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1980年に書かれたエッセイだそうです。
ぼくたちの戦後責任と平和思想
その1 「戦争を知る」ということ 2
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sengo12.htm
ここ数年、「○○大空襲を記録する会」といったものの活動がかなり頻繁に新聞などで報道された。それ以前にも、「○○大空襲」とか「○○被爆記」とかの、いわば戦災ものとでも呼ぶべき記録がずいぶんたくさん出版されていて、ぼくもそのうちの何冊かを読んだ。そこには、「火のついた板切れ・トタン・布切れなどが火の粉にまじって飛び交い、逃げまどう人の肩や背にベタッと張りつき、そこから燃えだしていった。」(草の根会第一グループ・第七グループ編『わかれ』太平出版社)とか、「見れば眼下の水面は、焼死体、水死体で隙なくうまっていた。男たちは、みな手ぬぐいでほおかむりし、トビ口をのばして、おびただしい死体をたぐりよせた。硬直した死体は、ロープがかけられ、地上に引き上げられて、魚市場の魚のようにならべられる。」(早乙女勝元『東京大空襲』岩波新書)とか、「葛西通りにくると、道の両端の溝に子供と女の死体がごろごろならんでいる。(中略)路上には大きなお腹の婦人が衣類が焼けて、大きなお腹を空にむけて死んでいる。(中略)はだかの死体を山ほど積んだトラックに何台かあった。」(朝日新聞社編『東京被爆記』朝日新聞社)などなど、アメリカ軍による無差別爆撃がかつてぼくらの町々をどれほど凄惨な光景で覆いつくしたか、それによって非戦闘員である一般市民がどのように逃げまどい、呻き、死んでいったか、数限りなく記されている。
こうした記録を読むことはけっして楽しいことではないし、事実、ぼくはこの種の本をひらくたびに、ひらいてはみたもののいつもうんざりするのだが、しかしこれらの記録は「あの戦争」を直接知らないぼくにとってずいぶんよい教科書になった。この種の記録がいくらつぎつぎと書かれても書かれすぎるということはない。ましてや、現代戦の兵器は、30年前と比較にならないほどに進歩(?)している。一例として、「ヴェトナムで大量かつ広範囲に使用」されたナパーム弾についての小山内宏氏の解説を引いてみよう。
ナパーム(Napalm)とは、大型の爆弾型容器にナフサネート、パーム油、亜鉛、燐、ガソリン、重油などの発火、可燃剤をゼリー状油脂として充填したもので、これに信管をつけて投下する。
大型のものは800ポンド弾があり、これが投下されて発火すると、巾1キロ、長さ2キロという広い地域が、一瞬にしてセ氏800度以上の高熱の炎の海と化してしまう。しかも、材料が化学製剤だから、ナパームの飛び散って燃え上がった炎は水では消火できず材料が燃えきるまで消えることはない。
従って、一度ナパームの炎に把えられた人間や建物は被害を免れることはない。仮りに焼死は免れた人でも重い火傷を受け、原爆被害者と同様なケロイドを残すことは避けられないのである。ナパーム弾の被害は、小型核兵器のそれに匹敵するほどのものなのだ。(『日本は再び戦争をするか』エール出版社)
まして現代の都市は、「あの戦争」の時代にくらべて災害時の危険要素ははるかに多い。この現代の都市条件と、現代の対人殺傷用兵器の昔の焼夷弾などにくらべようもない威力とを、「○○大空襲」の事実と重ね合わせれば、もう一度同じことがぼくらの町にくりかえされれば、ぼくらの運命が死以外のなにものでもないことはいやおうなく想像させられてしまう。ぼくがの貧しい想像力では、アメリカの対人殺傷用兵器によってヴェトナムの人びとがどのように苦しめられ、殺されていったかということを切実に想像できなくても、それをわがことにひきよせ、30年前の出来事と重ね合わせてみれば、800ポンドナパーム弾がつぎつぎとぼくらの頭上に浴びせられればどのようになるかは、想像できるようになってくる。
