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日本は原子爆弾は完成できたか? 仁科芳雄と「二号研究」
http://www.asyura2.com/0406/senkyo5/msg/583.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 9 月 17 日 20:09:53:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 昭和天皇は日本の原爆開発を止めさせられて、研究成果の廃棄も命じられました。 投稿者 福助 日時 2004 年 9 月 17 日 13:40:05)

仁科芳雄 理化学研究所 「二号研究」で検索すると沢山出てきます。

仁科博士がサイクロトロンを開発した様に当時の日本の原子核研究が最先端にあったことは事実ですが、「原爆製造」という
技術と直結すると考えるのは早計ですが、「天皇陛下の命」に逆らって?原爆研究は進められていたようです。
堀栄三氏の『大本営参謀の情報戦記』によれば昭和18年東条首相の肝いりで始まったとありますが、『御進講』申し上げる
ほどの成果が上がったかは疑問です。

仁科芳雄博士とは?
http://www.nishina-mf.or.jp/nishina-bio.htm

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http://www.ii-okinawa.ne.jp/people/ume/Atomic_Reaction_1_0307.htm

広島、長崎を教訓に生まれた核兵器の不拡散体制が崩れ始めた。核保有国は8カ国に増え 、北朝鮮の核保有宣言も
飛び出した。核拡散の流れを日米関係を軸に探った。


現代史の重要な瞬間を記録する一つの手紙が埼玉県和光市の理化学研究所記念資料室に展示されている。

手紙を書いたのは日本が一度だけ真剣に原爆開発に取り組んだ「二」号研究の責任者に仁科芳雄(1890−1951)。
45年。8月7日夜、前日広島に投下された「新型爆弾」の実地調査に出向くよう命じられ、同僚に残しまたものだ。

「我々『二』号研究の関係者は文字通り腹を切るときが来た」(米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を
出したという)核の恐ろしさを伝えている。

連合国、枢軸国双方で進んだ原爆開発に携わった科学者の中で最初に、その威力を目のあたりにした仁科記念財団
(東京都文京区)に残る恩師の原子物理学者ニールス・ポアーに当てた書簡は「核エネルギーの有効な国際管理」
を訴えている。

世界政府機構にもひかれた仁科は初代の日本ユネスコ協力会連盟会長にも就任。各時代を到来させた「責任の一端」
を持つ「科学者の罪滅ぼし」を胸に、49年には日本学術会議総会で核の国際管理を目指す声明を採択も実現させた。
オッペンハイマーら米国の核科学者らも国際管理を唱えた。原爆に関与した世界最高の頭脳が到達した同じ結論だった。
この科学者らの「核の国際管理」は曲折を経て戦後の核不拡散体制の土台となり、68年の核拡散防止条約(NPT)
制定につながった。
しかし仁科が「二つまたは二つ以上に」増えてならないと願った核保有国は今や五代国に加えインド、パキスタン、
イスラエルと増え続けた。日本の核武装も唱えられ「北朝鮮、中国の抑止力」として核保有を促す米専門家も登場した。

二号研究でウラン濃縮を担当した仁科記念財団常務理事の中根良平は「仁科先生は戦争中には原爆はできないと
わかっていた。特攻隊が出撃する中、苦しかったと思う」と振り返る。「科学者がもたらした悲惨な結果にショックを
受けた。だから絶対に戦争をやっては駄目だなとなった」と言う。
だが、仁科は米ソ対立で核の国際管理が一向に達成されないことに悩む。病死する3年前の48年には対談で「望んで
いる逆の方向に進んでいる」とも漏らした。(2003.7.29)


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http://www.lookthai.com/jp/news/nwabomb.HTM

日本の第二次大戦中、原子爆弾作成計画

大戦中、日本が原子爆弾を作っていた証拠

第二次世界大戦が終わりのころドイツ潜水艦NAZIが捕獲されニュウハンプシャ州のポーツマスに着いた。
このとき潜水艦に積まれていた荷物の正式発表はなかった。
この潜水艦の目的は当時極秘にされていた。後に発表されたが潜水艦は原子爆弾を作る原料となるウラニウム酸化物
を日本へ向けて運んでいたのだ。潜水艦には日本人将校2名が同行していた。しかしポーツマスへ連行される間に
自決してしまった。

