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無差別テロ糾弾! プーチンのジェノサイド政策を許すな!
「予期せぬ事態」だったのか?
九月一日、ロシア連邦・北カフカス地方にある北オセチア共和国ベスランの中等学校で、新学年の始業式に約三十人のチェチェン独立派の武装部隊が突入し、多くの生徒・子どもをふくむ千数百人を人質に取った。「チェチェンからのロシア軍の即時撤退」と「隣接するイングーシ共和国で囚われているチェチェン独立派の釈放」を求めて立てこもったこの事件は、九月三日、ロシア軍治安部隊の突入にともなう戦闘によって、人質三百三十人以上と二十人以上の武装勢力側の死(9月4日現在)という惨劇に帰結した。殺された人質の半数は子どもだった。行方不明者も二百人以上いると言われており、負傷者が七百人と報道されていることから見れば、人質の大部分が殺されるか、負傷したことになる。
プーチン政権の側は、合意された遺体搬出の際に武装勢力から発砲を受けた結果による「予期せぬ事態」で大量の死者が出たとしているが、実際の状況は不明である。治安部隊側の計画的突入の可能性もある。
八月末に行われたチェチェンの親ロシア派かいらい「大統領」選挙を前に、チェチェン武装勢力によるテロ攻撃が頻発していた。この「大統領選挙」は、一九九七年に国際機関も承認した形で民主的にチェチェン大統領に選出されたマスハードフの政権を無視して、一九九九年以後の「第二次チェチェン戦争」の中でプーチン政権が擁立した親ロ派かいらい「大統領」のカディロフが、今年五月九日に暗殺されたことを受けて、「後継者」を選出するために行われたものだった。八月二十九日の投票では、予想どおりプーチン政権の推すアルハノフ内相が新「大統領」に「選出」されたが、言うまでもなくチェチェン独立勢力はこの「かいらい大統領」選挙を認めず、攻撃を強めていた。
八月二十一日は、チェチェンの首都グロズヌイで武装勢力が選挙の投票所や警察署を襲い、武装勢力十八人とともにロシア軍兵士・警官十二人が死亡するという戦闘が起こった。八月二十四日(日本時間二十五日)には、モスクワの空港を飛び立った二機の旅客機が飛行中に同時自爆テロによって墜落した。八月三十一日(日本時間九月一日)には、モスクワ市内の地下鉄駅付近の爆弾テロで、通行人ら十人が殺された。
こうした軍事的攻勢と大規模テロは、ロシアによる軍事占領に抵抗し、独立を求めるチェチェン人武装勢力が、かいらい「大統領」選挙に焦点を当て、ロシアの軍事侵略と占領の不当性を国際的にアピールするために展開した作戦であることは間違いない。
「劇場人質事件」の教訓と課題
チェチェン独立派による大規模人質事件については記憶に新しい先行例がある。二〇〇二年十月二十三日にモスクワのドブロフカ・ミュージカル劇場で五十人のチェチェン・イスラム主義武装抵抗勢力が八百人の観客を人質にとって劇場占拠に突入したのである。この時プーチン政権は、三日後の十月二十六日早朝に軍特殊部隊を劇場に突入させたが、その時も占拠部隊全員とともに、軍の使用した特殊ガスによって百二十三人の人質も殺された(本紙02年11月4日号、平井純一「プーチン政権による残虐な弾圧許すな ロシア政府はチェチェンから即時撤兵し民族自決権を承認せよ」参照)。
われわれは、この二〇〇二年十月のドブロフカ劇場事件の際に述べたように、子どもや一般市民を無差別に人質に取り、殺害するようなテロリズムを、労働者・民衆に対する許しがたい犯罪として厳しく糾弾する。こうした犯罪行為にあいまいな態度を取ることは、チェチェン民衆のロシアからの独立闘争の大義を自ら捨て去ることを意味し、解放運動の展望を閉ざす結果となる。それはチェチェン民衆をロシアの植民地主義的圧政とそのかいらいの下に押しやることにならざるをえない。
しかしわれわれは、チェチェン独立派のこうした絶望的テロ犯罪をもたらした最大の責任がエリツィンとプーチンのチェチェン侵略戦争と植民地主義的占領支配にあることをあらためて主張する。われわれは、「テロとの闘い」を名目にしてチェチェン人民全体を「犯罪的テロリスト」と決めつけ、拷問・レイプ・集団虐殺をふくむあらゆる人権侵害を繰り返し、ジェノサイドを行っているプーチン政権を糾弾する。プーチンの「ロシア大国主義」にもとづく強権支配は、「人質」の犠牲など一切意に介しないのだ。被抑圧少数民族チェチェン人の独立闘争をありとあらゆるおぞましい暴力を行使して抹殺するプーチン政権は、ロシア国内においても人権と民主主義をいっそう圧迫している。
プーチン政権は、チェチェンにおける一切の人権侵害をやめ、占領軍をただちに撤退させよ。チェチェン人民の自由に民主主義的に表明された意思にもとづく独立国家建設の権利を承認せよ!
