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(回答先: 宗教学とイスラーム研究(1)[中田考氏] 投稿者 なるほど 日時 2004 年 10 月 07 日 08:01:08)
宗教学とイスラーム研究(2)
4.言語の規範性の認識論的基礎
前節では宗教学の「宗教学」概念に潜む規範性を明らかにしたが、著者の意図は、「宗教」概念の規範性を批判することではなく、規範性に無自覚であることの問題性を指摘することにあった。
既述の通り、イスラームは対自的に自己(イスラーム)を一旦相対化した上で一般的な「宗教」という「範疇」の存在を認めた最初の世界宗教であるが、それはイスラームが自らと偶像崇拝の多神教とを価値中立的に等値することを意味しない。イスラームは、イスラームと偶像崇拝の多神教を同一の土俵で比較することを可能とするために、「宗教」なる「範疇」を設定し、その上で、真なる「宗教」がイスラームであることを論証していくのである。イスラームの宗教学は、自らの規範性を明確に自覚する宗教学なのである。
一方、欧米のイスラーム研究は概ね「信徒の立場から大文字の唯一の『あるべきイスラーム』(Islam)を本質主義的に論ずるムスリムの規範的イスラーム学とは異なり、ムスリムたちのあるがままの複数のイスラーム(islams)を『客観的』に扱う『記述的』学問である」(10)といった形の、規範性と一般性という言語の基本的性格に無自覚なナイーブな自己理解を有する。こうした前学問的な前提が罷り通っているイスラーム研究の現状においては、迂遠に思えても、言語の規範性の認識に必要な限りにおいての言語について論ずることが必要とされる 。
ソシュールの指摘を俟つまでもなく、言葉と指示対象との結びつきは恣意的である。つまり両者の関係は自然的、必然的ではない。にもかかわらず言語が公共的に機能しうるのは、両者の関係が規範的に安定化させられているからである。言語には、統語論、意味論、語用論の3つの側面があるが、各言語はそれぞれの規則を有しており、言語共同体の成員にはその規則の遵守が課せられている(12)。
言語使用とは本質的に規範的な営為であり、規範性を帯びない発話は存在しない。いかなる語であり、言葉を発するということは、構文論、意味論、語用論の全てのレベルにおいて、一つの規範にコミットすることに他ならない。ただ、同じ規範が無自覚に即自的に共有されている言語共同体の中では言語の規範性は隠蔽され通常は意識化されないだけでなのある。「イスラームは虚偽である」との世界観を共有する非イスラーム世界におけるイスラーム研究者の間では、「正しいイスラーム」と「間違ったイスラーム」の区別は無意味であるが、それでも「イスラーム」という語を安定して使用しようと思うなら、意味論上、「イスラーム」の語の使用に関する何らかの規範的定義が必要となるため、「ムスリムがイスラームと呼んでいるものは全てイスラームとよぶ」といった類の規範を立てる必要が生ずるのである。しかし非イスラーム社会では、イスラームは虚偽であるとの前提が、共同主観的に「真理」であるため、その前提を客体化した上で、その前提に基づく規範を自覚化することができず、それゆえ自らの研究の規範性に気づかず、それを価値中立的な「記述的」と錯覚することになるのである。
また「唯一の大文字のイスラームを語ることが本質主義である」、との批判は、言語が有限な記号によって無限の事象を指示するものである、必然的に語が一般性を持たねばならない、との基本的事実から目を逸らした恣意的な「言い掛かり」のレベルを超えるものではない。語(あるいは、語の指示する概念)に実在が対応するか否かについては、哲学上、古来よりの実在論と唯名論の対立があり今なお決着を見ておらず、論争史を踏まえずに軽々しく「本質主義」などとのレッテルを貼って何事かを批判した積りでいる、などということはそもそもあってはならないことであるが、なぜそのようなことが非イスラーム世界のイスラーム研究には生じてしまうのかというと、やはり彼らが「イスラームは虚偽である」との世界観を共有しており、それが、共同主観的に「真理」であるため、その前提を客体化した上で、その前提に基づく規範を自覚化することができないためかと思われる。
「大文字の唯一のイスラーム(Islam)」を語ることが本質主義なら、「小文字の複数のイスラーム(islams)」を語ることも本質主義である。取りあえず、辞詞、形容詞、副詞、動詞などは措いて名詞だけに議論を限ったとしても、「本質主義」が批判の対象となるなら、全ての普通名詞の使用は禁じられることになる。勿論、「本質主義」なる語の使用も、唯一の「本質主義」なるものの実在を前提するが故に禁じられるべきであろう。実は、仮に普通名詞の使用を全て禁じ、固有名詞のみしか使わないとしても、本質主義の批判をかわすことはできない。なぜなら、固有名詞には、確かに「静態的」あるいは、「空間的」類概念の包摂による共通の本質の前提は存在しないこともありうるが、個物のアイデンティティーとして時間的に不変な本質を前提する「本質主義」を必然的に伴うからである(13)。
「本質主義」という批判が首尾一貫して行い得ないことは、既に明らかであろう。しかしそれは「本質主義」という批判が全く無効である、ということを意味しない。確信的な実在論者の間ですら、全ての語に実在が対応しているわけではなく、例えば伝説の「ユニコーン(一角獣)のような多くの語に実在が対応しないことは自明の前提とされている。そのような語に対しては、語の存在、とりわけ個物を纏めて類概念を作りそれらに共通する本質を想定しそれに対応する実在を虚構しその虚構の上に議論を組み立てること(市場のイドラ)を、「本質主義に基づく誤謬」として批判することは正当であろう。
つまり「本質主義」の批判が成り立つのは、語に対応する実在がない、と批判者がみなす場合に限られるのである。「大文字の唯一のイスラーム(Islam)」を語ることを「本質主義」として批判している者は、方法論上の批判を装ってただ「イスラームは虚偽である」と述べているに過ぎないのである(14)。
本稿の目的は、イスラーム研究における規範的アプローチの必要性を論証することあるが、それは既に明らかなように、記述的アプローチに替えて規範的アプローチを採るべきである、ということではない。イスラーム学に限らず、いかなる研究領域であれ、概念規定における規範性は言語の本質に由来する必然であり、選択の余地はない。従って我々に求められるのは、先ず研究を規定している無自覚な規範性を意識化し、次いでそれぞれの研究領域において清算的な研究成果をあげるために最も適合的な規範的概念を構築していくことなのである。
抽象的な概念の規範的な規定が、無限な事象を、その事象自体との関係が恣意的である有限な記号によって指し示す言語というものの本質に属し、いかなる研究も逃れ得ないことは明らかになったが、この言語使用に不可避的に伴う規範性とは区別される二次的な規範性の有無を問うことができるかもしれない。
イスラームが一般的な範疇としての「宗教」なる概念を創出し、その上で「真なる宗教」として自己規定することは既に述べた。「何が宗教であるか」という問いと「何が真の宗教であるか」という問いが区別される以上、後者の問いには前者の問いに随伴する規範性とは階層を異にする別種の規範性が含まれるのではないか、との疑問が生ずるかもしれない。しかし概念の規定と真偽の判断の規範性はむしろ連続的なものである(15)。概念規定に必然的に随伴する規範性と、真偽の規範性は別種のものと考えるよりも、概念が複雑、つまり概念が複合し、また他の概念との相互参照関係にある時、概念規定の恣意性を制御するために規範性が多重化される、と考えるほうが適切であるように思われる。
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