で理解したのである。いや、理解したばかりでなく、ロシア革命の指導的人物であったレーニンは、こうした認識を革命の実践の中でも適応させてきた。レーニン一人ではなく、当時のロシアの革命家は多くがこうした労働者権力による「国営経済」を「社会主義に向かっての一大前進」であり、当然のものとして受け入れていたと推測される。
飛鷹さんによれば、カウツキーも同様の見解をもっていたようだ。エンゲルス、カウツキー、レーニンなどのマルクス主義のそうそうたる代表者達がそのように言うのだから、「国家独占資本主義」は社会主義への接近であり、また「生産手段の国家への集中」こそ「社会主義」への道だと、飛鷹さんが考えたとしても当然のことなのかもしれない。それはたしかに「マルクス主義の常識」であった。しかし、その後の歴史過程は厳粛にそれを否定したのである。歴史的にも論理的にも現在においてはこうした理論は生き残る余地を失ったのである。
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まずはじめに、そもそも資本主義社会が20世紀を目の前にして、後に国家独占資本主義と呼ばれるようになった体制を構築し始めたのか、を今一度簡単に整理するところから始めよう。
資本主義の競争がもたらした集中集積は独占資本を生み出した。主要産業における巨大資本は国家との人的・制度的なパイプをつくりあげた。また、国家側からしても、有力企業を通じての経済の一定の管理を実現できるために、両者の癒着は深まった。資本主義経済のもたらす経済的熱狂や恐慌は、社会不安を生み出し、階級闘争を激化させてきたのであった。国家の介入は、不況・恐慌を除くことは出来なくともある程度緩和させることはかのうであった。階級闘争の懐柔にも国家は一定の役割を見いだした。さらに当時頻発化した帝国主義戦争の危機は、国家の肥大化と経済の統制に大きく踏み出すきっかけを与えたのであった等々。(当時の日本やロシアの場合は、現代で言えば「開発独裁」や国家資本主義、つまり後発国の産業振興体制という面も強かった)
さて、エンゲルスやレーニンのこの点での誤り(少なくとも現代では)はどこにあるのか。資本の集中・集積による巨大企業の形成の歴史過程は、疑いもなく「社会主義の要素」の形成であった。労働者の協業に基づく共同占有を拡大し他方では生産・流通管理技術等を生み出したからである。しかし、現代の国家独占資本主義体制はそのようなものではない。資本主義のもとで国家が経済に介入し、経済を管理統制するプロセスの中に、「社会主義に引き継がれうる経済システム」のようなものを、見いだすことは出来ないからである。
現代の国家独占資本主義は、大まかに言って、財政・金融政策と行政による指導管理によって経済に関与している。さらに国・公営事業が付け加わる。このうち財政・金融政策は、国家の巨大な財政・金融力によって、直接または間接的に経済に影響を行使しようとするものである。このなかに労働者権力が利用でき「社会主義」に引き継ぐものは何もないのは明らかであろう。公共投資や日銀による金利の操作などは「社会主義の経済システム」に引き継がれえないのは当然である。それらは資本主義ならではの方策である。
また、行政面から見れば国家は、中央・地方の行政部門である省庁・地方公共団体さらには司法などの国家諸機関を拡大し、法体系を整備しかくして資本の管理部門と連携を深めてきた。それは確かに国家を要(かなめ)とした大企業の提携であるといえる。しかし(それゆえにと言うべきか)国家独占資本主義の作りだした行政システムはは、全国の経済を自在に管理・運営しうるような高度で簡便なシステムではない。国家独占資本主義の行政機構に見られる経済「管理システム」も、労働者権力が引き継いで「社会主義建設に利用」出来るようなシロモノではない。ここにあるのは政・官・財の癒着やそのための談合組織である。もし、こんなものを「社会主義のために利用」しようとするなら、労働者権力は官僚を筆頭とする旧勢力の厚い壁の中でもだえ死ぬであろう。それを実行したレーニンは苦悶と失意の中で倒れた。われわれはそこから何も学ばなかったのか(註1)?
