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(回答先: 「合理性」と「文化」について 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 07 日 19:13:09)
あっしら様。ありがとうございました。
文化に対するお考えについては了解いたしました。またほかのご投稿から学ばせていただきたく思います。
ところで、合理性についてのお答えですが、お答え自体はわかります。
というか、先回に書いたとおり、私自身も「合理性」をもっと広く捉えてもよいのではないかと思って、そのような考えを周りの人に話してみたわけです。
つまり、
あっしら様****************
「老親は私たちとともに生き最後には死ぬことを喜ぶだろうなあ。自分が受けた恩を考えると、老親が喜ぶのならそうしてあげたい」というのも「合理的判断」です。
**********************
というようなことをです。
そうしたら、それは「合理的判断(あるいはあのときの用語でいうと合理的選択)」とはいえないだろうと一蹴されてしまい、「そういうこと言いたいんだったら、かえってあなたの言いたいことは破綻するので、合理的ってことばを使わないほうが賢明だよ」といわれてしまったのです!
おそらく、あっしら様も彼らには同じような反応を返されるでありましょう。(いや、私みたいなペーぺーだからそういうのであって、あっしら様のような方の言うことは拝聴するのだろうか(笑))
あと、もっと正確に言うと先の例は「喜ぶだろうな」という感情面・倫理面の話だけではなく、もしそのようなことをした場合、その家族は「親不孝者」とか「不信仰」という烙印を周囲からおされる憂き目に会い、その精神的・社会的コストは多少の経済的合理性によって得られる経済的利益より大きかったりするわけで、実質的な選択肢としては選ぶことが不可能だというのがポイントです。それなので、この記述については、ちょっと問題をずらされたかなという感じは持っております。合理性の判断基準の問題でもありますが、文化的・状況的に選択肢の幅が狭められているというところの問題です。
まあ、それはそれとして、もっというと、私が批判されたのも、選択肢が文化的に狭められている状態での選択は、いかに理性的な判断でその選択が行われていようとも「合理的選択」とはいえないというものでした。(本当は、そのような理念型的な合理的選択が一体どこの誰にできるのか聞きたいくらいでしたが。私はなんの文化的・状況的制約もなく「合理的」選択ができる人はいたとしてもかなり稀だとおもいます)
それで、そのようなことをいう人に対して、一体どうしたらよいものか、単純に「合理性」という言葉を使うことは誤解を招くのでやはり得策ではないのだろうか、と思っていたわけです。
あっしら様のお答えはわかるのですが、お聞きしたかったのは、「経済的・技術的合理性」のみを「合理性」とみなす人々にどう対処なされるのか、ということだったわけです。
そんなんで、「修辞的合理性」とか「感情的合理性」とか「主観的合理性」とか、区別した概念を使用しなければならなくなったりするのかもと。
また、実際には選択というのは状況的に制約がある中から選択せざるを得ないということが多く、だからこそ、「合理性」という概念は後付けてきな自己行動の正当化のための道具だという分析がでてくるのかと。
そんな風に思っているわけです。
これは個人的な悩みであるわけで、自分で解決すればいいことなのですが、あっしら様はそういう人びとには「近代的パラダイムにとらわれている」ということで、一刀両断して決着されるのでしょうか(笑)。
あと、もうひとつの懸念は、ハーベイ・ブラウンも指摘していましたが、いわゆる「合理性」という概念は、支配の道具として使われてきた危険な概念でもあるように思っています。それを「支配−被支配関係構造」の解消という方向づける行動様式を説明する中で、無前提に非常に重要なキー概念として用いてよいのかな、という懸念です。
つまり、「合理性」という概念を用いることによって、「経済的・技術的合理性」のみを「合理性」とみなす人びとから、かえって「利用」「悪用」される危険を引き込まないのか、ということです。この点は、あまり危惧してはおられないのでしょうか。