現在地 HOME > 掲示板 > 雑談専用11 > 811.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re: 投稿者 kamenoko 日時 2004 年 10 月 29 日 12:29:12)
神が全能であり、聖書が事実として、(もちろん信じてはいないが)バビロンの塔での逸話を考えてみた。
言葉が通じない事で、争いが起こる事を彼(神)は予見できた。
その上で、殺し合いを「罰」としてさせている。
この事をランダムに教会を選び牧師宛にメールしてみた。(モルモン、ものみの塔、エホバの証人はのぞいて)
返事の一例
「神学において、その争いを収拾させるべく神が試練として罰を下さった例」との返事。
「罪を背負う人間に罰は当然であり、争う事を回避出来る能力も同時に与えてくださっています。争いを続ける我々が未熟な存在なのです。もっと愛を知る努力が必要です。」との返事。
書いてある事をここまで曲解すれば、なんだって「聖」になれる。
行きつけの寿司屋の壁にある「頑固親父の教訓」は、ずっと「聖」を感じさせる。
聖書曲解の極みが、戦争突入が平和への手段・・・として行動した(してきた)事だ。
アゲアシなんていうハイレベルではない「コジツケ」と「曲解」。
政治と宗教と軍事を分離できる将来が、真に正しい将来の様な気がしてならない。
宗教を否定しない。
戦争を否定したい。
今回もまとまらない文だ。申し訳ない。