侵略・併合と圧政、抵抗の歴史
チェチェン人は一九世紀初頭以来、帝政ロシアのカフカス侵略・併合政策と闘ってきた。ロシア革命以後も、スターリンの独裁支配の下で、チェチェン人は一九四四年二月にカザフスタンに強制移住させられた。
こうした大ロシア民族主義の圧政を歴史的にこうむってきたチェチェンが、旧ソ連邦共和国のあいつぐ分離・独立の動きを受けて、一九九一年六月に独立宣言したことは当然のなりゆきであった。しかしエリツィンのロシアは、この面積わずか一万五千平方キロ、人口七十万人のチェチェン共和国の独立を認めなかった。
一九九四年十二月、ロシア軍はチェチェンに侵攻し、チェチェンの独立を踏みにじった(第一次チェチェン戦争)。首都グロズヌイは無差別の砲爆撃で瓦礫と化したが、ロシア軍はついにチェチェンの抵抗闘争を解体することはできず、逆に多くの犠牲を出して、一九九六年八月に休戦した。この時「ハサブユルト和平合意」が結ばれ、チェチェンの国家としての地位は二〇〇一年まで先送りされて検討されることになった。しかし一九九九年に起こったモスクワでの一連のアパート爆破事件などをきっかけに、それをチェチェン人の犯行と断定したエリツィン政権は、再度チェチェンへの軍事侵攻を開始した(第二次チェチェン戦争)。二〇〇〇年初頭に成立したプーチン政権に引き継がれたこの戦争で、グロズヌイは陥落し、チェチェン全土はロシアの軍事占領下に置かれた。
二次にわたるチェチェン戦争で、チェチェン共和国の人口七十万人のうち二十万人が殺され、多くの人びとが難民となってチェチェン国外に脱出せざるをえなかった。隣国のイングーシ共和国には十万人のチェチェン難民が貧窮の中での生活を余儀なくされている。
ロシア軍の戦争犯罪を暴け
ロシアがこのようにチェチェンの独立に激しく敵対したのには幾つかの理由があるとされている。第一はチェチェンの持つ石油資源であり、さらにチェチェンをふくむ北カフカスが世界での有数の埋蔵量を持つカスピ海油田からのパイプラインのルートにあたっているからである。ロシアの支配階級にとって、死活の重要性をもつ石油資源の維持・開発のためにもチェチェンの支配権を手放すわけにしいかないのだ。
第二は、北カフカスがチェチェン以外にもダゲスタン、イングーシなどさまざまな少数民族の独立指向が渦巻く地域であり、チェチェンの独立を認めることは、イラン、中東などとの関係で地政学的にロシアの対外的戦略拠点であるカフカスの遠心化傾向をいっそう強めざるをえないという危機感である。
実際、ロシアのチェチェンへの占領支配、とりわけいわゆる「掃討作戦」は言語に絶するものである。
「『掃討作戦』とは、チェチェン市民からの財産の略奪の別名だ。それはまた下級兵士たちの取り分になる。そしてチェチェン人を誘拐して身代金を取る作業は将校たちの稼ぎになる」(大富亮「チェチェン――失敗した侵略」、「チェチェンニュース」Vol04 No28 、04年9月2日)。
「国際的な人権団体、ヒューマン・ライツ・ウォッチの小冊子『地獄へようこそ』やアムネスティ・インターナショナルの報告、及び私自身の取材では、情報を探るためではなく、機械的に痛めつける目的で拷問が行われているのがわかる。そして死亡すれば遺体を遺族に売るが、カネを払えなければ遺棄する。生きていれば高値がつく(七五〜六〇〇ドル)。という一種の人身売買で軍人たちが私腹を肥やしている。こうしたことが、チェチェンの人々を武装闘争に追い込んでいるのだ」(林克明「テロリストと呼ばれる人々」、『DAYS JAPAN』04年9月号)。
こうしたあからさまなチェチェンの人びとへの凌辱によって、チェチェン独立闘争のイニシアティブが急速にイスラム主義過激派の手に掌握されることになったことは想像に難くない。ロシアの左派社会主義者で、チェチェンの独立闘争との連帯を主張するロシアにおける希有の存在であるボリス・カガルリツキーは、旧ソ連軍人で深く「ソビエト的伝統」の中にある世俗主義者であったドゥダーエフ(第一次チェチェン戦争で戦死したチェチェンの初代大統領)やマスハードフ(一九九七年選挙で選出された大統領)の時代とは異なり、イスラム教ワッハーブ派(サウジアラビアで主流的なイスラム教宗派)の影響力が急速に拡大していった事情を紹介している(本紙01年1月22日号「チェチェン戦争の起源、現状と展望、社会的影響について」下)。
