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(回答先: Re: その1 「戦争を知る」ということ 4 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 9 月 10 日 12:35:32)
ぼくたちの戦後責任と平和思想
その1 「戦争を知る」ということ5
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sengo15.htm
元満蒙移民の老人の投書に話をもどそう。この老人の心に鬱積している憤りが、自分たちも「あの戦争」の被害者であり、しかも戦後30年、あたかもあってはならぬもののごとく無視されつづけ、国によってなにひとつ償いを受けられなかっただけに、その被害の質はいっそう深い、というものであることは容易に読み取れよう。
三木卓氏の『砲撃のあとで』を読んだときにも強く感じたのだが、「あの戦争」のさなか満州にいた人たちは、自分の体験を語るとき、どうして敗戦直後からの、自分たちが決定的に被害者の立場に立たされた状況だけに話が限定されてしまいがちなのだろうか。この点、彼らの心理状況もまた、「〇〇大空襲」の語り手たちのそれとぴったり一致している。どれほどひどい目に会ったかということばかりが記録され、どうしてそんなひどい目に会わねばならなかったのかということが、ほとんど考えられていない。そこまでが視野に入ってこないと、満州や朝鮮からの引揚者の記録もまた、単なる受難物語におわってしまう。ひとりびとりの引揚者が個人としてどれほど善良であったにしろ、彼らが侵略地や植民地に存在し、その国の人びとの夥しい犠牲の上に恵まれた生活をしていたことに目をつぶったり、それを合理化することは許されまい。
在満日本人のなかでも、ソ連軍の侵攻を恐れる関東軍によって辺境守備の任務を負わされていた開拓民たちの生活は、ことにきびしいものだった。それは、ほとんど人手に頼るしかなかった当時の農法によって、内地で1町歩の荒地を開墾することがどれほどの難事であったかを考え、そのうえで満州で20町歩の開拓地主になることの気の遠くなるような至難さを想像するだけでも理解できる(もっとも現実には、うたい文句の20町歩の広さの広大な土地を開拓民たちはもらえなかったのだが)。しかも広大な土地に、ごく限られた数の開拓民だけがぽつんぽつんと点のように配置された。つきあいは仲間うちだけ。なんの娯楽もない。現地の中国人たちが、自分たちの土地に入り込んできたこの闖入者たちをこころよく迎え入れるはずもなかった。開拓民たちの生活は、極度の疲労と緊張の連続だったことだろう。
にもかかわらず、前に書いた分村移民第一号の人びとが「とってもいいところに行ったという感想」を述べているのはどういうことなのだろう。
答は二つある。一つは、彼らが往時の体験を美化して述懐していること。彼らの入植地は、自然条件ひとつをとってみても、内地とは比較にならぬ厳しさで、とってもいいところとはお世辞にもいえなかったし、敗戦直後の悲惨な事態がたちおこらなかったにしても、入植は、とってもいいというほどの成功をおさめてはいなかった。しかし、肝要なのは第二の答だ。彼らは中国人や朝鮮人が苦労して開拓した土地をあらかじめ見つけておいてもらって、そこへ入植した。当然、中国人や朝鮮人は土地を取りあげられ、追い払われる。農民から土地を奪うことは死ねというに等しい。
たてまえとして「開拓用地ノ整備ニ関シテハ、原則トシテ未利用地開発主義ニヨル」ことになっていた。しかし現実には、満州拓殖公社が日本人開拓団のために「整備」した土地は、中国の農民たちが現に耕作し、村落をなして住んでいた「既利用地」が圧倒的に多かったという。
満州拓殖公社の土地買収の一例をあげよう。
たとえば、『ああ満州拓殖義勇隊東海浪始末記』によるならば、寧安訓練所第四次の成沢中隊は昭和19年の2月に、入植地と決めた牡丹江省寧安県の東海村へ先遣隊を派遣したが、そこで先遣隊は、満州拓殖公社の社員が中国農民から土地と家屋を買収するありさまを目撃した。買収の対象――ということは、換言すれば成沢中隊の入植するところということだが――は、「海浪村の中心部落で村公署や学校、警察等もある」海浪屯で、満拓公社員は、日本の権力にものを言わせて強圧的に買収をすすめていった。
彼らは中国農民たちを、「一ヶ月の期限を附して立ちのきをさせるというので、一人々々調印させた。村長の家へあつめて書類に捺印させ、代金を渡した。しかもその価格がバカに安い。三間房子(ファンズ)二千円の要求なのに対し、せいぜい六百円しか払わない」のである。多くの農民たちが「泣きながら金を受け」取り、そのうしろ、「薄暗いオンドルのアンペラの上には、手を合わせアイゴーと泣訴哀願する病臥の老婆や、抱き合って泣き叫ぶ子供の姿があった」のであった。
(上笙一郎・前掲書)
これは開拓などというなまやさしいものではなく、土地の収奪以外のなにものでもない。こんなことをしたのも、侵略国日本の開拓政策としてはごくあたりまえのことだったのだ。なにしろ未開の原野を開拓したのではいつになったら収穫が得られるかわからない。しかし、中国人や朝鮮人が丹精こめて肥やした土地を奪えば、その年から収穫まちがいなしである。
