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(回答先: 講演内容(2) 米、仏の駆け引き/大使も報道で情報収集/親日的なアラブ人 投稿者 なるほど 日時 2004 年 3 月 22 日 18:30:22)
最終更新日:2004/03/22
「あなたは辞める気ですか?」
電報を打って数日間は反応がなかったのですがその後一本の電話を受け取りました。「天木大使、あんな電報を打って、辞める気ですか?」人事を担当する官房長からの電話でした。当時、イギリスのクック元外務大臣やショート経済開発大臣がブレア首相に反対して辞めているわけです。アメリカも2、3人の外交官が辞めていた。
そういうこともあって「あなたは辞める気ですか」と、まず言われました。私はその言い方に強い不快感を覚えました。それは一種の恫喝の電話でした。「いや、自分は辞めるつもりで書いたんじゃない。しかしもしこの電報を小泉首相が見てこういう意見を言うのはけしからんから辞めさせろというのであれば自分には辞める覚悟はできている。必ず首相に見せて欲しい」ということを言ったのを覚えています。
それから一カ月ほど経ってワープロで打たれた一枚の手紙が次官から私のところへ届きました。「あなたはよくやってくれたけれども、これでもって外務省を辞めてもらいたい。川口改革の一環で人事の若返りと適材適所を図っている。了承願いたい」というそっけないものでした。しかしながら、人事の若返りといっても私は当時一番若い大使で、現に今でも4〜5年先輩の大使がほとんど外国にいるわけですから、それが本当の理由ではないことはすぐ分かりました。
もうひとつ適材適所という理由ですが、私の後任者として、警察官僚で神奈川県警本部長をやって警察学校の校長をやっている人が来ましたが、その方自身は優秀な官僚で良い方ですが、中東の知識はゼロで「自分がなぜ中東に行かされるのか分からなかった」と私に言っていました。適材適所なんていうのも嘘っぱちです。三十数年間も勤めた挙句に手紙一枚で退職を迫られる、この非礼なやりかたに私は強い怒りを覚えました。
私があの本を書いた動機のひとつは、その時の感情的な怒りと申しますか、それが直接の原因だったわけです。しかしあの本で本当に糾弾したかったのは小泉首相の外交姿勢だったのです。
拉致問題への対応
イラクに対するアメリカ支持もそうですけれども、北朝鮮の拉致問題に対する2年前の訪朝のプロセスがあまりにも人道にもとった外交であったと思います。日朝国交正常化という政治的功名心のために拉致家族の心を踏みにじった。歴代の首相ができなかったことをやりたい、それをそそのかした田中均という外務官僚、彼は私と同期入省なのですが、が許せなかった。彼が拉致された人達を北朝鮮が返す用意があるという何らかの情報を得たとしましょう。キム・ジョンイル(金正日)が譲歩するという情報をつかんで、それに飛びついたということです。拉致問題の全面的解決よりもとにかく一人でも拉致家族が帰ってきたら大前進だ、これで一気に日朝国交化を進めようと考えたならば国民の心を読み違えたのです。今は国民の北朝鮮に対する厳しい姿勢と国交正常化交渉をなんとか再開したいという野心の板ばさみになって身動きがとれない状態です。外交の本道から逸脱した私利私欲、名誉欲のための外交の弄びを糾弾したかったのです。
7月頃に原稿を一気に書き上げました。しかし書いたあと本にすることを躊躇しました。一国の総理をここまで非難し、また三十数年間世話になった外務省を敵に回して非難するわけですからそれは大変なことをすることになるという自覚は、もちろん私にはありました。しかしすべての責任を負うという覚悟を決めました。
あの本が出たのは10月8日ですが、その前に一部のメディアが外務省を辞めた官僚が告発本を出すらしいという情報を流しました。外務省から、私のところに二つアプローチがありました。ひとつは人事課長から「天木さん、本を出されるようだけれども止めてください。2年前の外交機密費スキャンダルで外務省は皆が立ち直れないぐらい傷ついて仕事にもならなかった。それがやっと一段落してこれから仕事をしようとする時に、また騒ぎを起こされるとかなわない」と。
もうひとつは私と同期の者から電話があり「天木、お前がそこまで思いつめているとは知らなかった。我々の責任でもある。もう一度話し合おう」という誘いがありました。私は「ありがたいけれども、もう自分の人生で外務省の人達と二度と交叉することはないだろう」と言いました。
出版後のプレッシャー
本を出した後のプレッシャーは覚悟していたとはいえ大変なものがありました。公明党から訴えるという連絡があって、外務省の報道官は「事実誤認の箇所があり、さらに公務員で知り得た情報は公務員を辞めても漏らしてはいけないという規則があるので、そのへんも含めて検討したい」と記者会見で公言しました。公明党に対しては「私は全て事実を書いた。必要であれば司法の場でもはっきりさせたい。本に書けなかったことも含め事実を究明したい」と返答しました。その後動きはありません。『産経新聞』系統の雑誌に私に対する批判記事がいくつかでました。「天木というのは、元々変わり者だった」とか「部下からも嫌われていて、人格的にも随分片寄った人間だった」とか、さらに驚いたのは「天木というのは、レバノンに行った時にゲリラと通じていて、ゲリラに洗脳されて反米になった」という記事もありました。そんな情報は外務省しか持っていないわけですから明らかに外務省が意図的に流して書かせているのです。
そういうプレッシャーに押しつぶされそうになって眠れない日もありました。「バカなことをしたな。何のためにこんなことをしたのか」と思ったりもしました。しかし覚悟して行なったことだから最後まで頑張ろうと自らを鼓舞しました。
ただその時に唯一拠りどころになったのは、多くの方々からの激励の手紙でした。ひとつひとつ返事を書きながらこういう人達の励ましが今の自分を支えてくれているんだと言い聞かせました。もうひとつの支えは、アラブの人達、特にパレスチナの人達の悲しみでした。私は毎日レバノンで、罪のない老人や子ども達が米国とイスラエルの政策で死んでいる中東を見てきました。あの人達の悲しみというものを何らかの形で代弁したいという思いがありました。それも支えになったと思っています。
あの本を書いた経緯はそういったことで、随分長くなりましたが、そろそろ本論に移りたいと思います。アメリカの中東政策は、かつては三本柱でした。そのうちひとつは、ソ連との全世界的な対立です。それがなくなって今は石油資源の確保とイスラエルの安全保障の二つです。アメリカは石油資源を非常に重視していまして、アメリカ自身も産油国ですけれども大変な消費量で、6割ぐらいは海外に依存しています。その最大の依存先がサウジアラビアです。ところがサウジアラビアはオサマ・ビンラディンで明らかなように(イスラム)原理主義者の巣窟になっていて、いずれサウド王制がひっくり返るという危惧を持っています。サウジアラビアの石油に変わる安定的な石油国を探す必要があるわけです。
http://www.ryukyushimpo.co.jp/ryukyu_forum/lecture03.html