★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 戦争59 > 994.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
チェチェン紛争とコーカサス地方(9月7日追加)media_francophonie
http://www.asyura2.com/0406/war59/msg/994.html
投稿者 愚民党 日時 2004 年 9 月 11 日 02:12:31:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: リンク入れ忘れに付き・・・ 投稿者 現在無色 日時 2004 年 9 月 11 日 00:30:06)

現在無色さん。こんばんわ。
リンクをたどり、下降記事を読みました。

読み終わり、ボルシュビッキ党史「スターリン」を読んだ後と同様な
絶望感と無力感を味わいました。
「民族の牢獄」を生成した、スターリンの悪霊と矛盾が
「世界テロ戦争」に扇動され、現出するのか・・・




チェチェン紛争とコーカサス地方(9月7日追加)
Trois clés pour comprendre le conflit tchétchène
チェチェン紛争を理解するための三つの鍵

9月3日付け リベラシオン Marc SEMO
元記事はこちら

今夜のTVニュースの北オセチア学校占拠事件の映像があまりにもショッキングだったので、それにひきずられるようにして再びコーカサス関連の記事をとりあげることにします。チェチェン紛争の基本のキを要領よくまとめたリベラシオンの記事です。学校占拠事件についてはアラブ人関与の噂も流れ始めており、まだまだ情報が錯綜しています。下の記事中にはチェチェン人のイスラム信仰がスーフィー主義的とありますが、これとイスラム原理主義とは理念的に大いに異なっているらしいので、両者の結びつきがあるのかないのか気になるところです。


(翻訳はじめ)
「コーカサスの火薬庫」とは何か?

1991年のソ連解体とコーカサス地方の各共和国(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン)の独立以来、ロシア連邦はコーカサス北部の多民族共存地帯の統制を失うことを恐れている。コーカサス北部地方は18世紀から19世紀にかけて、多大な困難ののちにロシアに征服された。この一帯はトルコ、ペルシャ、インド・ヨーロッパ系民族の他に類を見ない密集地帯で、この地域の少数民族のうち40ほどは世界の他のどの民族的・言語的グループにも属していない。ソビエト政権はこの地域を7つの自治共和国に細分化した。民族ごとにまとまるとロシアへ敵対すると考えられることから、「統治するためには分割せよ」という方針に従い、各自治共和国内では異なる民族が混ぜ合わされた。

コーカサス地方の言語と文明の専門家であるジョルジュ・シャラシゼは「これらの共和国は似通った社会構造を有しており、名誉と復讐という共通の文化を持っている。彼らの大多数はスンニ派イスラム教徒で、スーフィー主義的な寛容な宗教的実践を行っており、強力な同胞意識を持っている」と指摘している。(2000年1月29日)

チェチェン紛争の原因は何か?

「チェチェン人は多数派民族で、一続きの領土にまとまった集団からなる」とジョルジュ・シャラシゼは説明する。第二次世界大戦後のスターリンによる虐殺と組織的な大量の強制収容所送りが行われる前、チェチェン共和国には100万人のチェチェン人がいた。

1956年の名誉回復後チェチェン人は故郷に戻り、ソ連邦崩壊時にはおよそ80万人であった。チェチェン人は1991年11月に一方的に独立を宣言した。この独立宣言はドダイエフ将軍(1996年に暗殺された)、ついでアスラン・マスハドフのようなカリスマ的なリーダーによって継承され、レジスタンスの長い歴史の中に根を下ろしている。

1992年、チェチェン人は民族的に近いイングーシ人と分裂した。イングーシがモスクワにたてつくことを躊躇したためだ。チェチェンのようなケースが周辺に広がることを恐れたボリス・エリツィンは、1994年に分離派のチェチェン共和国に軍隊を派遣し、数ヶ月の激しい戦闘の後、ようやく首都のグロズヌイを陥落させた。しかし抵抗運動が山岳地帯で継続され、1996年8月、チェチェンの戦闘員は首都を奪回した。ハサブユルト合意によりロシアの敗北は決定的となり、ロシアはこの小共和国の事実上の独立を認めることになった。しかしモスクワは1999年10月に再びチェチェンに介入するまで、この地域の混迷状態を高めようとあらゆる手を尽くした。

この紛争が拡大する恐れはあるのか?