このように「○○大空襲の記録」に類する幾冊もの本は、ぼくに戦争の恐ろしさを具体的に想像させてくれた。しかし、この種の本を読んでいるうちに、ぼくはまた、疑問をも覚えるようになった。これらのおびただしい記録はみな「戦災」の記録であって、それでは「戦災」以外の戦争の記録はどうなっているのだろうか。
もちろん、一冊の本の中に「あの戦争」のすべての側面を取り込むことなどできはしないし、この種の被害の書以外にも、たとえば「戦艦○○の最後」とか「日本軍かく戦えり」とかの、大本営作戦参謀がはるか高みから見下ろしているような戦記もののたぐいが山ほど出版されている。しかし、ごくあたりまえの銃後の人びとの戦争体験に対応する、ごくあたりまえの兵士に仕立て上げられた人びとの前線の体験の記録がほとんど出版されていないのはどういうことなのだろうか。いうならば、戦争に巻き込まれた銃後の人びとの被害の体験が、さまざまな場所で、さまざまなグループや個人の運動として、いまだに記録されつづけているのに、同じように戦争に巻き込まれた「ただの兵士」たちが、朝鮮や中国をはじめとする他国に出ていき、そこで何を見、何をし、何を感じ、何を考えたのか、そういった記録がないに等しいのがあまりに片手落ちに思われてならなくなったのだ。
兵士たちの記録が皆無だというわけではもちろんない。たかだか数年前から「あの戦争」について考えはじめたぼくでさえ、そうしたものを何冊か入手し、読むことができたのだから。ぼくらの知らないどこかに、この種の記録がまだいくつも読まれることを待ち受けているだろうことはまちがいない。
しかし、そうしたことを考慮に入れても、これらの記録はあまりにも少なすぎると言わねばならない。「○○大空襲」に類する記録が、いまだにひとつの連綿たる運動となって、さまざまな場所で、さまざまな人たちの手によって記録されつづけていることを考え合わせるならば、これら兵士たちの記録の総量はあまりにも貧しく、たとえていえば被災の記録の大海原に対する一滴の水でしかない。ぼくたちは「○○大空襲」に類する記録によって、ごくあたりまえの銃後の人びとの生活と思考と感情を知るほどに、兵士たちの記録によって、前線における彼らの行為と思考と感情を知ることはできない。僅かの記録から個別的な兵士たちの体験を知ることができても、そうした個別の体験に無数に出会うことによって、前線における「皇軍」の兵士たちの体験の総和を知ることはできない。
考えてみるとこれは非常に奇怪なことだ。「あの戦争」のさなか、「皇軍」の兵士に仕立てあげられ、前線に送られたごくあたりまえの人びとの数は、数百万単位にのぼるだろうに、彼らはなぜ、銃後の人びとのように、おのれの体験を記録し、「戦争を知らない子供たち」にそれを伝えようとしないのか。
いや、そうした動きがあることはあった。たとえば『きけわだつみの声』。あるいは運動というほどの強まりはもたないが、僅かに生き残った人たちによって語られた、太平洋戦線の島々での、友軍の支援もないままに、アメリカ軍の圧倒的な物量のまえになすすべもなく「玉砕」していった兵士たちの、みじめな戦いのさまと、死。
しかしこうした記録があるならば、中国戦線における「皇軍」の兵士たちの体験記録もあってもよさそうなものなのに、ぼくが読みえた範囲内ではごく僅かの例外、(たとえば神吉晴夫編『三光』、高崎隆治編『無名兵士の詩集』、そしてこれは兵士の体験ではないが、しかし兵士と同じような状況で前線にいた人のものとして、佐々木元勝『野戦郵便旗』)をのぞいてはほとんど皆無といってよいのはどういうことなのか。
思うに、戦争末期、特攻隊員として「散華」していった学徒兵や、太平洋戦線で「玉砕」した兵士たちの体験が記録として残されているのは、、そのときの彼らの立場が主観的にはほとんど百パーセント被害の状況に包まれていたからだと考えられる。若き荒鷲たちは片道切符の飛行機に乗せられ、敵艦に体当たりするしかなかった。彼らには、敵艦を沈める爆弾の部分品にされることを肯うしか方途はなかった。南海の島々で「玉砕」した守備隊員たちにとっては、敵の攻撃を受けて密林をさまよい、洞窟にこもり、手榴弾で自爆したり帯剣で互いに相手を刺し合って自決する以外になにひとつ選択の道はなかった。この点において、彼らの状況は、焼夷弾の雨を浴びる羽目におちいった銃後の人びとの状況と、大きな共通項をもっている。
