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日本人は縄文人と渡来系弥生人のハイブリッド
荒 岱介
http://www.bund.org/opinion/20040915-2.htm
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あら・たいすけ
1945年生まれ。社会運動家。著書に『ハイデガー解釈』『行動するエチカ』『環境革命の世紀へ』『破天荒伝』『大逆のゲリラ』『反体制的考察』など。
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日本人は単一民族なんて大ウソ
教育基本法の改定問題、日の丸・君が代の強制など、近頃日本の教育現場では愛国心が強調されている。みな皇国史観に連なる動きだが、しかしそもそも日本人、日本文化とは何なのか。その起源や成り立ちを歴史に照らした上で「愛国心」についても論じるべきだ。
君は縄文系? 弥生系?
みなさん、まず隣の人の目をよく見てください。今日の学習会はここからやる以外ないのですよ(笑)。「私たちはどこから来たのか」ですが、鼻の両脇の蒙古襞を見てほしいのです。上瞼の一番鼻に寄ってる側が、下瞼に対して被さっている人はいませんか。これが蒙古襞で、渡来系弥生人の顔の特徴だと言われています。
僕らはあまり気にしていないけれど、西洋人が東洋人を見るとき、この蒙古襞がすごく気になるらしい。蒙古襞はモンゴロイドのなかでも、新モンゴロイドと呼ばれる人たちの特徴です。「蒙古襞の出現頻度」という表を見て下さい。これで見ると、縄文系が強いと言われてるアイヌの人では、男性で5人に1人ぐらいしか出ない。畿内つまり近畿地方では、男性は2人に1人ぐらい蒙古襞がある。朝鮮南部では62.6%の率で蒙古襞が出現します。
今から2300〜1700年前の弥生時代、この蒙古襞のある人々(渡来系弥生人)が対馬海峡を越えて日本列島に渡ってきたということです。彼らの多くは北九州から瀬戸内海沿岸、そして畿内に住み着いた。表には京都の女性の65.2%には蒙古襞があるとでています。つまり畿内の奈良や京都は渡来人の都だということです。
それに対して、目頭から目尻までくっきりと二重になっている二重瞼は、縄文系の特徴です。弥生人の渡来以前から日本列島に住んでいた縄文人には二重瞼が多く、蒙古襞は余り見られないのです。縄文系とされるアイヌの人の96.8%が二重瞼なのに対して、朝鮮南部では二重瞼は42.1%しかいない。沖縄の人も縄文系だと言われてきたが、今はちょっと違うんじゃないかといわれています。
その他にも縄文系と弥生系では異なった特徴があります。まず耳です。耳たぶがツルンとくっ付いてるのは弥生系。分離型の耳たぶ=福耳は縄文系です。それからエラが張ってるのは縄文系で、細顎で歯がでかいのは弥生系です。青森の三内丸山遺跡は縄文の里ですが、縄文の遺跡から出土する人骨と、佐賀の吉野ヶ里など弥生の遺跡から出土する人骨ではサイズが違うのです。弥生人のほうが平均で6センチぐらい大きい。それらから縄文系か弥生系か、顔を見ただけでだいたい分かるというのが、考古学では言われていることです。
縄文時代・弥生時代とか言うけれど、縄文人と弥生人は人種が違うのです。東大名誉教授の埴原和郎さんなどの提唱する「日本人二重起源説」ですね。弥生時代から大和朝廷の時代までに、ざっと100万人ぐらいの人々が朝鮮半島ないし中国から、海を渡って日本列島にやってきたと考えられるのです。この渡来系弥生人と、元々の縄文人の混血の末裔が現代日本人となった。全く純粋な弥生人もいなければ、全く純粋の縄文人もいない。みんな混血しているから、今の日本人は縄文系の特徴と弥生系の特徴を両方持っているということです。
何でこれが問題となるのか。かつて戦前の日本では、「皇祖皇宗」(天照大神や神武天皇など神話から続く万世一系の天皇の系統)とか、「日本民族の単一性」とかが強調された。今でも「新しい歴史教科書をつくる会」などの一部の右翼勢力は、『古事記』を歴史のようにあつかうなどしています。でもそんなのは、現在の考古学や人類学の研究成果に照らし合わせれば全くの誤りです。単一民族云々などというのは、それこそ「神話」でしかない。
外国人にとって、日本人ほど顔の違う民族は珍しいのだそうです。ジャパニーズは、チャイニーズやコリアンと区別がつかない。ヨーロッパだと、イタリア人はイタリア人、フランス人はフランス人と一目で区別がつくらしい。どうして日本人が分かりづらいのか。混血が進んで「これが日本人」という顔の特徴がないからです。蒙古襞とか二重瞼とか混ざっているのです。つまりわれわれはみんな混血、ブレンド人種なのです。
