★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 議論18 > 655.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
「合理性」と「文化」について
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/655.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 07 日 19:13:09:Mo7ApAlflbQ6s
 


律さんの「「合理性」と「文化」について」( http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/649.html )へのレスです。
=============================================================================================

律さん、どうもです。


あっしら********************
「合理性」とは、目的を達成できる思考や判断であるかどうかが基本の基準で、できるだけ少ない労力でとか、できるだけ材料を少なくとかの付加条件により、より緻密な思考を要請されるものです。
**********************


【律さん】
「その「目的」について「楽しい時間をすごせたかどうか」など「価値」「意味づけ」の問題が入ってくると、「より少ない労力で」「できるだけ材料を少なく」などのコスト面での問題を「合理性」概念に含めることが、困難になってしまうように思います。
(それが悪いといっているのではなく、私自身も「合理性」概念にそのような「目的」が入っても良いだろうと思っていました。それが捉えなおしという意味ですが)。

なぜなら、「合理性」というとたいていは経済的(技術的)合理性のことを指すわけで、「意味づけ」「感情(心理)」の面は、通常は「非合理」なものの範囲に位置づけられています。また、経済合理性は、目的に対して取りうる手段が比較考量できることが前提としてあります。そして、たいていは、実際取りうる手段は限られています。」

【律さん】
「お答えいただいた合理性概念は、純粋に経済合理性の追求ではないが、コスト面を比較考量するという点では「経済性」を考慮するというあいまいなところが残されているようですが、この点はどうお考えなのでしょうか。」


ほんとうに近代的パラダイムに囚われていますね。「もっと柔軟にならなければ!」(笑)

「「合理性」というとたいていは経済的(技術的)合理性のこと」である現実を問題視した「合理性論」でもあるのです。(活動目的がお金稼ぎに収斂していること)

律さんが書かれている危惧というか反論は、近代的目的性を前提にしたもので、超歴史的には妥当しないものです。


人の活動は、「あまりやりたいないけどやらなければならないこと」、「やらなくてもいいけど心地いいからやりたいこと」、「やらなければならないのなら楽しくやりたいこと」に区分できます。
(この他の区分もできますが、今回のテーマに即するため、この三つに限定しました。また、どのようなことが3区分のそれぞれに当てはまるかは人それぞれです)

「近代」の生存様式は、資本を保有している人が「お金を稼ぐためにやること」に「あまりやりたいないけどやらなければならないこと」だと思う人を雇うことで成り立っているとも言えます。
(「やらなければならないのなら楽しくやりたいこと」として仕事をしている人は恵まれている)

「近代」の経済活動の主体は、“資本”(所有者やその代理人である経営者)です。
そして、その活動動機は「お金(富)を稼ぐため」(資本の増殖ないし自己の所得増加)です。

この間書いてきた「産業主義近代の終焉」は、近代の活動動機である「お金を稼ぐため」が不能になる、もしくは、誰かが「お金を稼ぐため」に邁進すれば国民経済が危殆に瀕することになるという問題を提起したものです。

「お金を稼ぐため」の活動が「悪」になるのなら、経済的(技術的)合理性を合理性とすることも「悪」になる可能性もあります。(それを考えるのがテーマですから、可能性としています)

人の活動区分に戻ると、

「あまりやりたいないけどやらなければならないこと」:

生存や“文化的生活”に必要な物を手に入れるための活動です。物をつくることが目的ではなく、つくった物を消費する使うことが本来の目的とも言えます。
そのような活動に費やす時間はできるだけ少なく、活動実態はできるだけ苦痛でないものがいいはずです。そのように公的合意が得られたら、できるだけそのように目的を実現する方法かどうかが合理性の基準になります。


「やらなくてもいいけど心地いいからやりたいこと」:

これは、おそらく、個人的な行為が多いと推定しますが、ゲームやスポーツなど他者とともにやることもあるでしょう。これは、行為そのものが目的とも言えます。
このような行為は、“公的空間”に施設を必要とするものなら、そのような施設を造ることに人々の活動力を動員する合意が必要になります。(そういう施設のために、そういう施設を望んでいない人々をそれをつくる作業に動員するのはおかしいという声も上がるでしょう。でも、別の欲しい施設を望んでいる人は、そのときにその施設を望んでいない人も協力してくれるなら喜んで協力すると言うかもしれません)

私的空間でことたりるなら、公的合意形成は不用です。個人ないし仲間が、より楽しくなる方法を考えればいいだけで、楽しかったかどうかが方法の合理性の基準になります。


「やらなければならないのなら楽しくやりたいこと」:

最初の生存や“文化的生活”に必要な物を手に入れるための活動においても、どうせやるのなら、それも楽しくやりたいと思う人もいます。
それが個人の観念で済むのなら、他のひとができるだけ少なくできるだけ苦痛でない活動を思う活動過程を「自由」(勝手)に楽しめばいいことになります。
もし、こういう活動過程(方法)にしたら楽しくなるというアイデアがあるのなら、少々時間は余分にかかるけどこうしたほうがいいんじゃないと提起し、採り入れてもらうように合意を形成することになります。(田植え唄などもそのようなものでしょう)