チェチェン独立闘争のこうむった孤立と困難の中で、トルコ、アラブ諸国、アフガニスタンなどから大量のムジャヒディンがチェチェンに入って、ロシアとの戦争に参加し、またチェチェンのゲリラ戦士たちを訓練したことも指摘されている。それが、チェチェンの抵抗闘争にテロリズムの色彩が濃厚になっていったことと関係していることも事実であろう。そして、「9・11」とブッシュが解き放ったグローバルな「対テロ戦争」によって決定的な転機が訪れたのである。
「対テロ戦争」とプーチン政権
「テロリズムとの闘い」を口実にしたブッシュの先制攻撃戦略は、国際情勢の構図を大きく変えた。プーチン政権は、「汚い戦争」として評判の悪かったチェチェン侵略・軍事占領を「テロとの闘い」を大義名分にして国際的に認知させる絶好のチャンスをつかんだ。
ブッシュ米政権は、アフガニスタン戦争を機会に、キルギス、ウズベキスタンなどの中央アジア諸国に米軍の軍事拠点を構築した。アフガニスタンからイラクへの侵略のエスカレートは、石油・天然ガス資源に対する米帝国主義の支配的利権の拡大とともに、旧ソ連邦の中央アジア諸国をテロの戦場として浮上させた。この間、ウズベキスタンでは「ウズベキスタン・イスラム運動」(IMU)による連続爆弾テロが頻発している。
カフカス地方全体の政治状況も不安定化を深めている。グルジアでは同国の南オセチア自治共和国の親ロシア分離派とグルジア軍との軍事衝突が拡大している。こうしたロシア周辺・近隣における民族的紛争の激化は、ロシア国内の政治情勢にはねかえり、プーチン政権の強権的性格を強めることになっている。
七月九日、ロシアの三大ネットの一つである民放・独立テレビ(NTV)がプーチン政権に批判的な討論番組「言論の自由」の放送を打ち切ると発表した。この措置によりプーチン政権に批判的な番組はTVから消えることになった。同番組はチェチェン戦争に対する政権側の姿勢に批判的な報道も行ってきたのであるが、今回の放送打ち切りによってプーチン政権の言論統制は完成の段階に入ったとされている。
今回の学校「人質」事件に対してプーチン政権が行った強行突入による惨劇は、プーチン政権のロシア大国主義的強権政治をさらに促進することになるだろう。ロシア政府は、今回の「人質」事件にはアルカイーダが関与していると強調し、犯人グループの中には約十人の「アラブ人」がいたと主張している。しかしそれはなんら立証されてはいない。プーチンは「アルカイーダ」や「アラブ人=イスラム過激派テロリスト」とチェチェン独立派の連携を強調することによって国際的にも国内的にも、チェチェンの反占領運動を「悪の巣窟」に描きだし、弾圧の正当性をアピールしている。
ブッシュ米大統領は共和党大会の演説で、「テロとの妥協なき戦争」を打ち出してプーチンにエールを送った。国連安保理は九月二日の決議で「人質」事件を非難し、プーチン政権の立場を支援した。ロシア国内でも、チェチェン人とイスラム教徒に対する排外主義的憎悪がかきたてられている。それはロシア国内での民主主義と自由と人権の剥奪に導いている。
われわれはそうであればこそ、ブッシュ、プーチン、ブレア、シャロン、そして小泉らが進める「テロとの闘い」に正面から対決するとともに、民衆の闘いに敵対する反動的な無差別テロを批判する立場をゆるがせにしてはならないのである。
プーチン政権のチェチェン独立闘争に対する残虐きわまる弾圧を国際社会に訴え、ロシア軍のチェチェンからの即時撤退を要求し、チェチェン人民の民族自決権を無条件に承認する立場からの支援と連帯が必要である。こうした方向性は、当面、きわめて空想的なものに思えるかもしれない。しかし大衆的な反占領運動を通じたチェチェン人民の民主主義的で自由な意思にもとづく自己決定の基盤を作りだすための闘いこそが、ロシア軍を撤退させ、平和を実現し、イスラム主義の反人民的な恐怖政治と無差別テロ戦術を終わらせる道であるという原則に今こそ立つべきなのである。
チェチェンの人びとが強制されている悲劇を知り、それを広く伝えることからすべては始まる。チェチェンの民衆が絶望的なテロリズムを克服する闘いは、そうした国際的な連帯運動によってのみ現実のものになるだろう。
(9月5日 平井純一)
http://www.jrcl.net/web/frame040913a.html