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宗教学とイスラーム研究 − 規範的アプローチのために
日本宗教学会の機関誌『宗教研究』第78巻341号[特集:イスラームと宗教研究](2004年9月)27−52頁に掲載された「宗教学とイスラーム研究 − 規範的アプローチのために」の転載です(投稿時のワードファイルを元にしておりますので、『宗教研究』に掲載されているものとは若干の字句の違いがあります)。
宗教学とイスラーム研究(1)
要約
西欧の宗教学は「神学」を出自とする。他方、イスラーム世界にはそもそも「神学」は存在せず、イスラーム学とは「宗教学」であった。しかるに西欧の宗教学はこのイスラームの「宗教学」を包摂する道を選ばず、かえってイスラームに「イスラーム研究(東洋学、地域研究)」という別の専攻を割り当て、イスラームを視野に収めることなくその「宗教」概念を構築してきた。こうして形成された西欧の宗教学もイスラーム研究も価値中立的な客観的記述を標榜するが、実はイスラームの真理性要求の拒否を無自覚な規範的前提としている。
本稿は、言語の規範性の本質にまで遡り、イスラーム研究における規範主義的アプローチの必要/必然性を基礎付け、「イスラーム」の辞書的意味から出発して、「真のイスラーム」と「偽のイスラーム」の識別をこととし、伝統イスラーム学との接合、イスラーム世界との対話を可能ならしめる新しいイスラーム研究のパラダイムを提示する。
序.
本稿は、宗教学とイスラーム研究の関係を考えることで、両者の抱える認識論的不備を明るみに出し、イスラーム学における規範的アプローチの必要性/必然性を論証する 。
1.イスラーム研究とは
世界のイスラーム研究は、イスラーム世界におけるイスラーム学と非イスラーム世界におけるイスラーム研究に大別できる(1) 、と言うと、専門家以外には、あたかも同列の二つの学問体系が並存しているかの如き、誤解を与えかねない。しかし現実には両者は質量ともに比較にならないほどの隔たりがある。
イスラーム世界にはエジプトのアズハル大学、サウディアラビアのイマーム・ムハンマド・ブン・サウード・イスラーム大学、イスラーム大学(マディーナ)など大学レベルでのイスラーム大学が存在し、それぞれクルアーン学部、ハディース学部、イスラーム法学部、イスラーム神学部、イスラーム宣教学部など学部レベルで専門分化したイスラーム関連学部を有し、それぞれの学部で数十人の教官と数千人の学生を有する。他方、非イスラーム世界(2) にはそもそも大学レベルでのイスラーム大学は存在しないばかりか、学部レベルでのイスラーム学部も存在せず、僅かに学科レベルでのイスラーム研究学科が存在するのみである(3)。 質のレベルでも、専門研究を謳う建前とは裏腹に内実は極めて貧弱である (4)。
日本にはイスラーム世界のイスラーム学は存在せず、その内容を知る者も極めて少ないため、日本ではイスラーム学と言えば、非イスラーム世界、もっと有体に言えば、欧米のイスラーム研究を指す。本稿の目的は、この欧米のイスラーム研究に範を取った日本のイスラーム研究の方法論の問題性を明らかにし、規範的アプローチの導入の必要性を論ずることにある。
2.宗教学とイスラーム研究
現代の日本で「宗教学」と言えば、西欧のキリスト教神学の伝統の中から19世紀に生まれた学問を指す。イスラーム研究が、この西欧起源の宗教学とどう切り結ぶことができるのか、を論ずるためには、まず「宗教学」と「イスラーム学」の構造的な比較は必要となる。
宗教学の神学起源の痕跡は、宗教学の基礎付けを試みたオットーの「ヌミノーゼ」、エリアーデの「ヒエロファニー」などの概念規定の中に明らかである。宗教学の研究対象は何よりも「神」、そしてその顕現なのである。
一方、イスラームにおいては、どうか。答えは実は、問う以前に与えられている。イスラームにはそもそも「神学」なるものは存在しない。「神学(thelogy)」とは、「神(theo)-学(logy)」であり、ギリシャ語の「theos(神)」と「logos(論理)」を語源とする。この「神学」にあたる言葉はイスラームには存在しなかった(5) 。
我々が、通常「イスラーム神学」と訳している学問、アラビア語では、通常「宗教基礎学`ilm usul al-din」」と呼ばれており(6)、クルアーン諸学(`ulum al-Quran)、ハディース諸学(`ulum al-hadith)、行為規範学(`ilm al-fiqh)、行為規範基礎学(`ilm ulul al-fiqh)、霊学(`ilm al-tasawwuf)などと共に、宗教諸学(`ulum al-din)を構成している。
