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(回答先: 社会の成員が互いの差異を認め合うようになるための方策とは? 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 04 日 16:10:44)
律さん、どうもです。
>「国家」というより、共同体の必要度を超える生産物、必要なのに共同体内では生産
>され得ないものを、他の共同体の間で配分(交換も含まれる?)するための調整ルー
>ル・制度という解釈でいいですか?
権力的判断や公的強制力もあるので国家です。
現在の国家と較べたとき機能・役割が極めて少ないというだけで、公的権力で統合を維持するということでは本質的に変わらない存在性です。
>やっぱりそうなんですよねえ。あっしら様自身も社会のことをなにより考えておられ
>る方だとお見受けしておりますし、他の個人や国家、世界に価値を見いだしている人
>についても肯定的に思っていらっしゃるのでは、と感じていたので、不思議に思って
>いました。
国家社会のことを考えるのは、それが自分と関わりをもち強い規定性を持っているからであり、それを捨象したかたちで社会のことを考えているわけではありません。
自分がもっと気持ちよく生きるために国家社会の在り様が変わる必要と判断しているから、国家社会や世界のことをあれこれ書いています。
左翼や宗教運動家のように、“自己犠牲”や“善意”で他者を救済したいといった価値観で国家社会や世界に関わる人たちについては否定的に受け止めています。
(“自己犠牲”や“善意”で他者を救済したいと思っている人たちは、いいところで世界支配層の道具として利用されるもので、下手をすれば、人々に大災厄をもたらす犯罪者だと思っています)
>「善」には「強制力」が含まれているということでしょうか。
>あっしら様としては、「強制」するつもりはない、ということなのですね。
>また、できるだけ「切り捨て」はしないようにしているとのこと、了解しました。
>しかし、もしそうならもうちょっと・・・・なんというか・・・・相手からあっしら
>様の考えを受け入れようという姿勢を引き出すような戦略をとってもいいのではない
>かと・・・・・(無理なものは仕方ないにせよ)
「善」や「善意」という考えは、強制力でそれを実現することも、正義や理想に適うものであり、人々の幸せにつながるという危険性が潜んでいると考えています。
考え方の違いで切捨てたり排除したりする気はありません。
自分の考え方にこだわり、やり取りを通じて自分の考え(「世界」)を再検討しない“思考怠惰”の方は、一つ身ですから疲れるし時間も限られているので、やり取りをやめさせてもらっているだけです。
>そうですよね!そう思って不思議だったのです。
平和であって欲しいとか、みんなが健康的で文化的な生活がおくれるのがいいというレベルで、「左翼やリベラルの人たちがたぶん思っている「あるべき社会」と私の構想はそれほど大きな違いがあるわけではないだろう」と思っています。
>「思想」や既存の「組織」により頼む安易さや危険性は、身近な信仰者などの方々の
>様子などから直感的に感じています(十分にはわかっていないと思いますが)。一方
>で、ある一定の「枠組み」によって世の中すべてを見ることができるようになれば、
>物事を処理する上での「効率」はよいのかなとも感じております(それが「思考怠
>惰」といわれるゆえん?)。
自分の内に構築した「世界」というある一定の「枠組み」によってしか、世の中を見ることはできません。
その一方で、自分の内に構築した「世界」は観念でしかなく、現実世界の複雑性やダイナミクスに較べれば薄っぺらなものでしかありません。
「世界」は、あることに気づくことによって全面的に再構築しなければならないほどあてにならないもので、そうすることも可能なものです。
世の中の言説を見聞きしているかぎりのことですが、「世界」が概念(言葉)の積み木細工のようなものになっており、イメージとして構築されていない人が多いという印象を受けています。こういう人たちの言説は、リアルさがなかったり、価値観的裁断に傾きすぎていると思っています。
「思考怠惰」と指弾するのは、自分の認識や判断が自分の内に構築した「世界」と現実世界の関わりで生じたものという構えが欠落し、自分の「世界」の不全を少しでも補おうとか修正しようとしない態度を感じたときです。
>けれども、罵倒を浴びせられたから、自分の「思考怠惰」に気がつく、という人はあ
>まり多くはないのではないかという予感もしているのですが・・・・・・。
ゼミや仲良しクラブではなく、力もお金もないものが“彼ら”に対抗して現実世界をなんとか変えようという過酷な試みなのですから、罵倒を浴びせられたことでひねくれるような人はその任に向いていないと思っています。
いちおう言い訳をさせてもらうと、罵倒的言辞を吐くときは、そう判断した根拠や理由を明示しているつもりです。
>世界の動きについては勉強中であり、しかも勉強不足であり、十分にはわかりません
>が、とりあえず今の段階で明確な疑問や反論はないので、この点は了解です。
疑問を提示していただいたり、反論をしかけてくれなければ、書き込みをしている意味はないんですけどね(笑)
我々の生存様式がどのような論理で規定されているのか、その生存様式はどのように変わろうとしているのか、などがわからないで、何が主張でき、どうやって“彼ら”に対抗して世界を“我らが物”にできるというのでしょうか?