したがって、国家独占資本主義のもとでの「国家による資本の管理」は「生産手段の社会性の拡大」「社会化」とは評価できない。労働者の共同占有・共同所有を拡大するものでは少しもないのは明らかである。形式的な「資本の社会化」に目をくらまされてはならない。もし国家が、巨大な鉄道会社を立ち上げ、全国に輸送網を確立したとする。それはなるほど生産力の向上、労働者の共同占有の拡大等々「社会主義の要素」を作り出したと言える。しかし、こうした積極面を持っていたのも過去の話である。現代の国家独占資本主義にはほとんど当てはまらないであろう。
また、国家独占資本主義はエンゲルスなどの予想を裏切り、「国有」資本を切り捨てつつさえある。日本のような典型的な国家独占資本主義国でも、生産的資本・運輸資本・通信資本などの国有企業を切り捨て、ますます寄生的な性格を深めつつある。さらに昨今の巨大企業、とりわけ金融機関の倒産など一連の流れは、近代の国家も資本主義経済の管理どころか、これを支えきれなくなっていることを示している。さらに財政の巨額な赤字は、国家の衰退の証であり国家独占資本主義の無力化・腐朽化を象徴している。
プロレタリア革命は、こうした巨大な寄生体と化したブルジョア国家を解体し廃止し、残された有用な部門は、すぐさまできるだけ社会それ自身に(労働者の組織に)その諸機能を返還させなければならない。たとえば国営企業、福利厚生事業、公共事業体等は、多くのものを労働者の直接の管理に移されなければならない。旧国・公営事業群でも労働者の共同所有を実現化し協同組合の連合として真の社会的「公務」を推進しなければならないのだ。そして肝心の「全国」的な経済の調整システムは、協同組合の連合が自ら、全く新しくうち立てなければならない(もちろん通信施設などのインフラはそっくり引き継ぐが)。これこそ現代革命の使命なのである。
(註1)レーニンは十月革命直前の自著『国家と革命』で、マルクスに依拠しつつ「労働者は出来合のブルジョア国家を利用できない」と明言した。確かに、十月革命は行政、司法、議会そして軍隊をひとたびは解体した(のちに旧ツアーリー官僚・将校を呼び戻したにしても)。ただし重要な例外があった。それは旧経済機構である。ロシア革命は、旧ツアーリーや臨時政府の戦時統制機関を看板だけを掛け替えて、そのまま残した(『パリコンミューンと十月革命』平舘利雄等著参照)。すでにレーニンからの引用にあるように、武装した労働者権力が国家独占資本主義の経済管理力を利用しようとしたからである。しかし、それは「社会主義」を生み出すどころか国家権力の変質の一つのテコとなった。レーニンの路線は明らかに間違っていたのである。ブルジョア的経済機構(国家経済機構もトラスト団も)も、革命において、当然ながら解体されるべきであったのだ。
Aロシア革命は「国営経済」路線を否定した
ここまで、国家独占資本主義における国有資本や経済の国家管理を、「社会主義への要素」として積極的に評価することは出来ないことを述べてきた。では革命後の労働者国家への「生産手段の集中」はどうなのか。それは「社会主義革命」を推進する上でさけ得ない必要なものなのであろうか。すでに理論的には批判を加えてきたが、ここでは歴史的な検証をしよう。これについては、ロシア革命とその後の過程が明確な答えをすでに出しているであろう。
革命ロシアでは経済の国家化は顕著な形で進行した。この革命の過程では主力をなした工場委員会とかミール(スホード)が、社会建設の中では国家管理に置き換えられ、また規制の対象とすらなっていった。たとえば、労働者権力の土台とでもいうべき工場委員会は、旧ツアーリー官僚の巣窟の看板だけを塗り替えたにすぎない「最高経済国民会議」に統合された(前節・註1参照)。内乱の長期化や、それがもとで最も開明的な労働者が大量に死亡したり、あるいは社会全般の文化のレベルに規定されて、工場労働者の管理能力が当時は低く、彼らによる管理・運営が困難であったという事態が、生産手段等の「国家への集中」を正当化し加速させたという現実もあった(もちろん、工場委員会やミールを尊重したからと言って、ロシア革命が社会主義を実現できたと主張しているのではない。