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(回答先: 理論なき行動は死、行動なき理論は無。 投稿者 如往 日時 2005 年 4 月 06 日 19:13:13)
如往さん、こんばんは。
私は言葉が現実を生み出すとも思っております。
例えばネオコンは言葉からあのような振る舞いを始めたのでしょう。
カルトも「あなたを幸せにする」という言葉で多くの人を騙し続けてきたのです。
従って言葉には力があるのです。
理論と行動と言いますが、あらゆる行動は理論に裏打ちされているのです。
理論を徹底すればその理論を持った人の行動もおのずと変わってくると思います。
私は縄文ビトさんを批判する事によって「労働の売買の禁止」という主張を掲げてデモをする事を牽制しているのです。
「そんな事をしても無駄である。」と。
言葉が行動を制御するのです。
「行動なき理論」というものは無いと思います。
理論として提示されている以上、既に行動は為されているのです。
特にこのような公開の掲示板で議論を戦わす事には大きな価値があります。
それは立派な行動です。
>理論なき行動は死、行動なき理論は無。
このような二元論を私は廃したいと思います。
理論と行動は常に密接に繋がっているのです。
現実離れした理論が行動を生み出さないだけです。
>http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/807.html
>投稿者 如往 日時 2005 年 4 月 06 日 19:13:13: yYpAQC0AqSUqI
>(回答先: 縄文ビトさんの論理 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 4 月 05 日 >23:44:22)
> ワヤクチャさん、こんにちは。
こんばんは。
> 尚、スパルタコスポノさんには割り込みレスになりましたことお詫び申し上げます。
> あの時代、どの大学にも校舎や教室の壁には「理論なき行動は死、行動なき理論は>無。」(H.マルクーゼ)の落書が見られました。
この二元論が躓きの元であったと思います。
>60年代後半から70年代前半にかけての新左翼運動の実存主義的性格を象徴する成句>です。
> もちろん、理論の構築よりは行動を強調することで自身を鼓舞し、同時に他者との連>帯を企図したものであるのは言うまでもありません。
取りあえずバリケードを築くというようなノリもあったかに聞いております。
何か形から入っていった弱さを私は感じるのです。
理論なき盲動(これは差別用語か?)のように思えます。
動いてその結果何を得たのでしょうか?
>少なくとも当時の私はそう受けとめて運動に参加しましたし、民青(日共系)以外では>あればどんなセクトであってもよかったものです。
確かに何か「異議申し立て」をするという事には意味があったのでしょう。
しかし、もっと言葉が生み出されてもよかったのではないかと思っております。
>そんな不明瞭で付和雷同的な発意から運動に飛び込んだことが尾を引いているのか、現>状の分派闘争にはあまり興味がありません。
私も意味が解りません。
あまり違いが無いように見える同士で何故あそこまでいがみ合うのか不明です。
統一戦線思想の欠如です。
>けれども、敢えて申し上げれば、近年の荒岱介氏の環境派的な言説からもブントの生き>残りである戦旗派は表面的には政治的色彩が褪せて社会的な視座に身を引いてしまって>いると感じています。
環境派の選択は正しいと思います。
そこには具体的課題があるからです。
具体的課題を提示しない運動は無です。
>ただし、派閥闘争を含めて今も尚政治活動に勤しんでいる革共同関連の動向については>論及することは控えたいと思います。
いや、本来は大いに論ずるべきものでしょう。
しかし、そのような論評以前に我々自身で組織を作る必要があると思います。
> それでも、ソ連は全く過去のことになりつつありますが、今も現役である中共で起き>た天安門事件に関する既成新左翼の認識やその動向を、私と同様に団塊の世代で新左翼>運動に係わった人間は注視していると想います。それほど天安門事件は左翼思想につい>て再点検を迫らせずにはおかない問題でしたし、私にとっては人間の思想的・宗教的営>為を再考する契機にもなりました。
あれは何だったのでしょうかね?
