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(回答先: 宗教学とイスラーム研究(3) [中田考氏] 投稿者 なるほど 日時 2004 年 10 月 07 日 08:05:38)
宗教研究とイスラーム学
2.宗教学としてのイスラーム研究
イスラーム研究が、イスラーム研究と銘打つ以上、研究対象はイスラームでなければならない。そして言語の本質上、概念規定が規範的とならざるを得ず、イスラームは普通名詞であるので、その出発点は語義を離れないことが要請される。そこで本稿では、イスラーム研究において妥当なイスラームの概念規定が、「イスラームとは、降伏(istislam)、服従(inqiyad)であり、シャリーア(聖法)においては、謙譲を表し、シャリーアを奉じ、預言者(ムハンマド)が齎したものを遵守すること」、「アッラーフが『イスラーム』として承認するもの」であることを示した(24)。
アッラーフの不在、その論理的帰結としてのイスラームの不在を前提とする研究は(25)、地域研究、人類学、政治学、社会学、歴史学などの学問ではあってもイスラーム研究ではありえない。しかしイスラーム学と宗教学との関係は他の学問とのものとは違ったものとなるように思われる。
既述の通り、西欧の宗教学(以後、単に「宗教学」と記す)において、「聖なるもの」などと名づけうるような何ものかの存在を前提し、それが人間に現れる現象を扱うことは既に確立した方法論である。
従って宗教学の立場は、アッラーフを「聖なるもの」、ムハンマドを「宗教的人間」、啓示を「宗教体験」、シャリーアを「宗教思想」として理解することになる。
この立場はアッラーフの不在を前提する他の人文・社会科学の立場と、ムハンマドの啓示の真理要求を額面通りに受け入れることから出発するイスラーム世界のイスラーム学との中間に位置する。
宗教学においては「宗教体験」は個人の主観的(心的)な出来事であって、その内容が真理値を有する「客観的」な外的事実であるとはみなされないため、ムハンマドの啓示体験を「真正な」宗教体験とみなしたとしても、その啓示の真理性や預言者としての無謬性までも認めることを意味しない。従ってアッラーフを「聖なるもの」の顕現の一形態とみなしても、アッラーフがムハンマドの啓示が述べる通りの全治、全能の善なる世界の創造者たる唯一神であることを認めることにはならない。要するに宗教学においてはアッラーフの唯一性が前提されないことにより、宗教体系としてのイスラームが相対化され、ムハンマドの啓示の無謬性が前提されないことにより、他宗教との比較においてムハンマドのシャリーアが相対化されるだけでなく、イスラームの内部においても預言者ムハンマドの地位が相対かされ、彼の「啓示」体験も他の「宗教者」たち(主としてスーフィイー)の宗教体験と同列におかれることになる(27)。
前章において、イスラーム研究の異文化の解釈学の側面を指摘したが、宗教学は、イスラームを相対化することによって、イスラーム研究にイスラーム記述の翻訳言語を提供することができる。一方、イスラーム研究はイスラーム世界と非イスラーム世界の間での翻訳における意味のズレ、差異性を明らかにすることによって、その言葉の意味をより豊かなものとして、それを宗教学に差し戻すことができる。世界第二位の「宗教」イスラームの研究が宗教学の中で扱われない、という「宗教学」にとってのスキャンダルが克服されるとすれば、このような共同作業、相互参照によるフィードバックを双方が積み重ねていくことによるしかないであろう。
結び.
本稿では、西欧のイスラーム研究の歴史と現状を概観し、その認識論上の問題を指摘し、自覚的な規範主義的アプローチの必然性/必要性を論証し、宗教学とイスラーム研究の将来のあるべき関係を示した。
本稿が、イスラーム研究を、非イスラーム世界の一握りの自称「イスラーム専門家」の間でしか通用しない独り善がりの自己満足の域を超えて、イスラーム世界の広大なイスラーム学の世界との対話が可能な水準にまで引き上げるための生産的議論の起爆剤になれば、望外の幸せである。
http://homepage3.nifty.com/hasankonakata/sakusaku/6_1.htm