つまり、イスラームの伝統において、キリスト教とは異なり、「神学」は「教学」を代表していないばかりか、そもそも「神」を研究対象とする学問自体が存在せず、研究対象はあくまでも「宗教」であり、「神」が論じられるのは、宗教諸学の一部門「宗教基礎学」の一部としてであり、それも「神それ自体」が直接の対象となるというよりも、「神−人」関係「宗教」の研究の中でその一方の項としてなのである。
ではイスラームの学問伝統における「宗教」とは何を意味するか。イスラーム学の言う「宗教」とは一義的には「イスラーム」を意味する。しかし「宗教」という概念はイスラームのみならず「諸宗教」を指し、史上最初の比較宗教学の作品とも言われるシャフラスターニー(1153年没)の『諸宗門、諸宗派』は、イスラームの学問分類では、宗教基礎論の著作のうちに分類されるのである。
ユダヤ教、キリスト教にはそもそも普通名詞としての「宗教」にあたる言葉は存在しなかった。ユダヤ教、キリスト教のみが存在し、その外には迷信があるのみであり一般的な「宗教」なる「範疇」は存在しなかったのである。普通名詞としての「宗教」なる概念が初めて出現するのはクルアーンである(7)。預言者ムハンマドがマッカの多神教徒に対して宣言するように命じられたクルアーン112章の章句「汝らには汝らの宗教(din)があり、私には私の宗教がある(din)」は、偶像崇拝の多神教が、イスラームと同じ「宗教」という範疇に属することをこの上なく明白に示している。
イスラーム学は、一義的に「神」を研究対象とする「神学」ではなく「神−人」関係を研究対象とする、という意味においてそもそも当初より「宗教学」であり、「宗教」の「客観的」な学問的研究として、西欧の宗教学に遥かに先立つ。従って本来ならば西欧の宗教学とイスラーム学は、西欧とイスラーム世界との出会いに際して合体、接合されるべきものであった。しかし事実はそうはならなかった。次節では西欧のイスラーム研究の歴史を概観しよう。
2.西欧のイスラーム研究の起源
西欧にはキリスト教の立場からのイスラーム研究の前史があるが、近代的なイスラーム研究の成立は19世紀と言われる。そしてこのイスラーム研究はディシプリンとしては主として「東洋学」という学問分野において行われた。19世紀には1842年のアメリカ東洋協会、1847年のドイツ東洋協会など西欧各国に東洋学会が設立され、1873年には第1回国際東洋学者会議が開催される。近代東洋学の成立を19世紀とするゆえんである。こうして始まった近代東洋学は、先ず文献学であり、初期東洋学のイスラーム研究の大家たち、『クルアーンの歴史』のテオドール.ネルデケ(1930年没)、『アラブ帝国の没落』の著者ユリウス.ヴェルハウゼン(1918年没)、『セム族の宗教』のロバートソン・スミス(1894年没)などは聖書学においても大きな足跡を残している。
しかし第二次世界大戦後のヨーロッパの荒廃に伴い、イスラーム研究の中心はヨーロッパからアメリカに移る。それは同時に古典学としての東洋学から社会科学・政策科学としての地域研究へのディシプリンの転換でもあった。そしてそれに伴いイスラーム研究者の養成機関で教えられる言語も、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、シリア語、アラビア語といった古典語から現代アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、マレー語といった現代のイスラーム世界の各国語に変わることになった。つまりイスラームとユダヤ・キリスト教的伝統の認識論的切断が為されたのである。東洋学においてはイスラーム研究者は、ユダヤ教、キリスト教の古典的教養を有していることを前提としてセム的一神教の枠組みの中でイスラームを研究してきた。しかし地域研究においては、イスラーム研究者の養成は、同じ地域の現象を扱うということで、人類学者、地理学者、経済学者、開発学者などと席を並べて学ぶことになった。
東洋学は、イスラームをユダヤ・キリスト教と共通の枠組の中で考察してきたが、イスラームの中にユダヤ・キリスト教との共通点があれば、それはイスラームによるユダヤ・キリスト教からの剽窃であると考え、逆にイスラームがユダヤ・キリスト教と相違していれば、イスラームはユダヤ・キリスト教を知らず、歪曲、改変した異端であるとみなす傾向があった。つまり東洋学はユダヤ・キリスト教との比較においてイスラームを捉えながらも、イスラームを内在的に理解する視点が欠けていたのである。他方、地域研究は、イスラームをより「内在的」、「客観的」に見るようになった。しかしその視点はあくまでも「見られる客体(object)」として、即ち操作の「対象(object)」である「他者」としてイスラームを見る視点であり、イスラームを操作の対象としてみる以上、それは容易に植民地支配の道具に転化するイデオロギー性を孕んでいた。
