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(回答先: Re: その1 「戦争を知る」ということ 5 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 9 月 10 日 12:44:41)
その1 戦争を知るということ 6
どうもぼくたちは、自分の受けた痛みには人一倍敏感に反応するのに反し、自分が他人に与えた痛みにはひどく鈍感なようだ。たとえこの国の人びとが個人としてどれほど良心的であり、優しい心の持主であっても、いま見てきたとおり、かつて自分たちが加担した「あの戦争」で、殺され、人間の尊厳を踏みにじられ、犠牲を強いられた人びとが気の遠くなるほどあまたいたし、いまもまだいることに、あいかわらず彼らは気づいていない。
他者から痛みを加えられたことのないものには、その痛みはけっしてわからない。ましてや自分の立場が加害の方向に傾けば傾くほど、その人の感受性と他者に対する想像力は鈍化していく。それゆえに、せめて自分が他者に与えた痛みを不断に想像しようと努力しつづけることがなによりも大切だろう。
そうしたことを確かめたうえで、もう一度「戦争を知らない子供たち」と「戦争を知っている大人たち」の関係にたちかえってみよう。
いままで考えてきたところから判断すると、残念ながら大多数の「戦争を知っていろ大人たち」がほんとうに「あの戦争」を知っているとはとても認められない。たしかに「戦争を知っている大人たち」は「あの戦争」を体験した。「あの戦争」の時代をそれぞれその人たちなりに必死に生きてきた。その生きてきたという事実のなかには、ぼくたち「戦争を知らない子供たち」がただ知識として知るだけではけして行き着くことのできない深い悲しみ、苦しみ、怯え、憤りなどがあったことだろう。だが、体験だけでは「あの戦争」を知ったことにはならない。だいいち、「戦争を知っている大人たち」の戦争体験は、「あの戦争」についてのごく一部分の体験でしかない。それであたりまえなのだ。巨大な時間と空間と、さまざまな国のさまざまな人びとを呑み込むことによってはじめて成り立った「あの戦争」の全体像を、誰もすべて体験することはできないのだから。天皇は天皇の戦争体験しか、補充兵は補充兵の戦争体験しか、そして被爆者は被爆者の戦争体験しか、体験することができなかった。
それだけによけい、「戦争を知っている大人たち」は、自己の戦争体験の殻に閉じこもり、そのことによって戦争を知っているなどという不遜に陥ってはならないのである。戦争に巻き込まれ、加担させられた人びとにとって、「あの戦争」を知るということは、ふたたび同じことを繰り返さない、繰り返させないための思想の根拠をしっかりと身につけるということにほかなるまい。そのためには自己の戦争体験の上にさまざまな他者の戦争体験を積み重ね、戦いの相手側の人びとの側から自己の戦争体験のもつ意味を問いなおし、いわば心の中での戦争の追体験を不断に重ねることによって自己の想像力を鋭く磨きつづけ、そうすることによってこの国のごくありきたりの人びとを含めたアジアの国々の人びとにとって「あの戦争」がどのようなものであったかをしっかりと認識していく以外に手だてはないのである。
たとえば、アメリカ軍が進駐してきたとき陵辱をおそれたこの国の女性たちは、そのときのおそれとおののきをもう一度記憶の底から呼び戻して、女子挺身隊の名目で駆り集められた厖大な朝鮮の乙女たちが、従軍慰安婦として前線各部隊に「配分」され、やがてまっさきに殺されていったことの意味を考えてみるべきだろう。アメリカ軍の無差別爆撃を体験した人びとは、その体験を土台にして、中国の人びとの生命と財産をゆえなく奪いつくし、焼きつくした天皇の軍隊の行為の意味を、すなわち兵士に仕立て上げられた自分たちの父や夫や兄の中国戦線の行為の意味を、考えてみるべきであろう。満州や中国からの引揚者たちは、自分たちが敗戦直後に体験した悲惨な運命の原因を、それまで自分たちが他民族の土地に住み、その国の人びとよりもはるかに恵まれた生活をしていられたのはなにゆえだったのか、にまで想像を拡げて考えなおしてみるべきであろう。
そして「戦争を知らない」ぼくたちもまた、現在進行している対アジア経済進出の意味を、進出されている側の人びとの声に謙虚に耳をかたむけることによって、明らかにしていかなければならない。そうすることによって更に、日本の経済進出が形を変えてはいるけれども、その根本においてかつての軍事侵略と重なり合うものであることをつきとめていかなければならない。
しかしそうした営みが、この国の戦後30年においてどれだけ為されてきただろうか。真摯に平和をうちたてようとするごく一部の良心的な人びとの手によって、かろうじてこの作業がおこなわれてきたけれども、この国の大多数の人びとは、「あの戦争」でとてつもなく大切なものを失い、失ったものを回復する営みをせぬままに、戦後30年をすごしてきてしまったのではなかっただろうか。
こう考えるとぼくは、大多数の「戦争を知っている大人たち」の戦争の知り方も、彼らによって「あの戦争」の正しい認識を継承されなかった「戦争を知らない子供たち」の知らなさ加減も、ともども恐ろしく思えてならない。
(つづく)
〔初出:『私声往来』第2号(1980年3月)〕