それから2ヶ月後、最初の原子爆弾がニューメキシコの砂漠で大音響とともに完成した。これが日本の2つの都市に
落す原子爆弾のもとである。
このとき日本もまた自国の原子爆弾を作るべく動いていた。この爆弾のことは誰も知らされず公表もされていなかった。
しかしその証拠は残っている。
アドルフ ヒットラーが自殺した後まもない1945年5月19日に北大西洋で捕らえられたドイツ潜水艦のウラニウムである。


証拠資料の公開

今その資料が極秘事項からはずされ詳細が明らかになっている。資料によれば10箱に入った560Kgのウラニウム
酸化物が日本軍に送られる予定だった。
「ドイツは崩壊した。彼らは多量のウラニウムを保管していた。彼らの中の何人かがウラニウムを日本へ持って行くこと
を考えていたのだ。」、カリフォルニア大学の物理名誉教授ハーバートヨーク氏は語っている。
ドイツのテレビ局Zeit−TVは自決し、水葬された日本人将校について当時の船員にインタビューしている。
「日本人将校は自決する権利を強く主張していた。多分秘密を守るためだろう。」と彼らは言う。
押収されたウラニウムはテネシー州のオークリッジに送られた。そしてアメリカの原子爆弾プロジェクトマンハッタン計画
に使われと思われる。
「これらのウラニウムの一部が1945年8月6日広島の落とされた原子爆弾であった可能性もあるかもしれない。」と
USエネルギー.デパートメントのスキップゴスリングは言う。しかし1945年8月9日に長崎に落とされた原爆は
ウラニウムでなくプルトニウムをもとに作られている。


日本は原子爆弾は完成できたか?

当時日本が新型爆弾を作ろうと苦心していた事実はもうすでに知られていた。しかしどこまで完成していたかは不明の
ままである。
また日本に原爆投下を決めたトルーマン大統領が日本の新型爆弾計画について知っていたかどうかもまた不明である。
マンハッタン計画に参加した物理学者たちは、日本の原子爆弾作成プログラムについて戦争が終わるまで知らなかった
とインタビューで答えている。
「誰も知らなかったと思う。」とヨーク氏はサンディエゴで答えている。「日本が何か計画をしているとは考えても
いなかった。私たちが憂慮していたのはドイツ方だった。」
日本が新爆弾を計画していることがトルーマンに原爆投下の決断をさせてしまったのだろうか?
「もし明らかな証拠があったとしても、それは爆弾を使ったことの非難を和らげようとしてやっていることだ。」
原爆反対グループ “ロス アロマス“に30年以上働いているスティブン スタッダート氏は言う。また同グループの
研究班グレッグメロー氏は「全く見当違いもはなはだしい。」とこの話しを非難している。
広島への原爆の死傷者は約13万人、長崎では7万5千人が死傷している。このときアメリカ軍の上層部では日本へ
上陸した場合、約200万の命が失われるだろうと予測していた。

メロー氏は日本の原子爆弾は恐怖を感じさせるほど進んではいなかったと主張する。しかし“日本極秘戦争“の著者
ロバートウィルコックス氏は本の中で「新型爆弾について日本はドイツより進んでいたかもしれない。実際の証拠は
そのことを示唆している。」と言っている。

ウィルコックス氏は言う「我々は戦争中に日本は爆弾の開発を続けていたことを知っている。もし完成していたならば
戦争は終結しなかった。我々が入手した資料ではそれを“神風“に積んで駆逐艦に特攻させるつもりだったようだ。」
1945年8月15日日本は降伏した。その後アメリカ占領軍は5つの日本製原子核破壊装置を発見している。これは
ウラニウムから核分裂物質を分離することが出来た。アメリカ軍はすぐに破壊し東京湾へ捨ててしまった。
ウィルコックス氏は1995年新たな極秘文書の公開をもとに彼の本を改訂した。それによれば日本は他に6つの大型
分離器を作っていたと言うことだ。

ほとんどの歴史家や科学者は、日本の原子爆弾は完成にはほど遠かったと言っている。「我々は当時何百もの大分離器
を持っていた。」と引退したロスアラマスの科学者ジョン ホプキンス氏は言う。「我々は低い抵抗コイルを作るため
フォートノックスからの銀の板を使って何百もの大分離器を作った。ウラニウムからU−235を取り出すため、これを
24時間稼動させていた。そして4個の原子爆弾に相当するU−235を作り出すことができた。これは原子核破壊装置
となるものだ。」