平和な縄文、戦争の弥生
教育基本法の改定問題とか、日の丸・君が代の強制とか、近頃日本の教育現場では愛国心が強調されています。みな皇国史観に連なる動きですが、しかしそもそも日本人、日本文化って何なのか。その起源や成り立ちについて、きちんと学問的に押さえた上で「愛国心」についても論じた方がいい。論者はまず自分の顔見て、「オレの顔は縄文系? 弥生系?」とやればいい。言っておくけど、蒙古襞があるからダメなわけじゃないですよ。どっちが良いとか悪いとか言うのがおかしいということです(笑)。
ちなみに縄文人は争いをしなかったと言われています。縄文時代の1万年間、人々が争った形跡はない。それに対して弥生人は争いを繰り返していた。弥生遺跡で有名な吉野ヶ里や山口県の土井ヶ浜遺跡が特徴的ですが、弥生集落は幅6m、深さ3mもの濠に二重三重に囲まれています(環濠集落)。この濠について、当初は稲作のために水を温めるための濠だと考えられた。ところが集落跡を発掘していくと争いの跡がたくさん出てきた。首が切られた人骨や、鏃(ヤジリ)の刺さった人骨が大量に出土した。それで環濠は、外からの襲撃に備えた防御施設だったんではないかと考えられるようになった。
縄文集落には環濠なんかないのです。縄文の1万年以上の間、人々は争うこともなく、日々平和に暮らしていた。そこに渡来人が争いを持ち込んできた。これは間違いない。でも渡来系弥生人が縄文人を駆逐してしまうことはなく、どこかで争いをやめて融合するようになった。この渾然一体と融和の精神は、今に続く日本人の特徴かもしれないのです。その点でも、完全を求める革命的左翼はダメだな(笑)。
それはともかく、1万年以上続いた縄文時代は、いわば定常状態の社会だった。水稲耕作が持ち込まれた弥生は、米の単作ということの中で戦いが内包されるようになった。それ以降、古墳時代、大和時代と、現代に通じるような社会制度が形成されていったのです。
そういう点から、「争いのない平和な縄文が良い」と主張する人たちもいるわけです。三内丸山遺跡などの発掘が進んだとき、縄文はブームになりました。それでか、例えば元赤軍派議長の塩見(孝也)さんなど、突然「縄文、縄文」と言い出して、「俺は争いは嫌いだ。昔からそうだ」とか言っていた。誰が? お前こそ弥生人そのものじゃないか(笑)と、私は思いましたが。
私は考古学や人類学なんてまるで素人です。研究してるわけでもない。それでNHKスペシャル「日本人はるかな旅」で紹介されていた研究成果あたりを軸に話を進めます。ブント独自の研究なんてないからね。これはちゃんと断っておきます。
縄文人はシベリアからやってきた
最近、発掘された縄文人の人骨からミトコンドリアDNAを抽出し、それを世界各地の人々と比較する研究が行われています。その結果、20数体の縄文人のミトコンドリアDNAの内、17体がシベリアのバイカル湖周辺に住むブリヤート人と同じだということがわかった。南方の人々と同じDNAは数体しかでていないのです。
つまり、かつては「日本人は南方から来た」というのが定説だったのですが、どうも日本人の祖先はシベリアからやって来たらしい。日本人の祖先がシベリヤからやってきた証拠は、ミトコンドリアDNAだけではありません。シベリヤで2万3000年前のマリタ遺跡という遺跡が見つかり、そこから人骨と共に細石刃(サイセキジン)を植刃した槍が出土した。このシベリアで出土したのとそっくり同じ細石刃が、北海道からも出土しています。
細石刃というのは、黒曜石などを割って剃刀の刃のように加工した石片を、鹿の骨などの両側面に植刃して槍の穂先のようにしたものです。シベリアに移動した人類は、この細石刃の槍でマンモスなどの大型動物を狩っていた。でも、人間が手槍でマンモスを狩ることなんて果たして可能なのか。それで実験考古学者が実際に細石刃を植刃した手槍を作ってみると、ものすごい破壊力で、動物の皮を簡単に突き破ってしまった。当時の人々はマンモスを池や沼地に追い込み動けなくなったところを、細石刃で仕留めたらしい。そうやって、夏の間に仕留めた肉を貯蔵して、冬の間はそれを食べていたんですね。
当時シベリアにマンモスなどが生息できたのは、夏の間の緑があったからです。ところが氷河期の寒冷化が強まると夏の緑もなくなります。マンモスは南下を開始し、その一部はサハリンを通って北海道へと移動した。そのマンモスを追ってシベリアの人々も北海道にやってきたのです。それを証拠づけるのが、北海道から出土している細石刃の存在になります。
