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宗教学とイスラーム研究(3) [中田考氏]
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投稿者 なるほど 日時 2004 年 10 月 07 日 08:05:38:dfhdU2/i2Qkk2
 

(回答先: 宗教学とイスラーム研究(2) [中田考氏] 投稿者 なるほど 日時 2004 年 10 月 07 日 08:03:28)

5.イスラーム研究の研究対象
 「イスラーム研究」が「イスラーム研究」を銘打つ以上、研究対象が「イスラーム」であることには異論の余地は無かろう。
 日本語の「イスラーム」、欧米諸語のIslamの原語はアラビア語であり、アラビア語はセム語の常として語根から様々な語が派生する構造を有する。「イスラーム」は、「平和」を意味する語根3つの子音「slm」から派生する動詞第4型の動名詞形であり、普通名詞である。標準的な古典アラビア語辞典イブン・マンズール(西暦1311年没)著『アラブの言葉(Lisan al-`Arab)』を紐解くと、「イスラームとは、降伏(istislam)、服従(inqiyad)であり、シャリーア(聖法)においては、謙譲を表し、シャリーアを奉じ、預言者(ムハンマド)が齎したものを遵守すること」とある。イスラームが普通名詞でもあり学術用語である前に日常用語である以上、取敢えずこの定義を概念規定の出発点とすることは妥当であろう。
 イスラームはイスラームを包摂する上位概念としての「宗教」という範疇を認めたが、同時に「誠にアッラーフの御許の宗教はイスラームである」(3章19節)とある通り、「真の宗教」を偽の宗教から区別している。言うまでも無く、「真の宗教」とはイスラームであり、その真理性を担保するのはアッラーフによる承認である。
 ここでは、この定義に顕れる「降伏、服従」、「シャリーア」、「預言者」という3つの概念を手掛かりに考察を進めよう。
この定義から明らかなように、イスラームとは、個々人の個々の瞬間における生き方であって、一般的な教義や規則の束ではない。そのことが理解されれば、「唯一の大文字のイスラーム」と「複数の小文字のイスラーム」といった二項対立図式の虚構性は自ずから明らかとなる。
 全ての個体が異なる個性と能力を持ち、あらゆる瞬間がそれぞれに異なった環境におかれている以上、求められるイスラームは個体ごとに瞬間毎に相違する。しかも一つの個体がある瞬間に求められるイスラームのあり方は一つに決まるわけではない。人間の数に応じて、それぞれに無数のイスラームが存在するのである(16)。
これは一見すると、「小文字のイスラーム」の考えと近いかの如き印象を与えるかもしれない。しかし両者の間には本質的な相違が存在する。それは「小文字のイスラーム」がムスリムの言動、思考の全てを無差別に「イスラーム」とみなすのに対して、ここでの議論は、あらゆるムスリムは常にその言動、思考の「イスラーム性」を厳しく問われている、と考えるのである。