「当時、もし日本が十分な量のウラニウムを持っていたとしたら我々は驚いたかもしれない。しかし日本が原子爆弾の完成
に近かったと言うのは全くナンセンスだ。」とホプキンス氏は言う。

日本軍の原子爆弾開発

戦争中の原子爆弾の開発はヨシオ ニシナ中心に行なわれていた。彼は若いとき、原子についてのパイオニアであるニールボア
とコペンハーゲンで一緒に働いていた。
USジャーナル サイエンスによれば彼の助手であったマサ タケウチは日記に1日当たり300ミリグラムのウラニウムを
得るため何百トンものウラニウム石を処理していたことを書いていたと言うことだ。
日本の科学史の専門家テツ ヒロシゲによると日本の原子爆弾予備実験は1940年に始まったらしい。この実験はF号
(No.F 「Fission-分裂 からFをもじった])と呼ばれ1942年には京都で本格的な実験になった。情報に
よると最初この実験に日本軍は関与していなかったらしい。
そして1978年雑誌サイエンスではこの日本の原子爆弾の実現性について全くなかったとしている。

ウィルコックス氏は「その後日本軍部が研究を引き継いでいたことが資料から判断できる。」と言っている。この研究には
日本工業界も参加し、大型の分離器を完成させた。また日本軍はウラニウムを捜すため、およそ2500万US$を中国に
つぎ込んだ。
ウィルコックス氏とチャールスストーンの研究者の調べた資料によれば日本は空爆が始まると、この研究所を韓国半島に
移したと言うことだ。ポストワーの資料ではアメリカが今の北朝鮮フングナム(コナン)にある日本プラントを原子爆弾
研究所として疑っていたことが判る。US軍24師団はこのフングナムプラントの噂からここで原子爆弾の研究を行なって
いたことは十分有り得ると言っている。
フングナムプラントから出される異常な廃棄物はソ連潜水艦により何ヶ月にもわたり採集されている。

戦争終了後、US軍24師団の取り調べ班の1人ダヴィッドスネル氏は日本人将校を取り調べた。「彼らは戦争終了の3日前、
フングナムのある島で日本軍が小型原子爆弾を爆発させたと述べた。」とスネル氏は報告している。報告によれば日本軍は
ソビエトが来る数時間前に不完全な爆弾を含め、そのプラントを破壊してしまったらしい。
スネル氏の報告を受けアメリカは日本政府を再調査したがその事実は発見されなかった。スネル氏は将校が述べたことを
もとに話してくれた。「B−29の京都爆撃のため研究所はフングナムへ移された。そのため日本軍の研究は3ヶ月遅延した。
もし京都爆撃が3ヶ月遅かったら日本軍は原爆を完成していただろう。」

第2次大戦について研究している明治大学の歴史教師のアキラ ヤマダはフングナムに原子爆弾の研究所があったことは疑わ
しいと言っている。彼はその証拠は全く発見出来ていないと言う。そこで働いていた研究者やそのことを知る将校は今の
ところ誰も名乗り出てきていない。しかしながら他の戦争兵器、化学兵器の証拠は明らかになっている。
しかし1945年4月の爆撃によりニシナ研究所が打撃を受けたことは明らかである。

それから4ヶ月後原子爆弾が広島に落とされた。サイエンス誌によれば、このときニシナは日本軍から爆弾の開発が
6ヶ月で出来るかと尋ねられたと言っている。しかし広島原爆投下の数日後長崎に原爆が投下され、そして日本軍は降参した。

この爆弾で世界中の多くの人が恐怖を覚えたが、また多くの人が狂喜したのも事実だ。
西オーストラリア人がロスアラモス.ナショナル研究所のゲストブックに書いている。「広島に原爆が投下された
とき私は母や妹とジャワ当の捕虜収容所に居た。日本軍は報復として収容所の全員を船に乗せてジャワの海に沈め
ようとしていた。第2回目の投下で我々は助かった。ジャワ、スマトラやいたるところの捕虜収容所に罪もない
女子供たちが拘留されていた。私は助かってとてもうれしかった。」

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