東洋学と地域研究はディシプリンと認識論を異にするが、両者に一貫して共通するのは、イスラームを西欧と本質を異とする他者としてみる視点、エドワード・サイードの言うところの「オリエンタリズム」である。
イスラーム世界におけるイスラーム学、イスラーム思想とは「宗教学」、つまり「宗教」を研究する主体であった。しかし西欧の宗教学は、イスラームにおける「宗教学」の伝統を研究すべき「宗教」、客体として見ることは出来ても、自らと同じ土俵に立つ宗教研究の主体として受け入れることは決して出来なかったが、それは東洋、とりわけイスラームを他者としてしか見えないオリエンタリズムの心性の帰結である。
3.「宗教」概念の規範性
イスラーム研究がこれまで主として宗教学ではなく、東洋学、地域研究によって担われてきた。例えば2001年度の日本宗教学会の会員名簿を紐解くと、専門分野の記載のある会員2031名の中で、イスラーム関係の専門家(インドネシア宗教史を含めて)は僅か14名と1%にも満たない(8)。 信徒人口で世界第二位の「宗教」の研究者が宗教学者の1%にも満たないという異常な事態の発生は、「宗教学」の認識論の根幹に問題があると考えざるをえない。
「イスラームは通常の宗教の概念には収まりきらず、政治や経済をも包括する」といった文言はイスラームの概説書の決まり文句となっている。
イスラームはキリスト教に次ぐ10億とも15億とも言われる信徒人口を擁する世界第二位の「宗教」である。その世界第二位の「宗教」であるところの「イスラーム」にさえ適用することができないよう「宗教」概念とは一体何なのであろうか。もしも西欧の「宗教学」が自ら理解するように規範的でなく記述的な学問であるであるとすれば、「現実」を記述できない概念は不適切であり、修正されなければならない。イスラームが「宗教」の概念に当てはまらないのなら、「宗教」の概念が修正され無かれ場ならないのである。ところが、実際には、西欧の宗教学は、自らの「宗教」概念に固守し、その「宗教」概念を基準に、イスラームは「政教分離」が為されていない、といった託宣を下しているのである。
つまり西欧の「宗教学」は価値中立的な客観的記述科学を装いにも関わらず、西欧近代の「宗教」概念を規範とする「規範科学」であり、その事実から目を背け、「価値中立的な客観的記述科学」との自己理解を維持するために、イスラームを無視し、地域研究の場に追いやってきたのである。西欧の宗教学の出自はキリスト教神学、より正確に言えば、近代西欧のプロテスタント神学であり、その「宗教」概念には、宗教の本質を個人の内心の信仰と看做す特殊プロテスタント的「宗教」理解が刻印されている。そして西欧の「宗教学」は、世界の諸「宗教」をこのプロテスタント的な規範的「宗教」概念というプロクルステスの寝台に乗せて「内心の私事」にまで切り詰めることにより、西欧の文化帝国主義の尖兵の役割を果たしているのであるが、その最大の障害が、この西欧の宗教概念にアンチテーゼを突きつけ、代替となる別の「宗教学」を突きつけるイスラームなのである(9)。
http://homepage3.nifty.com/hasankonakata/sakusaku/6_1.htm
http://homepage3.nifty.com/hasankonakata/
中田考『イスラームのロジック』講談社選書 2001年
概要: 認識が先入見と理解の間を往復しつつ進展すること(解釈学的螺旋)を前提に、20世紀に生きる日本人としての我々自身の先入見の反省から出発し、類書とは逆に「イスラームと現代世界」、「イスラームと日本」を論じ我々の認識視座を明らかにした後、イスラームがいかにして我々の許に伝えられたか、との問題意識に沿って、アッラーフ、預言者ムハンマド、ウンマの歴史、の順にイスラームの教義と歴史を解説する。
(1600円)
中田考『ビンラディンの論理』小学館文庫 2002年
概要: ビン・ラーディンを生んだサウディアラビアのワッハーブ派と、彼と共闘関係にある「イスラーム解放党」、「ジハード団」、「イスラーム集団」について解説した後、湾岸産油国のビン・ラーディンのネットワークを紹介し、イスラーム主義武闘派の発生の背景が貧困ではなくイスラーム政治学の理論的発展であり、闘争の目的も貧困の解決ではなくイスラーム法の支配と正義の確立にあることを明らかにする。
(476円)
中田考『イスラーム法の存立構造 ―ハンバリー派フィクフ神事編』ナカニシヤ出版 2003年
概要:イスラーム法学の理念、歴史、基本概念を解説した後、具体例を挙げて法学派の学説の発展と学派間の相違を示し、その上でハンバリー派の古典法学綱要の詳細な訳注により、クルアーン、ハディースの典拠に遡ってイスラーム法神事編の規定を詳細への見通しを与える。
(8715円)
http://homepage3.nifty.com/hasankonakata/sakusaku/2_1.htm