新社会建設の要素が他にいくつも欠けていたからである。)。その意味では当時の革命後のロシアでは、生産手段の「国家への集中」はある程度は不可避の問題であったし、従って国家の官僚化・革命国家の変質も不可避であった。「戦時共産主義」と言われる時代まで経済の国家化は不可逆なところまで進行した。首都モスクワでは十人に一人は何らかの国家経済機関で働いていたと言われる。革命権力は「ツアーリー政府を顔色なからしめるほどの巨大で無能な官僚機関を生み出した」(ポロック)。労働者国家の肥大化と変質(これらは表裏一体のものだ)は相乗的に展開していったのであった。ネップ(新経済政策)は、経済に対する国家の統制を一定後退させ、農民に経済的自由を保障し商業・工業面でも商品経済を復活させたが、国家の官僚化を押しとどめるものではなかった。革命から十年と経たない1926年頃には、スターリンを頂点とする新しい官僚機構が(新しい階級が!)この社会を完全に掌握し始めたのであった。
こうしてレーニンらの革命当時の時代認識や革命像が完全に破綻したのは、その後の歴史が示したとおりである。「労働者(農民)国家への生産手段の集中」は「社会主義への接近」をもたらしはしなかった。それどころか、権力のブルジョア的変質を加速させたと言わざるを得ないのである。
ロシア革命は、「国家独占資本主義」(戦時統制機構)の経済管理機構を残し、革命後の産業・経済管理をつかさどらせた。それが「社会主義」ではなく、国家資本主義(註1)に帰着したのは当然の帰結と言わねばならない。しかし、現代のわれわれは同じ道を通る必要はない。いや、通るべきではない。現代の労働者の知的水準や技術的・経済的管理能力は飛躍的に高まっているからだ。資本主義の元で発展してきた労働者による生産手段・社会的諸施設の共同占有を、革命は管理運営権の確立へと転化する。そして現代のコンピュータシステムをフルに利用して、労働者協同組合の連合社会の実現に前進すべきなのだ。協同組合の連合が全社会的な有機的経済システムを実現し、調和ある社会運営を可能とするのである。くりかえしになるが、「国家独占資本主義」の経済管理機構を利用とか「労働者国家への生産手段の集中」等は、二十一世紀の先進国革命においては、不必要な回り道にしか過ぎない。革命の大道からはずれることを意味する。
(註1)国家資本主義とは、後発資本主義における国家主導の資本形成をさす。旧ソ連、中国、北朝鮮等「社会主義国」以外では、60年代から80年代頃の韓国や台湾等々に相当する。また、20世紀初頭のツアーリーの体制自体が、このような性格をすでに持っていたが、ロシア革命後のスターリン体制は、一層極端な形での国家資本主義の登場となった。もっとも後者の体制は内外的な諸事情によって、軍産複合体が社会の枢軸に居座る、退廃的なものへと変貌し社会の衰退を結果したのだが。(拙著『どこへゆく?ロシア』参照)
4.「社会主義=一工場」論は不適当だ
我々の批判者は「社会主義=一工場」論、「巨大工場=社会主義モデル」論を大概の場合堅持している。つまり工場・職場の「連合」では商品生産を廃止できない、社会(国家)があたかも一工場のように統合されていなければならない、と。資本主義でも巨大工場内部では、生産物は商品として現れない、社会主義とは全社会にこうした工場を押し広めたようなものだ、と。
明確に体系化されているわけではないが、こうした比喩(あるいはイメージ)が一人歩きし、むしろ「社会主義」の誤った観念と深いところで結びついている。欠陥を指摘しておくことは無意味ではないと思う。