中共よりも実務的に能力を持った人々の運動だったのでしょうか?
> ところで、縄文ビトさんにたいする疑念絡みで私の率直な感想を述べますと、縄文ビ>トさんに欠落しているのは政治的行動(体験)であると想います。
私もそれは思います。
「労働の売買の禁止」などというプラカードを持ってデモをするという発想は活動家のものではありません。
活動家は常にいかに支持を集めるかを考えているからです。
突飛な表現を使おうとはしないものです。
>今では私は「理論なき行動は死、行動なき理論は無。」を、綿密に仮説を立てて実際に>検証すべしとの意味で捉え、さらに検証結果を新たな仮説に反映させていく作業が重要>であるというように考えています。
そういう反復は確かに必要です。
>縄文ビトさんの言説が一向に進化しないのはおそらく検証過程の欠如に起因しているの>ではないでしょうか。
というか批判に耳を貸さないからではないですか?
批判を受け入れる事を通じて人と理論は進化していくのです。
>さらに、若き頃より経済活動に突入せざるを得ず、また長らく経済的な問題の解決に勤>しまざるを得なかったことで、学際的な方法を習得する境遇とは無縁の状態のおかれた>ことが縄文ビトさんにとっては不幸であったと思います。
言論活動には年季が必要ですね。
それこそ生まれた時からの経過の総決算が言論には出ると思います。
>これらは楢篠賢司氏(=縄文ビトさん)の著書を手にして判ったことなのですが。
> 社会的政治的なテーマを検証なくして、すなわち思考実験のみで論証するのには相当>な学際的な能力を要するでしょう。
でしょうね。
私は公開対話と横レスありというこのネットの世界でこそ理論は最も進化すると考えております。
1人で本を書いてしまうと予定調和的な緊張感の無い理論になってしまうと思っております。
>無論、私にはそのような才能はありません。
私もです。
というかもう本を書くという時代でも無くなるでしょう。
逆にネットでの対話をそのまま本にした方が面白いって感じになってきているのでは?
>ですから、マルクスやレーニンを耽読したことがないと吐露されている縄文ビトさん>>が、彼等の理論を超えられると簡単に言ってのけることに非常に違和感を覚えていまし>た。
それはおかしいですね。
ほとんど傲慢でしょう。
理解せずに乗り越える事ができる思想などありません。
> ここ阿修羅では私は相変わらず交通整理の役回りを演じることが多く、
大事な役割ですね。
>人間行動学の本質的な部分に迫っているかというと、決して満足のゆくものではありま>せん。
そうなんですね。
>それは元々阿修羅に投稿した切っ掛けが投稿者間の話が噛み合っていないと感じたこ>と、そして、早々反応ではなく応答すべきであると公言してしまったことによりますし、>爾来寄稿するときの弁えとして書籍や備忘録を検索して臨むのが習慣化し、そうこうし>ていると忽ちのうちにスレッドが流れて時宜を逸してしまったことがよくあります。
マジメな方ですね。
私は反射的に反応しております。
また、ネットではそれでもいいと甘えております。
後は相手が言う事をどれだけ理解するかだけです。
>その点あっしらさんは同等の人間が複数いるのではないかと紛うほど、適宜にかつ精力>的に応答されてもいましたので、その博覧強記ぶりには驚嘆も尊敬もしていました。
いえ、対話は発想の泉なのです。
書かれた内容によってまた新たな思考が生産されるのです。
自分の頭にひらめいた事を全て書くという訓練をすればそうなっていきます。
あっしらさんには私ももっと学ぼうとは思っているのですが。
>> そして、『ここ阿修羅議論板は一つには各自にとっての思考実験の場であり、抽象>論が飛び交うことは必然的な現象です。
そうですね。
思考実験の場です。
抽象論も結構、問題は対話が成立するかどうかだけです。
>逆にアナロジーという抽象を重ねていかなければ思考実験は成立しないでしょう。
そうですね。