そこで問題なのは海です。現在は大陸とサハリン、北海道、そして本州は海峡によって隔てられています。マンモスや私たちの祖先はどうやって海を渡ったのか。
氷河期には海面は今より100mも低かったのです。大陸とサハリン・北海道は陸続きだった。深い津軽海峡も今よりずっと狭まっていて、厳冬期には氷結した。朝鮮半島との間の対馬海峡など十数キロの幅しかなかった。日本列島は事実上、大陸と地続きだったということです。
マンモスを追ってシベリアからやってきた人々は、約2万年前に北海道に到達した。その後マンモスは人間に狩られて絶滅してしまった。そうやって様々な野生動物を絶滅させてきたのが人類の歴史なんですね。
その後人類は野生生物の絶滅だけではあきたらず、地球上の化石燃料まで使い果たして、いまや自ら滅亡への道をひた走っています。アメリカはなりふりかまわぬ石油争奪戦争をはじめた。しかしそんなことをしても、結局は資源枯渇と環境破壊による人類滅亡を早めるだけなのはまちがいないことです。
それはともかく、マンモスなどの大型動物が絶滅してしまった後、列島に住みついた縄文人は、シカとかイノシシやウサギなど小動物を狩りの対象にするようになった。それで狩猟道具も鈍重な大型動物をたおす細石刃から、俊敏な小型動物を狩るための鏃(ヤジリ)などにかわっていく。しかしそんな小動物だけで全ての食料をまかなうには無理があります。やがて縄文人は、ドングリや栗の採取などの草食生活へと移っていきます。
渡来は南方から、朝鮮半島から
一方、それとは別に南方から海流を伝って来た人たちもいたと考えられています。鹿児島にある上野原遺跡は9500年前の遺跡ですが、そこから出る土器や石器には、南方系の特徴がはっきりと残っています。例えば石を磨いてつくった彫刻刀のような磨製石斧の丸ノミ。彼らはこの磨製石斧の石ノミで丸木船を造り、黒潮に乗って鹿児島にやってきた。沖縄では港川人という人骨が発見されていますが、同じような磨製石斧が一緒に出土しています。
現代人は石器で丸木船が作れるのかとおもってしまいますが、実験考古学ではその実験もされています。磨製石斧を使って直径30センチぐらいの木を切り倒してみたのですが、なんと30分位で切り倒された。磨製石斧はへたな鉄の斧とかわらないぐらいよくきれるものだったのです。だから丸木船をくりぬくこともできたんですね。
しかしおよそ6300年前、現在の薩摩硫黄島付近にある鬼界カルデラが大爆発を起こした。上野原遺跡は火砕流と噴煙で埋もれてしまい、南方系の人々は途絶えてしまったらしい。南方から来た人たちも縄文系になるのだけれど、主力は北方系ということになるわけです。
そもそも有史以前の古代には、国境とかいうものはなかった。国境に検問所や国境警備隊がいて通行を妨害するなんてことはなかったし、パスポートやビザなんてもちろんなかった。古代人には国なんてなかったわけだから、自由に往来できた。だからサハリン・北海道を経由して北方から、黒潮にのって南方から、東シナ海をわたって中国から、対馬海峡を越えて朝鮮半島からと、さまざまな人々が日本列島にやって来た。彼らは各地に集落をつくって暮らしていた。そこから成立したのが縄文時代です。つまり私たち日本人の祖先は、そもそも外からやってきたのです。
今、東アジア共同体とか「東アジア共同の家」とか言っても、確かに今になっては、国境や民族の壁を越えてアジアの人々が結びつくのは難しい。それはその通りなのだけれども、ちょっと時代をさかのぼれば、国境や民族なんていう制約は一切ない形で、シベリアやアジアの人々が自由に移動し、交流しあっていた時代があったわけです。私たち「日本人」はそのルーツにしてからが、もともと土着していたのではないことは知っておくべきことです。
対馬暖流が全てを変えた
縄文時代は1万3000年前から2300年前まで、1万年以上続いています。縄文というと狩猟採集生活といわれるけれど、三内丸山遺跡などを見ると、独自の縄文文化が花開いていたこともわかっています。一方、弥生時代は600年間ぐらいで、縄文とは比べようもない年月の差がある。弥生というのは、縄文時代(先史時代)から古墳時代(有史時代)への過渡期でしかないと言えるのです。
そしてこの日本列島で縄文文化が花開いたのは、実は日本海に暖流(対馬暖流)が流れ込むようになったことが一番の契機だった。それ以前は暖流は太平洋側にしか流れていなかったのです。ところが8000年前──1万5000年前という説もあるけど――温暖化による海面上昇によって、黒潮の分流が日本海に流れ込むようになった。二つの暖流に囲まれた日本列島は、温暖で湿潤な気候に変わり四季が生まれたのです。落葉広葉樹林帯や照葉樹林帯が日本列島を覆い、ドングリやクリを採集できるようになった。それ以前の日本列島はもっと乾燥していて、草原が広がっていた。それが暖流が日本海に入ったおかげで、今に残る白神山地のような豊かな落葉樹林帯が生まれたわけです。それが縄文人の定住を可能にした。