 「イスラーム」が個々人の生き方であるとすると、「シャリーア」は教義の体系である。「シャリーア」とはアッラーフの御言葉である啓典クルアーンとそれを補完する預言者ムハンマドのスンナの教えの総体であるが、クルアーンは言葉であるのに対して、スンナとは預言者ムハンマドの言行(と黙認事項)を指す。既述の通り、有限な「語」は無限な世界に事象をその総体において記述することは決してできず、また有限な人間の脳は、無限に複雑な世界の事象をその総体において処理、把握することはできない。従って「預言者ムハンマドの言行」における「行」も、物理的事象としての預言者の行動ではなく、言語の篩にかけられ範型化された行為類型を指す。従って、シャリーアとは、クルアーン、預言者のスンナ(言行)の言語的に範型化された記録(ハディース)であり、つまり言葉の束として、存在する(17)。 この言葉の束としてのシャリーアは単一の実在であり、「大文字のイスラーム」はおおむねこのシャリーアの概念に対応していると言うことが出来よう。勿論、言葉の存在様態は、物体とは本質的に異なる。例えば「日本人」という言葉は、「日本人」と縮小(このメールでは縮小されていません)しても「日本人」とフォント(このメールではフォントは変わっていません)を変えても、あるいは「にほんじん」と読んでも、「ニッポンジン」と読んでも、その「語」としての同一性を保つ 。シャリーアが単一の実在である、との意味も、この言語の存在様態に応じた有り様においてなのである。
 シャリーアとはクルアーンとスンナであると述べた。イスラームにおいて特に断らずに(アラビア語では定冠詞「al」を付して)「シャリーア」と言った場合には、それは最後の預言者ムハンマドのシャリーアを指す。しかし預言者はムハンマドだけではなく、彼には、ヌーフ(ノア)、イブラーヒーム(アブラハム)、ムーサー(モーゼ)、ダーウード(ダヴィデ)、イーサー(イエス)などが多くの預言者が先行している。ムハンマドのシャリーアが先ず天啓のクルアーンであったのと同様に、シャリーアは預言者への天啓の概念と不可分である。ムーサーの律法(タウラー)、ダーウードの詩篇(ザブール)、イーサーの福音(インジール)などはクルアーンと同様に天与の啓典である。そしてムハンマドのシャリーアは先行する預言者たちのシャリーアに比べてより普遍的かつ包括的な完全なシャリーアであるが、預言者たちのシャリーアの真髄は一つであり、それが「イスラーム」という「宗教(din)」であり、「宗教は一つであるがシャリーアは相違する」と言われるのである(『アラブの言葉(Lisan al-`Arab』)。
以上の「イスラーム」の語の分析により、イスラームには預言者たちが伝えたアッラーフの御許における真の「宗教」としての教義体系のイスラームと、個々人のアッラーフへの帰依の様態としてのイスラームがあることが明らかになった。この両者は人間の視点からは別物であるが。アッラーフの視点からは同一である。なぜなら全知のアッラーフは、教義体系を構成する全概念の全ての外延と、世の初めから終わりにいたる全ての個々人のおかれた全ての個々の状況におけるイスラームのあらゆる可能性を見渡す視野に立っているからである。
つまり「イスラーム」を「アッラーフが『イスラーム』として承認するもの」と再帰的に定義することにより、その教義体系と個々人の帰依の二つの側面を統合的に把握することが可能となるのである 。
 「アッラーフが『イスラーム』として承認するもの」としての「イスラーム」は「あるべきイスラーム」、「規範的イスラーム」であるが、その基準となるのは預言者のシャリーアとなる。
 こうしてイスラーム研究とはシャリーアを参照し、ムスリムの営みの中から「真のイスラーム」を「イスラームならざるもの」から識別する作業となる(18)。
「真のイスラーム」の識別の問題を締め出す一方で、「イスラーム原理主義」、「イスラーム・テロリズム」、「政治的イスラーム」、「リベラル・イスラーム」、「民主的イスラーム」といった内容空疎な概念を弄び、学問を装ってイスラームの抑圧と歪曲を推し進めてきた従来のイスラーム研究との訣別こそ、これからのイスラーム研究の第一歩とならねばならない。

