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(回答先: Re: 特に聖職者に疑問を持つべきです、 ときには詐欺師 もいますよ。 投稿者 ほのぼの 日時 2004 年 10 月 20 日 15:20:38)
ほのぼの様、レスありがとうございます。
私の短い、教会生活の体験からですが教会に集められた人達の全てではないが多くの人が問題を抱えております。 だから教会に行くのでしょうが、彼らの人生に対してに姿勢が神にゆだね、自己の問題を直視出来ず、神が全て変えてくれ、導いてくれると信じている。 教会に毎週行く事、教会の仕事をする事、寄付をする事で満足し、現実から駆け離なれていると思える。教会の中では何時も、ゴタゴタと揉め事があり、喧嘩別れ、教会の分離など、醜い交わりが起きている。もちろん、すばらしい牧師や信徒も居るのも知っています。ただ彼らに遭遇するほうが難しい。私の知っている牧師、5人ぐらいの仲で人間的にすばらしいと思えたのは一人だけです。
人には何時も困難が付きまとう。私自身が弱くなり、神に救いを求め、教会に赴いて行っも解決にはならなかった。 そして教会や信徒と離れ、冷静に自己、家族の問題に直視出来たとき解決策がうまれたように思えます。誰にもたよらず自己の最大限の能力までがんばれた時、神様が静かにその過程を見守っていてくれていると感じています。
人間には治癒力があり、病気も精神的なものも自己でかなりのところまで治癒できます。自分で手に負えないところは専門家の意見や助けを得ます。でも最終的には自分の責任です。苦しい時に決して逃げないことを心がけております。 時間がかかってもみっともなくても自分でやる、または家族でやると決めたとき、神様は私達が気ずかないくらい静かに共にいてくれるように感じます。
神様、神様と叫んでいるときは神様ははるかかなたにいらっしり、無我夢中で何かをやっている時、神の存在を感じます。と言ってもこれは私の感性であり、人は皆、違うと思いますが。神に遭遇するには聖書からではないとはっきり、自覚しています。人が集まる場所もただがやがやしているだけで神と遭遇しにくい。
要するに神とは自己の内面にすでに存在するものであり、それを何時、どうして認識するかは個人の問題だと思う。 この宇宙も人間も創造したのが神であるならば、おのずと神はおのおのの個人に存在しているとおもうのです。