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(回答先: ぼくたちの戦後責任と平和思想 その1 「戦争を知る」ということ 2 (かわもと文庫) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 9 月 10 日 12:18:01)
その1 「戦争を知る」ということ 3
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sengo13.htm
(なお、このエッセイはかわもと文庫所収
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/index.htm)
もちろんアジアの人びとに対して加害者であったのは、戦争をひきおこした為政者と前線に送られた兵士たちだけではない。「あの戦争」を支持し、あるいは敢えて積極的に反対せず、というよりもっと正確に言えば、反対の意思表示ができない状況が形づくられることを許してしまったゆえに反対することができず、そのことによって戦争を黙認し、結果的に戦争に巻き込まれていったすべての人びとが、被害者であるとともに加害者だった。いや、被害者であるまえにまず加害者だった。中国が日本に攻めてきたのではない。日本が中国領土を侵すことによってまさに日中戦争はひきおこされたのだ。そして兵士に仕立て上げられて前線に送られていった人びとはもちろんのこと、兵士を送り出した銃後の人びともまた、そうすることによって「あの戦争」を支えていた。
ところが今日に至るもまだ、前線と銃後とにかかわらず、そうした視点からの戦争体験記がほとんど現れず、ひたすら「○○大空襲の記録」に類するもののみが記されつづけているのは、そもそも日中戦争が日本の侵略戦争であり、したがって自分たちがアジアの他国に対して加害者の立場に位置していたという認識が、大多数の「戦争を知っている大人たち」に根本的に欠けているからなのだと考えざるをえない。戦後を生きてきたこの国の人びとは、知識としての日中戦争をいちおう持ちえていても、自己の戦争体験と重ね合わせた深い認識としては、あいかわらず己れのものにしえていないのである。
こうした傾向は、この国の人びとが口にする戦争がまずもって多くの場合太平洋戦争に限られており、日中戦争はいまだに「満州事変」や「上海事変」という名の個々の“事変”でしかないことによく現れている。多くの人びとにとって「日中戦争」という言葉はあまり耳慣れたものではなく、いわんや「十五年戦争」という言葉はほとんど異質の響きをもつものなのにちがいない。しかも、太平洋戦争のなかでも、好んで語られるのは戦局が決定的に不利になってからの戦争末期のことに集中しており、そうしているかぎり、この国の人びとは主観的にはいつまでも自己を戦争の被害者に仕立てつづけ、自分が受けた傷口だけを舐めていられるというわけである。そしてこうした傾向から導き出される結論は、アメリカなどと戦ったから日本は負けたのであり、勝つ勝つといって戦争を始めてみたけれど、負けてみれば、われわれは戦争指導者たちに騙されていたのだ、ということになる。
このことについてのひとつのエピソードを思い出す。
あるとき、文学仲間のひとりといろいろ話していて、たまたま話題が「あの戦争」に及んだことがあった。そしてぼくが、「あの戦争」で日本はアメリカに負けたのではなく、根本的には中国に負けたのだと言ったところ、アメリカ軍が進駐してきたとき日本刀をもって殴り込みをかけようとしたのだというその人は、かなり強い拒絶反応を示した。いいや、そうじゃない、日本は中国なんかに負けやしなかった。アメリカと戦ったから負けたのだ。
たぶん彼の主張が、「あの戦争」の勝敗についてのこの国の大多数の人びとに共通するごく常識的な意見なのにちがいない、とそのときぼくは思った。だがこの種の意見の持主たちは、「あの戦争」についてのもっとも基本的なものを見落としている。あるいは敢えて見落とそうとしているかだとぼくには思えてならない。
たしかに現象的には日本はアメリカに負けたことは議論の余地はない。それならば、日本の戦争指導者たちは当面の敵中国と戦い、背後にソ連の脅威を感じながら、なぜ米英を相手にした太平洋戦争までをも戦い始めるという無謀を冒したのか。冒さねばならなくなったのか。
「あの戦争」は日中戦争と太平洋戦争が不可分にワンセットになった戦いだった。図式的にいえば、太平洋戦争の原因は、日本が中国を侵略し、その侵略の輪を急速にひろげ、その結果先進植民地主義国家のナワバリまでをも侵すことになり、米英の反感を買い、双方は既得権の確保をかけて戦いを始めなければならなくなったことにある(もちろん、ヨーロッパの戦況が複雑にからんでいたこともたしかだが)。太平洋戦争の原因は日中戦争にあり、日中戦争はまさしく日本の中国侵略によって始まった。
「あの戦争」が日本の中国東北部侵略によって始まった十五年戦争であることを理解すれば、日本が根本的には中国に負けたことが当然見えてくるはずである。日本は太平洋戦争を回避しえていたにしろ、やはり戦争には勝てなかっただろう。
