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(回答先: 用語解説などを織り交ぜながら 投稿者 如往 日時 2004 年 7 月 26 日 19:43:19)
ぷち熟女さん、こんにちは、暑さ厳しい今年の夏ですが、お見舞い申し上げます。
何やら、個人的な追憶の物語にお付き合いいただくようなことになってしまって、恐縮至極に感じています。補足になるのか、それとも蛇足になってしまうのか、大変危うい感じなのですが、ぷち熟女さんの考察の一助になれば幸いに思います。
こんな時節に反して、最近ヴィデオでジャック・ドミーの『シェルブールの雨傘』(1964)を観る機会がありました。高校時代、週に一日は映画館で過ごしたものです。あの頃はフランス映画をはじめ、アメリカン・ニューシネマや、一方では『サウンド・オブ・ミュージック』等のミュージカル映画の新着封切が多く、映画業界も一抹の隆盛を見せていました。
昔、『シェルブールの雨傘』を観た時の印象が、『親愛なる者へ』や『恋人よ』へと繋がる未完了なものを生んだ原風景になっていると言ってもよいかも知れません。自分がロマンチックに描いていた女性像は、ジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の即物性によって裏切られることになります。多分、私の幻想が強いものだっただけに、極普通に存在する女性が有する俗物性との乖離を埋めることができなかったと思われます。
けれども、それと同じようなことを後に私は現実に自分の恋愛で体験することになります。それも、終幕も間近なところで。女性(彼女)の即物的なところを含めて理解して、自分は愛してはいなかったと覚ったというのが顛末なのですが、特段物語にあるような劇的な展開ではないけれど、現実にもあり得ることだと身に染みました。その後この反省を十分活かしているかというと、完璧性については自信が持てずにいます。
幾多の試行錯誤やチャレンジの末、初めて恋愛らしき想いに突入したとき、私は何か懐かしいものに再会したような気がしていました。それは、母親でもなく、姉でもなく、父親でもなく、むしろ自分にもっと近しいもののように感じました。それが幼い頃のファンタスティックで快活で最も男の児らしかった自分だと知るのは、彼女と離別してからになるのですが、当時は彼女の考えていることや行動しようとしていることが具に分かりましたし、彼女の方も私がそれを受けとめてくれると容易に想像がついたのではと、そんなことさえも信じることができました。
私と彼女は男性性の比率が女性性に勝るという点で似た者同士であったと想いますが、恋愛中はそれでよくても結婚して家庭生活を営もうとする段階になると、即物性に代表される女性性を無視できなくなります。しかし、私には彼女の女性性が全く理解できなかった、というよりも勿論女性性を含む私という全体性で彼女の全体性を受けとめることができなかった、またそのような技量もなかったと、そんな反省(?)や悔恨がしばらくの間心に残りました。
特に女性に具わっている女性性は即物的であるが故に、本質的に頑固で揺るぎがないものだと思いますし、だからこそ総じて生物の命脈を連綿として保つことができたのだと推察しています。
以上は実体験に基づいてはいますが私の想像に過ぎません。女性に内在する女性性が如何なるものか、即物性も要素として必ず収まっていると想像しているだけで確認も特定もできている訳ではありません。
しかし、男の映画監督や作家によって描かれる女性像は実相にも本質にも迫っていないと考えていますし、女流監督や作家が描くものには本当の女性が隠蔽されてしまっていると感じてもいます。
そのような訳で、ぷち熟女さんなら応えてくれるかも知れないと甘い考えを承知で、尋ねてみようと思い立ったような具合です。
ご健康を祈念しております。
また、会いましょう。