批判者達の予想に反して(?)、われわれが「社会主義=一工場論」に不賛成なのは、生産過程が全体として「一糸乱れず」「計画的に」「統一的に」運営されることを意味するからではない。また、その結果生産物が商品として現れないということではもちろんない。協同組合的社会にあって、社会的総生産過程あるいは分配過程が厳密に計算され、一つの計画に統合されたものであるのは当然のことである。ここには批判者側からする、一定の誤解やすれ違いもあるが、それだけではない。両者の見解の本質的な対立も伏在しているのだ。
批判者達の例を見てみよう。飛鷹さんの場合は「協同組合の連合」を批判した直後、次の見解を対置した。
「現代の巨大株式会社をことごとく乗っ取り、国民的規模で結合すれば、一社会=一工場が生まれ出るでしょう」(Woerkers 186号)。
これではすれ違いに終わっていると言わざるを得ない。「国民的規模で結合」して「一工場」あるいは別の表現では「単一の協同組合」さらには「単一の労働者共同体」と表現してもそれは単なる比喩以上のものではないはずだ。現実には無数の、労働者の手に渡った工場・職場が全国に散らばっているのである。では「誰」が「どのようにして」これらに経済の統一性をもたらしうるのかは、まるで分からない。
飛鷹さん達批判者はこれらの点でどう考えているのか。そこが極めて曖昧である。もし、労働者の管理する諸協同組合による、水平的な相互調整による管理・運営でないとすれば、すなわち協同組合の「連合」でないとすれば、何なのか? 何らかの外的強制、つまり高い権限を持ち指令を与える選抜された管理部門をわざわざ創るのか。あるいは結局同じ事だが、「労働者の代表者」で構成される国家が、経済の重要な決定を担うのか。これらの管理機構による経済全体の統合を「一工場」と称しているのか。確かに、資本主義の工場と類似した組織ではある。しかし、すでに述べたように、それらは労働者による生産手段の自己所有・自己管理という根本問題に抵触するのは言うまでもない。
もし、飛鷹さんが生産手段等に対する全労働者による経済運営の自己決定・生産手段の自己所有を否定したくないのであれば、無数の工場・職場における労働者の自己管理と、他方での、コンピュータシステムをフルに利用した相互調整機構を認めざるを得ないであろう。繰り返しになるが、我々はそれをパリコンミューンの故事にもならって「協同組合」の連合と呼んでいるのである。
結論に移ろう。「社会主義=一工場論」が、「統一的な経済」「商品の廃止」を象徴するだけなら間違いとは言えない。しかし、この未来社会の持つ一層重大な諸特徴をスポイルする危険がある。労働者による生産手段の自己所有、経済の管理運営権の所在等々が曖昧ないしは見失われる。なるほど、資本主義の巨大工場は「統一性」があり生産物は内部において「商品とならない」。しかし、このような「統一性」は企業による強権(労働者の無権利・無所有)によって初めて実現されているという現実があるはずだ。このような「統一性」「商品の廃止」では話にならない(現実には不可能でもある)。
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「社会主義」(協同組合的社会と言いたいところだが)では、相互信頼のもと、高度な経済的統合性を実現し、その結果商品がない、生産物が商品としてあらわれない、というのはもちろんのことである。しかし、そのことは社会的諸関係の総体が生み出す一つの結果に過ぎず、背後の社会関係の理解と正しく結びついてこそ意味を持つのである。「社会主義=一工場」論は、社会主義が商品関係を廃止したものだという一点にこだわりすぎ、背後にある社会関係(労働者の自己所有等)をあまりに軽視しすぎている。だからこそこの比喩は、「国営社会主義」や「国家主導社会主義」論者に好まれるのであろう。
アソシエーション的社会は、資本主義の大企業や国家が権力によって「外的」強制力に基づいて統合してきたのとは根本的に違うのである(註1)。個々の企業・職場は上からの指令や外的強制によって運営されるのではなく、労働者自らが掌握し積極的に責任を持って管理し、同時に社会への連帯のもと、相互交通の中で全ては決定される。「上」がなく対等なものの連合である。双方的な関係である。外的・強制的ではなく自主性をもって決定される。協同組合的社会は、互酬原則と共同体的精神を土台として、まさにこのような全社会の有機的統合を実現するのである。だからこそ生産物は商品として現れないのだ(それは重要だが、ほんの一つの結果に過ぎない)。
