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ぷち熟女さん、過日は真摯な応対をありがとうございました。
今回はセックス観を暫し傍らに置いて、私的(わたくしの)恋愛観について少し語ってみたいと考えます。多分その切っ掛けとなったのは、作家野沢尚氏の自裁と氏の原作及び脚本からなるテレビドラマの再放送によると想われます。
数年前のテレビドラマ『親愛なる者へ』で氏の存在を知りましたが、当時は自分より一世代も後の人が同じような恋愛観をもっていることに大変驚きました。しかし、野沢氏は誰に向けて何を発信しようとしているのか、判然とはしてきませんでした。つまり、自分と同世代ならばノスタルジックに過去を振り返ることはあるだろうし、またそれ相応の共感を得ることも可能だと思われたのですが、氏以降の人達のハートにどれほどの訴求力があるのか想像がつきませんでした。
現在再放送されている『恋人よ』を録画して夜中に見ていますと、自身の20代の出来事や心象風景と附合するものが数多く観とめられますが、果たして野沢氏自身の周辺に起ったことなのか疑念を禁じ得ないでいます。今となっては最早困難なことですが、氏は誰にどんな取材をしたのだろうか、そんな疑問が湧いてもきます。また、決してミスキャストとは思いませんが、出演者と同世代の人達がドラマで浮き彫りにされるのと同質的な心の機微を有し得ているかについても俄かに信じ難いものがあります。もし、単に氏の想像力が為せる業であったのならば、おそらく『恋人よ』辺りが限界ではなかったのではないでしょうか。それは、外因的には80年頃から以降、恋愛を取り巻く情況に新たな境地を拓くようなモメントが存在しなかったことや、内因的には恋愛の主体である人達の心性がかなり即物的なものにシフトしていったことが大きく影響するだろうと推察するからです。
もちろん、私個人の力では野沢氏の自裁の全容は解明できません。しかし、それを承知の上で想像を膨らませてみるならば、最近は推理小説作家として新境地を拓くべくその緒についていた様子ですが、氏自身より前の世代の心象風景を描こうとして結局は描き切れなかった、もしくは受けとめられるべき世代を見い出せなかったと云った未完了感や諦念に襲われていたのではないかと推察し、そんなことも自裁の一因になったのではと勝手な憶測をしています。
私にとって恋愛に関する最も鮮烈な印象は、私の男性性と彼女(女性)の男性性との応答(対話)にあったと言ってもよいかも知れません。すなわちそれは、彼女の男性性が私の男性性を理解していたことを意味していて、その反映として私には彼女の考えていることややろうとしていることが具に解り、また反応することにより結果として悦びを享受することもできました。ただし、一人の男性の男性性を理解できることはその他多くの男性のそれを理解できることにも通じるので、自分以外の男にも手を広げないかと心配の種にもなり得ます。
けれども、他方では今でも私の男性性は彼女の女性性を理解できないし、さらに彼女の男性性も私の女性性を理解し受け容れることはできないのではと考えています。それ故、なかなか男性性が顕在化しない女性との応答には苛立ちや困難さを覚えますし、反面剥き出しの男性性にも食傷気味にもなります。それでも、おそらく互いを理解するのはそれぞれの同一性同士をおいて他にはないのではと想われるのです。
恋愛関係において、互いが相和して(家庭を含め)何かを創造していくことにも価値があると思いますが、何と言っても相互理解が基本ではないでしょうか。人生観や価値観、それを何とか転換しようとしている意志、逡巡している心、苦悩している心を理解し、先ずは互いがそれに寄り添おうとすることだと思います。それは、まさしく相手を理解しようとする当為であると言ってもよいでしょう。
私の場合、常に好奇心から始まり、相互理解(恋愛)にまで発展するものは多くなかったのですが、その中でもある時点に達すると自分のことを理解してくれるように相手に望むのは自然の成り行きであると意識しました。しかし、そこは同時に恋愛の分岐点でもあり、その後は喜びよりも苦しみの方が多かったような憶えがあります。
おそらく、恋愛は男性性の相互理解の過程を経てやがて相互の女性性の理解に転化していくのが、最も根源的でもありその極致ではないかと想像するのですが、ぷち熟女さんはどのように考えられているのでしょうか。
また、会いましょう。