この一事を見ても、満蒙移民がこの国の内部だけから見ればもっとも悲惨なあの戦争の犠牲者であるにしても、満州の中国人や朝鮮人に対しては侵略者であったことがよくわかる。いや、満蒙移民がたとえ未開の原野だけを開拓していたにしろ、そもそも他国に踏み込み、その国の人びとの許しなしに土地をわがものとし、開墾すること自体、してはならなかったのである。
日本の敗戦によって、開拓民は例外なく悲惨な運命をたどった。しかしその種はもともと、日本の軍事力を背景にして、中国人の土地を奪った開拓民の存在そのもののなかにあったのである。敗戦によって日本が力を失ったとき、中国農民の積年の恨みがいちどきに爆発し、それが開拓移民の襲撃という形であらわれたことを、ぼくたちはけっして責めることはできない。それが当然だというのではない(悲惨な日本人を親切にかくまったり、生命を助けたという証言もある)。たとえ大日本帝国の満州殖民政策に騙されて開拓移民になったにしろ、土地を奪われた中国人や朝鮮人から見れば、彼らも侵略者の手先であったにほかならず、そうした視点に立って満蒙移民を見返していかないかぎり、満蒙移民がたどらなければならなかった悲惨な運命の意味を掬い取ることはまったくできないだろう。
しかし、彼らの戦後30年もまた、どうもそのような方向を志向してはこなかったようである。
旧満蒙移民の「数少ない生存者」は「時折会合し、旧交を温めている」と投書の老人はいうが、そうした彼らの「会合」がどのようなものかを、旧満州開拓団関係者が毎年おこなっている合同慰霊祭――通称〈拓魂祭〉の場合で見てみよう。
東京新宿から京王電車に乗り聖蹟桜ヶ丘で下車、そこからバスで西側の丘陵に登ると、〈満州開拓殉難者之碑〉が建っている。あらゆる満州開拓関係者からの献金によって昭和三十八年に建てられたこの石碑は、はるか中国東北地区の方角を向いており、碑面には「拓魂」の二文字が彫られているのだが、その文字は、余人ならぬ加藤完治(熱烈な天皇制農本主義者で、満州農業移民推進の中心人物――註・河本)の筆になっているのである。毎年四月の第二日曜日には、この石碑の前に全国から数百人の人が集まり、死没者の慰霊祭がおこなわれるのだが、そのプログラムは警視庁音楽隊のファンファーレに始まる。そして、国歌斉唱による国旗掲揚は別にしても、日本体操(やまとばたらき――加藤完治が皇国精神と武道と農業の三位一体を満州開拓青少年義勇軍訓練生に体得させるべくおこなわせた体操――註・河本)の一部分である「天晴れ、おけ」が叫ばれ、また「弥栄(いやさか)」の三唱がなされ、最後にはつぎのような歌が全員で声高らかにうたわれるのだ。
万世一系 たぐいなき
天皇(すめらみこと)を 仰ぎつつ
天涯万里 野に山に
荒地開きて 敷島の
大和魂 植うるこそ
日本男児の 誉なれ(以下略)
(上笙一郎・前掲書)
いまもまだ、旧満州開拓団関係者によってこういう行事が行なわれているのである。彼らが自分たちの行為をなにひとつ建設的に反省してはいず、いまだに満蒙開拓の残夢にひたっていることが、このことから見てとれるだろう。
ここにも、「〇〇大空襲の記録」と同様、加害の認識を見事に欠落させ、自分たちが「あの戦争」の被害者であったことだけを強調するこの国の大多数の「戦争を知っている大人たち」に共通の傾向を、ぼくはいやでも見てしまう。「〇〇大空襲」の中を逃げまどった人たちが、自分の体験から、自分たちが加害者であったことを認識するより、旧満蒙移民の人びとが、自分の体験から自分たちの加害性を認識することの方が、はるかに可能であるはずなのに、彼らには自己の被害は見えても、自分たちが迫害を加えた相手の被害はいまもって見えていないようである。それは「あの戦争」のさなかだけでなく、現在もまだ、旧満蒙移民には中国の農民が自分たちと同じ汗して働く人間であることことが見えていない、危険で、しかも悲しい証拠以外のなにものでもない。
酷なようだが、投書の老人は「軍人なみの処遇」など政府に要求すべきではなかった。そうするよりもまず、自分たちが中国の農民たちに何をしたかを虚心に記憶の底から掘り起こし、そのことと、自分たちが何をされたかを照らし合わせ、そうしてこの国のごくありきたりの人びとをも包み込んだアジアの国々の人びとにとって結局「あの戦争」が何であったのかを、遅蒔きながらも考え始めるべきなのである。それは「戦争を知らない」ぼくなどには思いもよらない、辛く、困難な営為にちがいない。しかしその辛い作業をすすめることによってはじめて、この国のごくありきたりの人びとを、ふたたび戦争を引き起こすものたちの侵略の道具にさせないための運動の出発点が築かれるのである。この辛い作業をおしすすめる以外に、中国の人びとと旧満蒙移民と呼ばれる人びとを真に連帯させる方途はあるまい。
この投書を読んだとき、ぼくはもどかしさと怒りを覚えながら以上のようなことを考えた。しかしそのもどかしさと怒りは、けっして投書の老人のみに向けられたものではなく、むしろぼくを含みこんだこの国の人びとの戦後30年が、結局この老人にこのような叫びしかあげさせられなかったのだというもどかしさと怒りであったにほかならない。
(つづく)
〔初出:「私声往来第2号」1980年3月〕