批判者達はこのことが分からない。だから我々が自由主義を愛好しているから「連合」等という言葉をもてあそんでいると考えているのだ。マルクス主義など分からない輩だと。まあ、何でも勝手に言ってくれ。
アソシエーション的社会の経済システムを、我々のよく知っている何か別の事例で例えるとすれば、生物・生命体の方がはるかに適切なように思われる。有機的な統一。これがキーワードである。生命体に見られる有機的で統一的な運動は、個々の部分、たとえば内蔵とか血管とかあるいは白血球やリンパ球さらには細胞が、相対的に自立していることにある。自立しながら他の機関と密接にコンタクトを取りフィードバックを繰り返すことによって統合されているのである。自律神経やホルモンや酵素がその役割を担う。生物体は細胞の何億という巨大な集制体である。こうしたものが高度な統合性を維持できるのは、各部分の自立性と、それらを相互に結びつけ、調整を可能とする相互交通システムのたまものなのである。
これに対して、歯車やベルトなどによって構成されるメカニカルな結合も、一見「統一的」に見える。ただし、個々の歯車などの部品は、受動的で自立性や自己主張はない。全運動は明かに外部から指令として加えられほかはない。これは確かに資本主義の工場にふさわしい。われわれの批判者達が好む「社会主義=一工場」論は、このような色合いを強くにじませているのである。だから資本主義の「巨大工場」を協同組合的社会の例えに使うことは不可能である。少なくとも不適切である、と言わなければならない。批判者達「正統派マルキスト」は、一皮むけばブルジョア的観念に支配されているのがこの場所でも示される。資本主義工場がメカニカルな結合、外的強制とそれへの隷属に本質的な特徴を持つ限り、協同組合的社会の特徴として「自立」や「連合」をわれわれが強調せざるを得ないのは当然であろう(註2)。
個々の生産・労働単位が自立しているということは、協同組合的社会にとって不可欠の要素なのである。自分たちの労働単位を、まず十分に掌握し積極的に管理しなくてはならない。そしてそれぞれ一つの方向性を持たなければならない。無数の生産・労働単位と絶え間のない相互調整が、全体の経済に統一性を持たせる事ができるのである。資本主義下の国際企業などでは、組織や工場の驚嘆すべき巨大さが語られる。それは過去の歴史の中ではそうである。しかし協同組合的社会と比べればあまりにも粗末なものと見えるであろう。 協同組合的社会以後の経済組織は、一地域、旧一国、全世界的規模で、全産業の広がりゆく統合を創り出すであろう。このような超巨大組織の統合は、個々人そして個々の労働単位の積極的かつ能動的な性質を引き出すことなくしては不可能である、と私は断言する。資本主義流の強制的な外的な統合の体系は、この次元では全く古くさい不合理なものであることが証明されるであろう。
(註1)資本主義のもとでの労働にも、すでに労働者の「自発性」を見ることはできる。労働力はすでに自分のものであり、賃金などの経済的刺激によってそれは導き出される。その意味では奴隷労働とは違う。しかし、ここでは生産過程(経済)の管理運営について論じているので、これらのものは労働者にとっては指令として「外的」に押しつけられたものである。
(註2)さらに次の事情も付け加わる。すなわち、長年にわたって旧ソ連が良くも悪くも「社会主義社会」であると流布されてきたからである。この社会にあって経済の管理運営権は、省・企業長などの上層部が把握しており、労働者は若干の生活保障と引き替えに、無権利状態にあった。こうした社会とそのイデオロギーであるスターリニズム(「社会主義=一工場」論を含む)が、マルクスのアソシエーションと何の関わりもないもの、その反対物であることを明確にするためにも、労働者による自立した協同組合とその連合社会を押し出す必要があるだろう。