このことは、日中戦争とヴェトナム戦争を重ね合わせて考えてみるとよく理解できる。ヴェトナム戦争でアメリカ軍が南北両ヴェトナムの破壊に使った爆弾の総量は、当時のグェン・ズイ・チン北ヴェトナム外相によれば、「200万トンに達し、第二次世界大戦でのヨーロッパと太平洋の両地区に落とされた全爆弾の量を上回っている」(本多勝一『北爆の下』朝日新聞社)という。しかも量だけでなく、ヴェトナムで使われたあらゆる通常兵器の質は、第二次大戦とは比較にならぬものであった。それでもアメリカ軍はヴェトナム戦争に勝てなかった。物質面で圧倒的に劣勢だったヴェトナムに負けた。
日中戦争においてもやはり同じことは言えるだろう。ヴェトナム戦争におけるアメリカ軍と比較するならば、日中戦争における日本軍は比較にならぬほど弱体だった。そしてヴェトナム戦争におけるヴェトナム人の抗戦力と比較して、日中戦争における中国人の抗戦力が劣っていたとは考えられないし、その広大な国土と厖大な民衆の存在を考えるならば、アメリカ合州国がヴェトナムを侵略するよりも、大日本帝国が中国を侵略することははるかに成算が乏しかった。
仮に日本が太平洋戦争を回避しえていたなら、戦争はもっと長びいていただろうし、銃後の人びとが炎熱地獄の中を逃げ惑うような形では終らなかったかもしれない。しかし日本が中国を侵略しつづけることもできなかっただろう。太平洋戦争が「勃発」する以前に、なにしろ表面上の優位とは裏腹に、「天皇の軍隊」がすでに抗日ゲリラ戦の泥沼にじわじわ引きずり込まれていたことは前述した通りだが、侵略軍が制圧地域を実質的に維持できなくなるということは、侵略そのものが早晩失敗するということにほかならない。
日中戦争の状況が日本にとって容易ならざるものであることに、開戦後誰よりもいち早く気づいたのはほかならぬ参謀本部作戦課だった。1937年12月13日、日本軍は南京を占領し、あの大虐殺事件を起こすのだが、これに先立つ11月21日、参謀本部作戦課はすでに蒋介石政権との講和を主張している。連戦連勝のさなかに参謀本部が和平への道を探り始めたのはなぜか。
7月17日、すなわち蘆溝橋で日中両軍が衝突してから10日後の時点で、参謀本部作戦課が作成した「対支戦争指導要綱(案)」によると、もともとこの戦争は3、4ヶ月の短期決戦の予定で、「排日抗日の根源たる中央政権の覆滅を目的とし、全面的戦争により日支間の問題の根本的解決を期す」ために日本側によってひきおこされた。「ところが4ヶ月後には、とうてい中国がわの抗戦意思を挫くことができないとわかったので、『中国政権の覆滅』ではなくその存在をはかることに180度の転換をし、最悪のばあいには、中国中央政権が容共でさえなければ排日政権でもがまんする」(井上清『天皇の戦争責任』現代評論社)ところにまで後退する。このことは、日中戦争がいかに中国側の力をあなどった判断の上に引き起こされたものであるかをよく物語っている。
軍部のこの早期講和の主張は、南京占領ですっかり強気になってしまった近衛内閣によって反対され、いくつかの経緯を経て翌38年1月15日、天皇裕仁の政府路線の支持によって、戦争の長期継続に落ち着く。それからの日本軍は重慶までしりぞいた蒋政権を攻めあぐみ、しかも伸びきった戦線のそこここを共産軍によって分断され、やがては米英を相手にした太平洋戦争までをも戦わなければならない羽目に追い込まれていく。
こうした事実を謙虚に見返すならば、太平洋戦争に突入する以前に、日中戦争における「天皇の軍隊」が、すでにヴェトナム戦争におけるアメリカ軍と同じ運命を辿りつつあったことが理解できてくるはずである。ぼくはなにも、日本軍が戦略的に誤った判断によって開戦したがゆえに日中戦争に破れたことだけを主張したいのではない。それはたしかに事実だが、仮に南京占領の時点で蒋政権との講和が成立していたにしろ、その後の国共内戦の行方から推測するならば、やがて主敵は共産軍になり、遅かれ早かれ日本の侵略政策は破綻をきたしただろう。戦略云々や、日中戦争が必然的に生み出した太平洋戦争の帰趨にかかわらず、そもそも自国の軍隊を派兵して他国を侵略した日本と日本人の思想が、他国の侵略に抗して立ちあがった中国と中国人の思想に敗れるべくして敗れたのである。
しかし今日に至るもまだ、多くの人びとはこのことに気づこうとはしない。戦後30年、自己の戦争体験の孕む重要な意味を深く見返すための充分すぎる時間をもちながら、多くの「戦争を知っている大人たち」が戦争を語るとき、それはあいかわらず太平洋戦争でしかなく、そうであるかぎり、アメリカの物量の前に日本は敗れたのだという皮相な戦争観しかもつことはできない。そうしているかぎり、人びとは被害の戦争体験だけを語りつづけ、そうした被害の体験を生み出すにいたった厖大な加害の体験を、見事になかったものとすることができるわけである。
こうして形づくられてきた戦後がどのような姿をしたものであるかを、次回はもうひとつ卑近な例によって見てみよう。
(つづく)
〔初出:「私声往来第2号」1980年3月〕