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(回答先: 45m先の1.5mmが分かる!数千年間アンダマン海で海上生活のモーケン族は日本人の源流の一つ →スマトラ沖地震で安否は? 投稿者 エイドリアン 日時 2005 年 1 月 02 日 17:35:54)
引用:『黄色い葉の精霊』(ベルナツィーク著 大林 太良訳 平凡社・東洋文庫108 1968年初版発行)
同書は、1930年代後半のベルナツィーク夫妻のインドシナ調査紀行の日本語版である。本書の題名「黄色い葉の精霊」は、ピー・トング・ルアング族(ムラブリ族)にちなんでいるが、同書でのカバー範囲は、北タイのムラブリ族のみならず、ビルマやタイ南部、ベトナム中南部にまで及んでおり、3回にわけて紹介する。
調査行程ルート(ビルマ・南タイ) |
この行程では、まずヨーロッパより、舟でビルマ・ラングーンに入り、ビルマ南部のメルグイに上陸している。本書では、ベンガル湾の小さな海岸都市であり、テナセリムの主都であるメルグイの当時の姿が記されている。
以前の街の繁栄に比し、さびれてゆく街ではあったが、第2次世界大戦前の当時では、まだタイ人、マライ人、ビルマ人、中国人、アラビア人、ヨーロッパ人に加えてインドから流れ込んでくる苦力など多彩な民族構成にあった。
このメルグイを含むテナセリムは、タイのアユタヤ王朝がビルマに奪われた後、中国、インドとペルシャ湾の間の最も大きな貨物積み替え地の一つとして栄えている。同書でも「数世紀にわたって、当時、帆船と小帆船(バルケン)がテナセリム河の緩やかな水路を往き来していたが、それらの船は磁器と絹糸、木綿、銅、白檀材などをいっぱい積んでいて、そのほか金と錫、あるいは象を積んでいた。
象は当時タイの野生のジャングルの中でいくらでも捕れたし、メルグイからよく揺れる船で、インドへ送られた。そこでは、インドの王侯たちの頻繁な戦いにおいて、象は一種の戦車として用いられたのであった。」と記している。
しかしその後はこの地をめぐり、シャムとビルマの度重なる戦いがおこり、1760年、街は破壊され、ビルマ(コンバウン朝)の領土となった。更に1824年から1826年の第一次英緬戦争の結果、テナセリムはアラカンとともに、英領となったが、メルグイの街は、材木、真珠や錫鉱山関係以外では、かつての繁栄賑わいを取り戻すことはなかった。
ベルナツィークの一行は、このメルグイ諸島の入り組んだ島々の中に住んでいる漂泊民モーケン族(自称:海中に潜ると言う意味がある。ビルマ人はこの民族を「セルング」と呼ぶ)を探索しようとしていた。
モーケン族は、常に小舟に住んでいて(10隻から30隻の小舟が形作る集落が「カバング」)。
見知らぬものと出会うことを怖れているが、ただ雨季が始まる前にだけ、すぐやってくるモンスーン期にそなえて小舟の修繕をするため、辺ぴな島の嵐を避けられるような入り江に避難小屋を建てるタイミングを狙っての企てだ。
一行がどのようにしてモーケン族にアプローチをし、彼らの野営地で何を観察したかは、本書をご覧いただきたいが、モーケン族の過去と今の民族的共生についての記述を紹介したい。
「モーケン族は、後来の民族移動の波によって追い出された原始民族の、後インド(政治的には、タイ・ビルマ・インドシナの地域)における最後の残存者である。
モーケン族が、最後の避難場所として、近づき難いメルグイ諸島を見出したあとでも、彼らは常により高度の文明をもつ民族の圧迫にさらされていた。
中国人貿易商や定期的に遠征隊を送り込むマライ人の奴隷狩り業者や、タイ人の海賊は、何世紀もの間に、彼らを現在のような極度に臆病で、神経質な民族に仕立て上げたのだ」
しかしながら、「モーケン族のまとまった集団があるところは、ほとんどどこでも、マライ人か中国人が、蜜壺にたかる蜂のようにたかっているのだ」として、海産物・林産物と米・塩魚・阿片の交換経済の様子に触れている。
更に同書には、犬祖神話と母子婚モチーフの結合した「モーケン族の起源」をはじめとするモーケン族の民話26編が収められている。
ベルナツィークの一行は、メルグイ諸島でモーケン族の調査を終えた後、タイ領ラノンに入り、南タイの森(マラヤの原始林)で、原始的なネグリート(小人)であるセマング族の調査を行っている。