これに反し、中国戦線の兵士たちの状況は、ついにあの戦争が終るまで彼らの主観の中においてさえ、百パーセント被害の立場に立つことはなかった。これは中国戦線の状況が、太平洋戦線におけるアメリカとの戦いのように、正規の軍団と軍団の遭遇戦に終始したわけではなく、国民党軍との戦闘のほかに、それを圧倒する要素として、共産軍と中国民衆との渾然一体となったゲリラ戦を経験しなければならなかったことが大きな原因となっている。ヴェトナム戦争における解放戦線の戦い方を知ることによってぼくたちにもわかるとおり、ゲリラは民衆の支持を絶対条件にし、民衆の中に埋没して戦う。侵略国であるアメリカ軍にとっては、戦況が不利になればなるほど、ますますゲリラと民衆を区別することが困難となり、ついには、はっきり味方とわかるもの以外は、たとえ非戦闘員であっても、ヴェトナム人はみな敵だ、ということになってくる。そして、自分たちが殺されないためには、敵はみな殺せ。
中国戦線における日本軍においても、ことはまったく同じだった。いや、ヴェトナム戦争におけるチュー政権に匹敵するものをもたず、装備も兵站能力もヴェトナムのアメリカ軍のそれと比べようもないほど貧弱で、しかも厖大な中国の領土と民衆の中で戦わざるをえなかった日本軍にとって、ヴェトナムのアメリカ軍以上にゲリラは脅威だった。広大な中国大陸に伸ばせるだけ戦線を伸ばした日本軍は、地図の上での制圧地域の拡がりとは裏腹に、事実は、点と線を確保することしかできはしなかった。いや、確保したはずの点と線さえ、夜になると、中国側の攻撃を受けるありさまだった。これは戦争末期の話ではなく、戦局が中国大陸に限定されていたときから、既にそうだった。
つまり日本軍は、中国との全面戦争に突入したかなり早い時期から、ゲリラ戦の泥沼にひきずりこまれていたのだ。そして気がついたとき、もはやこの泥沼から抜け出ることは不可能になっていた。日本軍はこのことにあせり、怯え、対ゲリラ戦法として、三光作戦(日本側の用語では燼滅作戦)を行なった。殺しつくし、焼きつくし、奪いつくせ! まさにヴェトナム戦争におけるアメリカ軍の手本が、日中戦争における日本軍の対中国ゲリラ作戦だった。
日本軍がついには非戦闘員である中国の人びとをも戦闘上の敵とみなさざるをえないところまで追い込まれていったということは、その軍隊に組み込まれていたひとりびとりの兵士たちが、中国の民衆を殺しつくし、彼らの財産を焼きつくし、それを奪いつくしたということである。おまけに「天皇の軍隊」はやがて、「現地調達」をしながらこの対ゲリラ戦を戦わねばならなくなる。「現地調達」すなわちカッパライだ。
「大日本帝国」などといかに強国ぶってみたところで、資源をもたないこの小さな島国は、長期戦を戦うだけの物資の裏づけをもってはいなかった。ましてや中国の奥懐は深く、正面の敵をいくら急追し、いくつもの大都市を陥落させたところで敵は参らない。いきおい日本軍の戦闘能力を超えて戦線は伸びに伸び、その戦闘能力よりもさらに貧弱な兵站能力は、伸びきった前線をほとんど維持することができなくなった。補給が途絶えれば、カッパライを働くほかはない。現地部隊に対して、「今後は現地調達をムネとすべし」という作戦命令が出ることになる。
だからこれは、質の悪い兵隊が個人的に悪事を働いたなどというなまやさしいものではないのである。戦線が伸びるに従って、民衆からカッパラッタものを食い、使用しながら戦うことが「天皇の軍隊」の作戦の前提になっていった。カッパライをしなければ戦闘を続行できなくなっていった。