カスピ海の石油をヨーロッパに輸送するため、すでに建造された、あるいは計画段階の石油パイプラインのルート問題がコーカサス北部の戦略的重要性をいまだに高めている。同様の問題がコーカサスを横断する旧ソ連共和国各国にもある。モスクワはこれらの国々をいまだにロシアの裏庭と見なしている。

モスクワに対してもっとも緊張を強めているのはグルジアの若き大統領ミハイル・サアカシヴィリだ。サアカシヴィリ大統領は明確に西側陣営に足場を置き、NATOに秋波を送っている。この点について、今回の北オセチアにおけるチェチェンの初めての大規模な行動は懸念を呼び起こすものだ。ロシアに属するオセチア共和国の大多数はキリスト教徒で、モスクワにもっとも忠実な支援国家のひとつだ。

ロシアは北オセチアにコーカサス地方の主要軍事基地を置いている。チェチェンの反ロ勢力に対してあまりに寛大すぎるトビリシに圧力をかけるひとつの方法として、ロシアはグルジアからの独立を宣言した南オセチアの分離派を支援している。いっぽうチェチェン・ゲリラは紛争を隣国のイングーシとダゲスタンに拡大しようと目論んでいる。少なくとも26の、その多くがイスラム教徒である異民族と、それと同じくらいの数の少数民族が共存しているこのコーカサスのモザイクの中で、最悪の事態が起きる可能性はまだ決定的とはいえない。しかしその下地はすでに整っている。
(翻訳おわり)

★9月7日追加
オセチアの歴史に関するル・マタンの記事をご紹介します。ネット上にソースはありません。

Les Ossètes et leurs voisins
オセチア人とその隣人

9月5日付け ル・マタン Gé,rard Delaloye

(翻訳はじめ)
ここ数日身の毛のよだつ悲劇の渦中にあるオセチアは、人類の歴史の深奥と直接結びついているような国だ。というのも、オセチア人はイラン語族の一言語を話しており、この言語は大昔に消滅したスキタイ語の唯一の生き残った姿なのだ。オセチアの文化はジョルジュ・デュメジルの研究分野の一つであった。デュメジルは宗教と神話学についての我々の知識を刷新した歴史家である。

13世紀、モンゴル人の侵入により山岳地帯に逃避したオセチア人は、カフカス山脈の両山腹に定着し、重要な三つの峠を掌握した。このような立場は我々にヴァレ州とアオスタ谷、そこに定着したわずかな人々という親しい例を思い起こさせる。

18世紀末からのロシアの征服によって、オセチア人の大部分はキリスト教化された。オセチアは、1920年、ボルシェヴィキによって行政的に(そしてまた専断的に)分断された。現在、北オセチアと南オセチアは同じ山を背後に抱えているにもかかわらず、非常に異なった現実を生きている。12年前から南オセチアは独立を宣言(それもモスクワの支援を得て!)したが、グルジアの所有欲と対立しあっている。今夏、この紛争はあやうく戦争に転じるところだった。緊張は現在も非常に高まっている。

いっぽう北オセチアは民衆の支持の上にロシア連邦を構成する一共和国となっている。しかし北オセチアの状況も予断を許すものではない。第二次世界大戦中、スターリンは数多くのコーカサスの住民を中央アジアの収容所に送った。ナチスを支持したというのがその理由だった。収容所送りになった人々の中にはオセチアの隣人のイングーシ人とチェチェン人が含まれていた。コーカサスに残ったオセチア人は収容所送りになったイングーシ人たちの地所を争って奪い合った。問題のある占領行為で、実際に問題になった。1992年、ソ連の崩壊とともにイングーシ人は故郷に帰還し、カラシニコフを手に自分たちの財産を取り戻そうとした。そしてイングーシ人は、ロシア軍に支援されたオセチア人によって虐殺された。今日も数々の戦闘で死傷者が出ており、問題は何も解決していない。
(翻訳おわり)

http://blog.livedoor.jp/media_francophonie/archives/6472285.html


 次へ  前へ

戦争59掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。