>互いが互いの思考実験の受け手もしくは媒介項となってそれぞれの思索を深めていく、>それが阿修羅の醸し出しているシチュエーションであると考えます。
はい。
>後はかかる成果を己の行動原理に如何に組み込むかは各自の裁量に任されているのでは>ないでしょうか。』
はい。
>との認識に至っては、あっしらさんの一聯の投稿姿勢に学ぶところが大きいものでし>た。
> >我々が生きる為には労働の売買は必要悪なのです。後は資本の制御をするだけです。
> こうした認識は今回の縄文ビトさんとのやり取りから得られたものではなく、おそら>く元々ワヤクチャさんの問題意識の照準には十分入っていたことでしょう。
ソ連の崩壊と市場経済の勝利を目の当たりにした時に考えた事です。
1989年ぐらいからです。
市場に対してどのように制御するのかという事が課題でした。
その時に柄谷行人氏の「可能なるコミュニズム」を読み協同組合による生産管理という発想をマルクスが持っていたという事を知りました。
スティグリッツ、ポール・クルーグマン、金子勝、内橋克人、宇沢弘文といった人々にも引かれるものがあります。
>私は、今後は我々人類が生み出してしまった本能(id)の異形である資本の運動を如何>に制御すべきか、人類が自らの叡智(ego)を働かせて対処していかねばならぬと考え>ています。
私も同じです。
人間が生み出したものを人間が制御できないワケは無いと思っております。
また資本の運動は明らかになっていると思います。
様々な方法で制御は可能です。
税制、生産手段の所有形態が柱です。
権力によって資本を支配するのです。
今は資本が権力を支配しているのです。
社会主義運動は労働者権力という名の官僚支配によって資本の支配に失敗し官僚が資本に溺れてしまったのです。
>中でもワヤクチャさんが提起されている資本(生産手段)の労働者による分有化は重要>な視点を与えてくれていると言えますし、導入方法や一般化の方法については今後とも>多くの知恵を集めて研究していかねばならぬ課題であると感じています。
ありがとうございます。
こういう事は公明盛大に論議してこそ価値があると思います。
民主的経済システムを模索していきましょう。
>さらに、税制改革は労働者が資本を入手するための資金手当てに資することにもなりま>すので、導入を円滑にすすめるための条件整備になるかも知れないと想像しています。
その通りです。
> しかし、今後の阿修羅がワヤクチャさんや私にとって思考実験を重ねていくための土>壌にあるのか不確かです。
もっといい場所があるのであればそちらに移る事もやぶさかではありません。
ブログをするのは1つの方法ですね。
>それとも、私達の方に現実的な投企や体験の不足が生じているのかも知れません。
それはあるでしょう。
しかし、動き出す為には現実的な理論が必要なのです。
理論の圧倒的な現実性によって行動はおのずと開始されるでしょう。
カルトでもあれだけの理論準備をするのですから我々はそれを凌駕しなければならないのです。
レオ・シュトラウスを批判しなければならないのです。
>その点では縄文ビトさんという存在はその良き反照なのかも、
行動なき理論のですか?
そうでしょう。
ネットで公開で議論するという事は町で公開討論会を開催している事と同じ事なのです。
町でやったら行動でネットでやったら行動では無いという事は無いでしょう。
>そんな思いにもさせられました。「行動なき理論は無」にならぬように理論の断続点を>何らかの実践で繋げていく必要があると感じますし、
無理やり何かの行動をするべきではありません。
理論が煮詰まればおのずと行動したくなるものです。
ATTACのようにね。
>同時並行して権力やその一群に誑かされて「理論なき行動は死」にならぬように情報を>精査し現象を洞察すべく研鑚していかなければならぬと思っています。
同感です。
情報収集活動は最も必要な行動です。
> また、会いましょう。
では、また。