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(回答先: Re: 支配される神 投稿者 アンチキリスト666 日時 2004 年 10 月 30 日 09:03:51)
アンチキリスト666さん、はじめまして、こんにちは。
聖書に関する一聯の問題点や矛盾点の指摘についてはアンチキリスト666さんにお任せするとして、宗教について感じていたことを少し書いてみたいと思います。
先ず、私自身に如何ほどの信仰心があるかといえば、語るべきほどのものはないと思い当たります。しかし、高校から大学にかけて所謂青年期特有の疾風怒濤[Sturm und Drang]の時代に、キリスト教系(プロテスタント、モルモン、原始福音)、仏教系(創価学会、日蓮宗の二派)、その他(PL教団、天理教)を訪ねて、ある時は祈りや祭礼や座談会に加わり、またある時は幹部候補を相手に論争を繰り返していました。ただ、その度に失意の連続でしたが、それは主に、彼等の言説からは何ら論理的な示唆を受けるものがなかったことによります。想い起せば八百屋に魚を求めいたようなもので、得られぬことに起因する徒労感ばかりを味わう結果に終わっていました。
>その中間に「キリスト教関係者」がいたなら、本質的にその宗教は、一部の「神を利用する者」の為のものだとして良い。宗教や信仰をシンプルには語れないが、その一面があり、特にキリスト教を語るときには重要な一面があると確信している。
自ら好んで思考停止するのを是とする人達がいることを否定できないと想いますが、人々のその様な心理に付け込んで宗教を組織維持や人心の懐柔のために利用してきた頗る無神論者の勢力が存在するのは本当のことではないでしょうか。それこそが、私にとって宗教システムやとりわけキリスト教にたいする懐疑の根幹となっています。
一定の期間、行動を共にした体験からも末端の信者の心根は純粋で一人一人が献身的であると感じました。しかも当然過ぎると云えば当然なのですが、彼等は教典の一字一句を有り難く受け取り疑念など微塵もないようでした。特に見かけの真摯さや受容性に反して、キリスト教系信者の信仰にたいする没我性の度合いには驚かされたものです。仏教系や他の宗教団体の信者達には幾分かの接点が見い出せたものですが、キリスト教系信者との会話では常に論点が食違っていました。
例えば「モーセの律法」も出エジプトに際してヘブライ人を統率するための内部規律であって、その後の世界でどれほどの通用性があったのか甚だ疑問ですし、後世の教会関係者の手になる脚色や拡大解釈によるところが大きいのは明白だと思われるのです。
確かに、荒野に放り出された人間が、その謂れや済いの道筋を神なるものに求めたとしても無理からぬことであると想います。けれども、何れにしてもそれは個人の信仰の問題でしょう。他面、荒野に放り出された人間達が、一体となって生き延びようと、その導きを神の思召しに求めようとするのは人間的所作を表象するかも知れません。つまり、それは宗教の問題となリ得ます。さらに、信仰の問題は自然的かつ個別的ですが、宗教の問題は作為的かつ集団的な面を伴なっています。当然ながら個人の信仰は許容されるべきものでしょう。
しかしながら、組織化を宗旨に含む宗教システムは個々の信者に思考停止を間接的に強要している訳ですが、その媒体となっているのが聖書をはじめとする教典に外なりません。勿論、それ等が生活上の知恵を記したものといった側面を見過ごすことはできません。けれども、教条的な信仰を煽って憚らないシステム運用者による曲解や歪曲には十分疑念をもって対処すべきだと考えています。(ただし、これを信者達に語りかけても通じはしないだろうなといった、悲観的な想いが浮んできます。)
何れの機会に、アンチキリスト666さんがアンチキリストになった経緯などについて語っていただければと希望しています。
また、会いましょう。