5.未来社会は科学的に構想できる
われわれはこの問題に関しても、少しだけ述べなければならない。ここでも飛鷹さんの意見をまず聞いてみよう。
「社会は人間が作り出すにせよ、人間の意志で思うままになるものでなく、一定の法則、制限の中で作られるものであることをマルクスやエンゲルスがは発見しました。…このときから理性ある社会主義者は、その綱領=プログラムに未来の見取り図を描き出す努力をやめました」(Workers186号)。
内容が理解しがたいのである。決して意地悪でいうのではないが、まるで逆ではないのか? 飛鷹さんは「社会法則が発見された」から「未来の予想を考えるのが無意味」になったというが、「社会法則が発見された」から「未来の予想が立つようになった」ではないのか。我々は極めて単純に、まさにそのように考えている。
さらに、二点について付け加えておきたい。
未来社会の見取り図を描くことがまるで「空想社会主義者」であるかのように非難される。そうではないだろう。空想社会主義者の「空想性」は、人類史、特に近代の資本主義の正しい批判と克服の道を、科学的に見いだしていないことにあるはずだ。だから彼らの考えは改良主義的であり、フーリエなどに典型的に見られるように、階級闘争と結びつかずいきおい説得力を持たせるために壮大かつ詳細なプランの提案となった。フーリエなどは各共同体(ファランクス)のあるべき人員(1620人)や建築物の間取りまで一律に「科学的に」規定した。そんなことは全く不可能であろう。こんなものと我々を同一視してほしくない。
マルクス主義に基づいて、科学的に未来社会を構想することは何らそれ自体否定されるべきではないだろう。いや、むしろ闘いの目標は鮮明なほど良いのである。二十一世紀を前にして、マルクスのアソシエーションを形成する材料は、豊富に出そろってきたと我々は考えている。こうした素材から、マルクスの時代よりもはるかに鮮明に新社会の輪郭を理解できると考えるのがどうして間違っているのだろうか。遠くから新大陸を眺め見るよりも、間近でそれを観察した方が情報量も増大し、より一層の理解を得ることができる。当然のことではないか。「目標(未来社会)」だけではなくそのための戦略・戦術についても同様だろう。それが出来切れていない現状は、「ソ連社会主義」による思想的混乱や、あるいは我々の努力不足によるものだ。
ただし、科学性を維持するためには、不確定で見通しの建たない部分は、そっちょくにみとめてゆく、安易に想像でうめあわせるべきではない、という自戒はもちろん必要であろう。良い点ばかり並べたがるのも、自重しなければならない。われわれはいずれにせよ、概略によって満足するほかはない。
他方、科学性の許す限り生き生きと未来社会を描き出す努力はあってよいのではないか。ちょうど原始人の生活を化石などから推定し、コンピュータグラフィックで生き生きと「ビジュアル」に描き出すように。残念ながら、われわれはまだまだその段階に至っていないが。
追記
本論や『アソシエーション社会への道』などで、レーニンやエンゲルスの「批判」を展開したことについて、述べたい。私個人は、彼らのことを社会科学の功績者として、言うまでもなく高く評価している。レーニンは同時に傑出した革命家であり、私などが「批判」するのはおこがましい限りだとも考える。
が、問題は、レーニンやエンゲルスの主張を、文字通り金科玉条としてる人たちが、未だにいることである。こういう人たちと議論をする場合は、立脚点としてのレーニンらにさかのぼって、対立点を明確にする必要がある。このような経緯が、「批判」という形になってしまう。
マルクスにしてもエンゲルスやレーニンにしても、歴史の見通しや理論にいろいろ誤りがあり、是正してゆくのは当然のことだと私は考える。こうした接し方の方が、社会科学の創始者達にふさわしい態度ではないかと思うのである。
2000.12.1 以上