6.イスラーム研究の領域
 イスラームが諸預言者の宗教である以上、イスラーム研究は預言者ムハンマドに先行する預言者たちの宗教をも視野に収めなくてはならない。つまりイブラーヒームの宗教(イスラーム)、ムーサーの宗教(イスラーム)、イーサーの宗教(イスラーム)を、全て「イスラーム」として研究しなくてはならないのである。イスラームにおいては(真の)宗教とは預言者の教えである以上、イブラーヒームの教え、ムーサーの教え、イーサーの教えが規範的概念なのであり、古代イスラエル人の宗教、ユダヤ教徒の宗教、キリスト教徒の宗教ではない。つまり、ヘブライ語聖書、新約聖書からイブラーヒームの教え、ムーサーの教え、イーサーの教えを復元し、その光に照らして、ヘブライ語聖書、新約聖書、そしてその後のユダヤ教、キリスト教の中のイスラームを浮かび上がらせることもまたイスラーム研究の一部と成らねばならない。この意味において、イスラーム研究はもう一度「東洋学」の伝統に立ち戻り、聖書学、西洋古典学との繋がりを取り戻し、新たな認識論に立って再出発する必要がある。
またアッラーフは全世界の創造主であり万有の主であり、イスラームの世界観において万物は等しくアッラーフを讃え服従する被造物であり、イスラームとはこの宇宙の存在様態そのものである。その意味においては、理論的には、自然科学もイスラーム研究の一部と成りうる。しかし、伝統的にイスラーム世界においても、イスラームとは一義的には、人間の「宗教」であり、学問体系としても、「宗教」としてのイスラームを扱う「宗教諸学」は他の学問とは区別されていた。アッラーフは万物の創造主であり、万象の存在の根拠ではあるが、イスラームは、「現世(dunya)」と「来世(akhirah)」、あるいは「現世(dunya)」と「宗教(din)」の二つの領域を峻別している。現象界(`alam al-shahadah)である現世が人間の感覚によって把握される世界であるのに対して、不可視界(`alam al-ghaib)である来世と宗教は預言者たちの啓示によって知りうるものである。イスラームは現世と来世、現世と宗教が共にアッラーフに帰属するが、来世と宗教こそ優先されるべきことを説いている。ムハンマドのシャリーアは不可視界(19)と宗教(人間の生き方、法)についての教えであり、現象界についての教えではない。
 従ってイスラーム研究の研究範囲も、一義的には、不可視界の事柄と宗教、つまり人間の生き方、法となり、現象界の事柄(物質とアッラーフの関係)、つまり「自然科学」の扱う事柄は、除外されるべきであろう。
 本稿では、規範的アプローチの立場から、イスラームをその語義から出発し「アッラーフが『イスラーム』として承認するもの」として定義する「イスラーム研究」の規範的アプローチの研究パラダイムを提示したが、既に明らかなように、これはイスラーム世界の伝統的なイスラーム学に範を取っている。
学問の認識論/方法論的前提は研究が始動するための仮説であり、それ自体は真でもなければ偽でもない(21)。研究パラダイムの有効性が、ひとえにその生産性にかかっている以上、1000年以上の歴史を有し、今なお新しい問題を生み出し研究成果をあげ、近年ますますその量を増しつつある、伝統イスラーム学の「認識論/方法論的前提」の有効性は論証を必要としない。説明を要するのは、基本的認識論/方法論を共有する本稿の「イスラーム研究」と伝統イスラーム学の相違点である。ここでは主たる相違点として以下の四点のみを指摘するに留めよう。
 第一が語学の相違である。伝統イスラーム学は、アラビア語独善主義に陥っており、他の言語の習得のディシプリンを発達させなかった(22)。非イスラーム世界の視座からイスラームを観察、記述、分析するイスラーム研究は、その本質からしてアラビア語の世界に自閉することは不可能である。イスラームの根幹をなすクルアーン研究には比較セム語学の知識は不可欠であるが、他の研究領域においてもイスラーム研究はそれぞれの分野に応じた語学の習得が課されることになる。
 第二が、イスラーム研究の解釈学的性格である。非イスラーム世界のイスラーム研究は、イスラームを即自的に表現、記述することの出来ない言語環境において遂行されるが故に、必然的に異文化理解の解釈学の性格を帯びる。
 第三に、イスラーム学の実践志向性である。イスラーム学は、自らがアッラーフにいかに仕えるべきか、自らが何をなすべきかについてのアッラーフの御心を知るための手段であり、それゆえにそれ自体がイスラームの一つの形態である。他方、イスラーム研究は純粋に理論志向であり、学知そのものが目的となる。
 第四に、イスラーム研究の再帰性(自己言及性)である。即ち、イスラーム研究はイスラーム(シャリーアの意味での)そのものの研究であるよりも、「(ムスリムの)イスラーム研究の研究」(23)なのである。

http://homepage3.nifty.com/hasankonakata/sakusaku/6_1.htm

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