冬になると北西風が吹いてきます。北西風は大陸から吹いてくる冷たい風だけど、日本海を越える時に対馬暖流から蒸発した水分を吸収して湿った風になる。この湿った風が立山・剣、北アルプスあるいは谷川岳など脊梁山脈にぶつかって上昇し、冷やされて雪となる。それで富山や新潟にはドカ雪がふります。雪が何をもたらすのかといえば水です。山間部に積もった雪は春までとけず、「自然のダム」の機能もはたしている。
白神山地のブナ林も、冬場の大量の降雪によって育まれるものです。その後、日本列島各地で水田耕作が可能になったのも、豊富な雪解け水に依存している面が大きい。つまりクリやドングリの採集生活であれ水田稲作であれ、8000年前に日本海に暖流が入ったおかげだと言っていいのです。
7月に白神山地を訪れたとき、三内丸山遺跡まで足を伸ばしたんですが、三内丸山の縄文集落は1000年ぐらい続いたといわれています。三内丸山ではクリの栽培を行い、日本列島各地と交易していた。三内丸山から大量のヒスイが出土しましたが、ヒスイの原産地は中部日本の糸魚川流域だった。ヒスイとクリの交換貿易を行っていたらしいのです。
縄文というと、かつては移動しながらの狩猟採集生活みたいに思われていたけれど、実際は定住してクリを栽培し、広く交易まで行っていたわけです。ところが三内丸山の集落は、今から4000年前、もう一回地球が寒冷化したとき、クリが採れなくなって潰えてしまいます。寒冷化に応じて、縄文人は寒さに強いトチの実に主食を切り替えていった。トチの実といえば、埼玉県の川口市の赤山陣屋跡遺跡では、流水を利用した大規模なトチの実の灰汁抜き施設が発掘されています。
水田稲作という歴史の分岐点
また稲作というと、これもかつては弥生時代の特徴とされていました。ところが実は縄文時代にも米はあったのです。6000年前の縄文遺跡からプラントオパールというガラス質の繊維が検出されています。縄文人も米を食べていたのです。ただし弥生時代の米とは米の種類が違う。縄文の米は熱帯ジャポニカ米です。縄文時代には寒冷・温暖・寒冷の気候循環があったのですが、その温暖の時に熱帯ジャポニカ米を栽培していたらしいのです。熱帯ジャポニカ米は陸稲で水稲に比べて米粒が小さいやつです。鹿児島県の上野原遺跡からは、7500年前の壺型土器が出土しています。他に用途が考えられないから、これは穀物を栽培していたことの証拠だといわれています。稲、ヒエ、ハト麦などの穀物を壺型土器に蓄えた。つまり鹿児島では、7500年前から陸稲をつくっていた可能性があるのです。
稲は、中国の長江中・下流域で、約1万1000年前に栽培が始まったといわれています。7000〜5000年前になると、長江デルタの中国浙江省の河姆渡遺跡から水田稲作耕作の跡が発見されています。その後、収穫量の多い水稲が陸稲を駆逐していく。そしてこの水稲が人類の歴史を変えていくわけです。
どういうことかと言うと、縄文時代というのは多様性が特徴です。食料にしても何か単一のものに縛られていない。三内丸山ではクリを栽培していたけど、弥生の米みたいにクリだけに縛られていたわけではなかった。それに米と違ってクリは貯蔵がきかない。水稲耕作を始めて、はじめて米を大量に貯蔵できるようになったことで、より巨大な定住(都市化)が可能になった。そして水稲耕作と共に人類は争いを始めたのです。これは吉野ヶ里などの、弥生の遺跡から出てくる破砕された人骨や環濠集落の出現から推察されていることです。
弥生時代となると、北緯41度まで稲作の跡が見つかっています。津軽の田舎館遺跡では、2000年前に温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの雑種を植えていたことが分かっています。陸稲と水稲の雑種とかも植えながら、次第に全体的に水稲に変わっていったのです。
水田稲作の広がりとともに、時代は弥生時代という縄文時代とは全く別の時代、別の文化に移っていきます。この時代を動かしたのが、渡来系弥生人だったわけです。
http://www.bund.org/opinion/20040915-2.htm
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