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houさんへ
あなたの薦めてくださった「貧困と飢餓」という本を読んでおりますが、その中で最初に出てくる、第一章 貧困と権限、(広辞苑によれば〔法〕ある行為を正当化する法律上の原因)
P3の文章の中にある「所有関係の及ぶ範囲は、経済体制によって大いに異なる場合がある。社会主義経済は「生産手段」の私的所有を容認しないから、自らの労働とごく単純な機具、原材料のみしか用いない場合を除き、「生産に基づく権原」は通用しなくなる。資本主義経済は生産手段の私的所有を認めるだけでなく、生産手段の私的所有がまさにその存立基盤の一つでもある。これに対し、奴隷経済が容認しているようなある人間の他者による所有を、資本主義経済は――社会主義経済同様に――認めない。社会主義経済は、ある人が他者を生産目的で雇用すること、すなわち生産に用いるために労働力を私的に売買する可能性を制限するかもしれない。資本主義経済はもちろんこうした制限をしないが、長期にわたる労働力供給を義務付ける契約の拘束力については制限を設けるかもしれない。
まず一点目=社会主義経済は「生産手段」の私的所有を容認しないから、という点ですが、私の見方ではアマルティア・セン氏が社会主義を一面的に捉えているということが出来ます。それはマルクスが描いた社会主義社会・共産主義社会像から、旧ソビエト連邦、他、数カ国が革命を通して社会主義社会になりましたが、私はマルクスが間違いをしてしまったと考えています。
それは私有財産の否定から始まったことだといえますが、私が人間の生い立ちから現在までの歴史を通じて言っていることは、私有財産が不平等の原因ではなく、ここが重要なことなのですが。
不平等の原因は『他者の労働の私有化』そのものだといっているのです。これからだんだんと「人間とは何か」という論の中で日本の縄文時代を書いていきますがその社会は『他者の労働の私有化が無い社会』だと言い切れます。それは『階級とは何か・階層とは何か』という定義づけから、縄文時代には階層が無かった社会であった。つまり、100万年もしくは500万年の中のわずか2300年以前のこの日本の社会には平等な社会があったのです。
その社会では労働は各自の専門的分野で行っていたといえるものもあります。例としては、丸木舟を造る者、その船で大海へ漕ぎ出し漁をするもの、火炎土器・縄文のビーナス像・仮面の女王・そして私の本の表紙に取り入れている鼻曲がり土面と言う現在でも考え付かないようなアイデアを持った芸術的な製作者がいたのです。
これらの上記に挙げたものは誰でも出来ることではないと考えます。つまり専門的な分野があり、ある面では分業が行われていたことを示します。そして御用学者がどんなに言おうとも階層があった、つまり不平等な社会であったという考古学的な遺跡は発見されていないのです。
日本における不平等の発生は弥生時代からだといえます。日本では世界的にもまれなほど、相当な文化があったことにもかかわらず現在の資本主義社会の元を作った『他者の労働の私有化』が始まったのは弥生時代になってからだといえます。縄文時代には不平等は無かったのです。
この作者が権原【民法では=権利の発生する原因「占有の権限」】となっているように、資本主義社会の法律の中で資本主義的立場を強調しているのではないですか。なぜか私はそのように見ますが。
Houさんの意見を聞かせてください。
次に進みます。『奴隷経済が容認しているようなある人間の他者による所有を、資本主義経済は――社会主義経済同様に――認めない。社会主義経済は、ある人が他者を生産目的で雇用すること、すなわち生産に用いるために労働力を私的に売買する可能性を制限するかもしれない。資本主義経済はもちろんこうした制限をしないが』上記文章より引用
資本主義経済も社会主義経済同様奴隷制を容認しないということでは同じであると解釈が成り立ちますが。ここでも私は現在の労働を売り買いする社会は、なんら奴隷制社会と変わらないといっているわけですから、この本の作者と根本的な部分での考え方の食い違いがあります。
奴隷というのは、金銭によって労働を買う行為ではなく人間自体を買う行為であると考えがちですが。根本的には労働を買う行為なのです。なぜならその奴隷が病弱であったり、老齢であった時、彼、もしくは彼女は買われることは無いのです。つまり買ったとしても労働が出来ないものは奴隷としての商品価値が無いからです。ここでは労働が出来るかどうかが問題であるわけです。
奴隷でも労働する者として条件的に会わないものは、犬・猫・牛馬・にも劣るものとして社会保障が有るわけでなく、結果的には食する物も無く、住むところも無く、家族とも別れ孤独の中で自分の人生を閉じていく、このように書くと奴隷と現在の労働の売り買いする社会での労働が売れなかった者となんら変わらないのではないですか。
つまり両者とも同じレベルの「他者により労働を私有化される社会」であるところからくる人間否定ということが出来ます。
「貧困と飢饉」という本を読んで最初の部分でこの作者と考え方が違うということを理解することが出来ました。そこからなぜhouさんがこの本を買って読めということを薦めたのか、自分で議論をしたくても力がないと感じて他人の本を使い私に議論をさせようという卑劣なやり方が感じられましたが、もし違うのであれば責任上私と議論をしていかなくてはなりませんよ。
反論をお待ちいたします。
まだ第2章3の不平等アプローチでも議論が出来ますが。次回機会がありましたら書いていきます。