「国」をカッパラウという卑劣な行為の本質を、「八紘一宇」だとか「大東亜共栄圏の確立」だとか「王道楽土」だとか「暴支膺懲」だとかのプロパガンダで、戦争をひきおこしたものたちはごくあたりまえの人びとの目から隠しおおせることができたかもしれない。しかしひとりびとりの兵士たちにとって、具体的に中国の人びとのものをカッパライ、抵抗するものはもちろん、それをもっていかれたらわたしたちは生きていかれない、お願いだから見逃してくれと懇願するものも、いや、何もしないものをも、情容赦なく殺し、ついでに自らの性的欲求のために中国女性たちの性をもカッパラッタという、個人的で具体的な行為の後ろめたさは、そんなイデオロギーやアジテイションでは誤魔化しきれない。
もちろん、「天皇の軍隊」が中国で戦いをつづけているあいだは、ヴェトナムを侵略したアメリカの兵士たちにとってヴェトナム人が自分たちと同等の「人」ではなく、なにやらいかがわしい「グーク」であったと同じように、日本人にとって中国人は犬や牛よりいくらかましな「チャンコロ」であって、そんな「チャンコロ」のものをカッパラッても、「チャンコロ」そのものを殺しても、さしてなにほどのことも感じなかったかもしれない。(同じ行為を日常のこととして繰り返しているうちに、はじめのうちはこんなことをしてはならぬと心中ひそかにおそれ、とまどい、震えたにちがいない初年兵の人間としての拒絶反応も、やがてすこしずつ薄らぎ、消えていった)。しかし「あの戦争」が終って、兵士から市民にかえった彼らの胸の中に、まるで肺結核の後遺症の影のように、かつて自分たちが行ったことの疚しさはよみがえり、彼らは沈黙を守ることによって、その後ろめたさをかろうじて隠しとおしてきた。
炎熱地獄の中を逃げまどい、かろうじて生き残った銃後の人びとが、まるでそうすることが反戦平和の意思表示であるかのように、めいめいの体験を持ち寄り、それを記録として残し、今もまだ残そうとしているのに反し、中国戦線で戦ったごくあたりまえの兵士たちのなまの体験の記録がほとんどないといってもいい状態である原因は、ひとえにここにある。元兵士たちがおのれの体験を語るということは、かつて自分が中国の人びとに何をしたかということまでをもおのずと白日のもとにひきずり出すことであり、そんなことを妻や子供に、友達や親戚のものたちに、会社の同僚や町内会の人びとに知られるのは、やはりひどくつらく、恐ろしい。いや、そうした自己の戦争体験をはっきりと表明しないまでも、それを思い出すだけでさえ、まともな精神の持主にとってはひどい苦痛であるにちがいない。
このように「戦争を知っている大人たち」の戦争体験のうち、今日ぼくらは被害の体験の記録には無数に接することができるのに、それと表裏の関係にある加害の体験の記録にはほとんど接することができない。
もちろん、この国の人びとの戦争体験のこうした欠落部分を埋める仕事は、一部の良心的な知識人によってなされてきた(たとえば、洞富雄『南京事件』、本多勝一の一連の中国ものルポルタージュ、平岡正明『日本人は中国で何をしたか』、熊沢京次郎『天皇の軍隊』、高崎隆治『戦争文学通信』)。いうまでもなくこうした一連の仕事は被害の体験しか語られることのないこの国の戦後30年の状況の中では、ひどく貴重なものであり、ぼくが自分なりに「あの戦争」についての視点をもつことができるようになったのも、こうした人たちの良心の営為のおかげだった。しかし、それはあくまでも第三者による「あの戦争」に関する日本人の加害行為の発掘であり、そのことを通しての日本人にとっての「あの戦争」の意義づけであり、それらの仕事が優れたものであることを認めすぎるほどに認めてもなお、それはごくあたりまえの兵士たちの戦争体験の表白のもつ意義にとってかわることはできない。
ぼくたちはいったいいつになったら「○○大空襲の記録」に無数に接することができるように、中国戦線の元兵士たちが自らの体験を持ち寄ってつくった記録に接することができるようになるのだろうか。
(つづく)
〔初出:「私声往来第2号」1980年3月〕