“彼ら”がやっていることに反対することも意義があると思っていますが、その枠内に留まっている限り、“彼ら”の動きに反応するだけで、主体的に世界を変えていくことはできません。
主体的に世界を変えていくためには、まず、我々の生存様式がどのような論理で規定されているのか、その生存様式はどのように変わろうとしているのかについて、みんなが認識をぶつけ合ってより精緻な共通認識に高めていく必要があります。
そのような共通認識が確立すれば、そのための政治権力をどうやって握るかは別として、問題の解決方法は自然と出てきます。
>しかし、なんだかこの部分を読みますと、たとえば、創価学会の機関誌である聖教新
>聞紙上において、日蓮正宗やら山崎正友やらをほとんど名誉毀損じゃないかと思われ
>るような罵詈雑言をならべたてて批判している状態について、外部者(たとえば私)
>に「これはちょっとやりすぎじゃないか」とか突っ込まれたときに、「悪は徹底的に
>たたかねば、善を否定することになる」とか何とか言って正当化するやり方を思い出
>させられます。
>同次元にするなと怒られそうですけど、ふっと頭をよぎってしまいます。
>もちろん、おっしゃることはわかりますがなんというか、方法として。
イデオロギー闘争というくだらないクソ的所業は早くなくなって欲しいと思っています。
しかし、イデオロギー闘争というくだらないクソ的所業をなくすためには、“最後”の一大イデオロギー(政治)闘争が不可欠だと思っています。
「悪」は徹底的に叩かねば、“彼ら”にいいように利用されるだけで、目的は達成できません。
善意の人ばかりで、智恵が足りないからうまく現実が運営できていないわけではないのです。
悪意の人が経済的政治的力を握り、善意の人たちを利用してでも、自分たちの覇権を維持しようとしているのが現実の世界なのです。
善意あふれる左翼やリベラリストが、無自覚なまま大犯罪をしでかすこともあるのです。
それを考えれば、罵倒されるのは愛撫を受けているようなものです(笑)
>つまり、地球上に住む人間の多くの人が、そういう風に考えられるようになるために
>は、具体的にどういう方法があり得るのかがわかりません。あっしら様もご存じない
>のなら、それはそれで仕方ないのですが、なにかアイディアがおありでしたら教えて
>ください。社会運動や政治活動、思想の布教ではなく、このような方向へ社会を動か
>すことが果たして可能なのでしょうか?
まずは、我々の生存様式がどのような論理で規定されているのか、その生存様式はどのように変わろうとしているのかを、できるだけ豊か(リアル)に知ることが出発点です。
>そして、これが実現するには多くの人が同様の「思想」を持たなければならないとい
>うことになり、それを進めようとすると、結果として、上記の「超個人的な普遍の価
>値や意味があると信じ、それを人々に説くことはその人の個人的な価値や意味ですか
>ら、それ自体は問題にしていません」等の態度が、裏切られることになってしまうの
>ではないかという危惧もあります。この点についてはどうお考えなのでしょうか?
我々の生存様式がどのような論理で規定されているのか、その生存様式はどのように変わろうとしているのかを、できるだけ豊か(リアル)に知ることは、合理的な知見であり、思想とは言いがたいものです。
私が「善」を言い募ることに反対しているのは、思想が「理念」化ないし「理想」化されがちである現実を忌み嫌っているからです。
「善」は個々人の問題で公的に掲げるものではない、公的に掲げるものは「悪」に限定すべきだと思っています。
こういう考えも一つの思想ですから、“最後”の一大イデオロギー(政治)闘争が不可欠だとは思っています。
>あと、些末なことですが、あっしら様は、前回、御自分のことを「差異主義者(差別
>主義者)」とおっしゃっていたけれども、これまで問題として位置づけられてきた
>「差別」は不平等と関係あると思うので、差異と同列に書かない方が適切なのではな
>いでしょうか。
チンケな「平等主義意識」へのアンチテーゼだとご理解ください。
人々は絶対的に不平等であるという認識から、少しはよりリアルな「世界」が構築できると思っています。
“彼ら”との関係から考えれば、平等を求める意識は、自分自身や他者を「平等な奴隷」に貶める道を開くものです。
法的平等と政治的平等を超えた平等を希求するのは、かえって危険な動きなのです。
不平等で差異的な諸個人が、自分がより心地よくなる現実を他者と協力し合ってどうやって実現するかという視点が重要だと考えています。