近代的合理性は、「あまりやりたいないけどやらなければならないこと」が内包する合理性の一形態だとも言えます。(同じ財の同じ量の産出に必要な労働量をできるだけ減らすことが“経済的合理性”だからです)


物を生産する活動に代表される「あまりやりたいないけどやらなければならないこと」に従事しなければならない時間が大きく減少するのなら、「やらなくてもいいけど心地いいからやりたいこと」や「やらなければならないのなら楽しくやりたいこと」における合理性を重視する(認める)ことに問題はないと考えています。

そのような条件をつくってくれたのが、過酷で非道な「近代経済システム」です(笑)

>ハーベイ・ブラウンが出している例では、伝統的なヒンズー教徒は、経済的合理性か
>ら考えると老親を老人ホームに預けたほうがよい場合でも、文化的障壁から、そのよ
>うな選択を「経済的理由」から行うことはないだろうとしています。これは経済的合
>理性からみると合理的な判断ではないが、しかししっかりとした理性的な判断である
>わけです。(ポパーは「技術的−経済的合理性は応用合理論の全体である」と述べた
>そうですが)。

「老親は私たちとともに生き最後には死ぬことを喜ぶだろうなあ。自分が受けた恩を考えると、老親が喜ぶのならそうしてあげたい」というのも「合理的判断」です。

--------------------------------------------------------------------------------------------
【律さん】
「もうひとつの多少の違和感としては、「正常」「異常」として意味づける行為についてです。
こういった認識の仕方は、文化人類学の観点でも検討されているもので(たとえばメアリー・ダグラス)、多くの時代、社会、文化にみられる現象です。人の認知構造は節約的に、また危険回避的にできているから、「わからないもの」を排除したり、認めようとしないという傾向があるのではないかと思っております。
普遍的な「人間」というものはないというのは、おっしゃるとおりだけれども、それぞれの文化において、「これ」と「あれ(もしくは「これ」でないもの)」を区別し、それぞれに意味づけるという構造は、簡単に解消できるものとは思えません。
そしてそのような認知行動のあり方の偏差は、それぞれの土地の「文化」となっているのであり、無視できないものなのではないでしょうか。文化差を埋めることは、もちろん不可能ではありませんが、困難でもありますよね。そうであったほうがいいと思っているけれど、「簡単だ」といわれると違和感があるというのは、この点です。
国民経済やその他のプランについては、他のご投稿から学ばせていただきますが、「文化」の問題について、どのように捉えていらっしゃるのか、簡単にでも教えてください(これについてもお書きになっていると思いますが、要約的に教えていただければと)。」


差異を認め合うということは、「「これ」と「あれ(もしくは「これ」でないもの)」を区別し、それぞれに意味づけるという構造」を解消することではなく、「これ」であり、「あれ」であると素直に認め合い、「これ」も「あれ」もともに生きる相手だと理解することです。

「文化」については、歴史的に形成されてきた生存様式や「共有的世界観」のことだと思っています。

差異を認め合うということは、別の生存様式や「共有的世界観」を相互に認め合うことでもあります。
生存様式や「共有的世界観」は固定的なものではなく歴史的に形成されるものですから、強制ではない交流を通じても相互に変容していくものです。


普遍的な「人間」を措定するヒューマニズムこそが、「わからないもの」を排除したり、認めようとしないという傾向を醸成すると思っています。(佐川クン事件におけるフランスの裁判所の“免責”もその現れだと思っています)


「人の認知構造は節約的に、また危険回避的にできているから、「わからないもの」を排除したり、認めようとしないという傾向がある」ことに同意します。
そして、それがある差異性に対する排除につながり、そのような行為を完全に解消できないとも思っています。

それが「ひとの智恵」なのか、それとも、「ひとの愚かさ」なのかはわかりませんが、実在さえしない普遍的な「人間」を措定するヒューマニズムよりも、差異を認め合う意識のほうが排除につながる行為は抑制されると考えています。

治療法がなくほぼ死に至りひとに伝染する病気に罹患しているひとを、隔離したり、ある場合は殺処分することも、私は、辛く悲しいことですが否定はしません。
(文化的「世界観」から、ある人の存在が共同体の存続を脅かすと判断されて殺処分が行われたとしても、やむをえない所業だと思っています)

愚かさに気づいたり、足りない智恵を少しずつ増やしてきたのが、ひとの歴史だと思っています。


(ハンセン病患者はかつて忌み嫌われ隔離されていましたが、今では忌み嫌うのは「自由」(勝手)だとしても、公的隔離は避けようとしています。ハンセン病患者に見られる容貌の変化が忌み嫌われる大きな要因だと思っていますが、それをどう感じるかは個々人の感性(価値観にも影響されている)次第ということになります。ハンセン病患者の苦悩に心を寄せ、そばにいてあげたいと思う感性を持つひともいます)

 次へ  前へ

議論18掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。