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(回答先: 「善」の主張は止められるか? 投稿者 律 日時 2004 年 7 月 06 日 09:38:09)
律さん、どうもです。
>これは「夜警国家」といわれるような国家のありかたとはどう違うのでしょうか?
「夜警国家」は、国家は経済的市民社会の“自由な”利益追求活動を守るためのものであるべきという考え方です。
国民(人々)が利害対立状況にあることを前提に、利益追求の在り方を規定した共通ルール(法)を執行し、経済的行為以外で他者の利益を侵害する刑法犯のようなものを取り締まることの専念する国家が「夜警国家」です。
「夜警国家」は、国家がいろいろなことをやり始めると、国民から税をより多く徴収しなければならなくなるから忌避するという経済利益を追求したものでもあります。
人々が生存活動で基本的に利害対立状況にないことを前提とした私の国家とは異質のものだと考えています。
あっしら様*****************
ゼミや仲良しクラブではなく、力もお金もないものが“彼ら”に対抗して現実世界をなんとか変えようという過酷な試みなのですから、罵倒を浴びせられたことでひねくれるような人はその任に向いていないと思っています。
************************
>ということは、この試みは、その過酷さに耐えられる一部の人間だけが行っていくこ
>とになりますか?
“彼ら”は絶大な力を持ち狡猾で冷血非道な対応も厭わないのですから、それと対抗する活動は必然的に過酷なものになります。
(過酷というのは、思考活動やその成果の伝播におけるものであり、“彼ら”の知的執事から投げ掛けられる敵対言論活動に打ち勝っていく過程の困難さです)
過酷に耐えられるひとがある程度の厚みで存在しなければ、“彼ら”に対抗して「支配−被支配関係構造」を解消できないのみならず、国民経済主義への政策転換さえままならないと思っています。
>生存様式の論理をできるだけリアルに把握することさえ、「共通認識」に高めるとい
>うプロセスは、なんだかとても遠い道のりのように思えます。
>あっしら様のプランを実現に近づける第一段階としては、「認識をぶつけ合う場」の
>創出が必要なのでしょうか。それとも、特にプランというのはないのでしょうか。
遠い道のりであっても、それをやるしかないのです。
現実がどういう論理で動いているのか、その論理が現在のような枠組や政治的動向のなかで進んでいけばどうなるかという「共通認識」がなければ、プランは空中楼閣でしかないものになります。
プランはざっとですが、これまでにもいろいろ出しています。
>あっしら様の愛のムチですか(笑)。
世の中の矛盾やいやなことをなくしていきたいと思っている人で“思考怠惰”を見せている人にしか罵倒は浴びせていません。
“彼ら”に較べれば力だけではなく情報においても圧倒的な不利な立場にある者たちが、なんとか“彼ら”に対抗しなければ現実を変えようとしているのに、なあなあで成功するわけがありません。
それどころか、空虚な価値観や抽象概念で「善」を語るような言動は、“彼ら”に悪用されることになります。
>ということは、「善」を主張する=「悪」という図式なのでしょうか。
>なんだか関係が複雑ですね。
>あと、「すべからず」(悪)がはっきりしていることは良いですが、「すべし」(
>善)が不明確だと、人の行動がうまく方向付けられないような気もします。
あなたも無自覚な「悪魔崇拝者」ですね。
ひとは条件さえ整えばうまく行動をするという信頼が出発点です。
(今は、何かをするための手段も保有せず、お金を稼ぐためにいやいやであったり人から強制されて行動しているという側面が強いから、自主的な行動ができないように見えているだけです)
自分が気持ち良くなるために活動したくてうずうずしている人はけっこう多いはずです。
(じっとしていることに苦痛を感じる人のほうが多いと思っています)
まず、自分だけやある特定のひととできることであれば、他者に害(「悪」)を及ぼさない限り、自由に行えばいいのです。
次に、ひとと一緒に活動しなければならないことがあるのなら、したい内容と方法を提示し、それが「悪」ではなく実現も可能だとの合意を得られたら実行に移すという流れで進めればいいのです。
そうではなく、誰かがこれをやることは「善」だと言い募りひとを動かそうとすれば、強制や精神的負担(やらないと悪いと思う負い目)でひとを動かすことになります。
>二分法的発想は非常に短絡的だけど、わかりやすいので採用されやすいですし、
>「悪」が(公的に)明らかになれば、「善」も(公的に)主張されてしまうのではない
>かとも思われます。
「悪」の反対は悪くはないというもので、「善」ではありません。
歴史的に見れば、「善」を主張してきたのは、宗教家(つい最近まで政治家でもある)や政治家(革命家を含む)そして学者といったエリート層(支配層)だということがわかるはずです。
ですから、“彼ら”に限らず支配層は、安定的な支配のために、今後も「善」を言い募るはずです。
>私には「合理性」というものもある種の「思想」(あるいは価値)を背景としている
>理念に思えます。
>あっしら様の考える「合理性」とはどのようなものなのでしょうか。
>(ああ、なんだかちょっと厄介な質問をしてしまいました)
自分がこういう食べ物を作りたいなと思ったときに、イメージ通り(味覚・盛り付けなど)につくるためには、どういう材料や調味料を用意し、どのような手順にするかを考えるのが合理的思考です。
時間を気にしなくてもよいのなら、手間暇かけてもイメージに近ければ近いほど合理性があったと言えます。
同じ料理でも、ひとりで10人前を1時間でつくらなければならないときは、合理性の基準が変わることになります。(手順の工夫をより詰めなければならない)
また、同じ料理でも、コストに制約があるときは、そのなかでよりイメージに近いものをつくる工夫が問われることになります。
「合理性」とは、目的を達成できる思考や判断であるかどうかが基本の基準で、できるだけ少ない労力でとか、できるだけ材料を少なくとかの付加条件により、より緻密な思考を要請されるものです。
イメージ通りにつくることよりも、つくる過程の楽しさが第一義的な目的であれば、合理性の基準はより緩やかになります。(まずい料理になってもいいじゃん、それをつくることで楽しい時間が過ごせたのなら...楽しい時間を過ごせたかどうかが「合理性」の基準になるわけです)
>“最後”のというのは、どういう意味なのでしょうか?
>それ以降はイデオロギーは対立しないのですか?なにを公的に「悪」とするかで、価
>値観の変容などが起こって闘争が生まれるってことはありそうですが。
「支配−被支配関係構造」を解消したあとは、日本の前近代農村共同体がそうであったように、自分たちの支配の正当性を言い募るための価値観体系や世界観体系をめぐる戦いであるイデオロギー対立はなくなると思っています。
個々の具体的な物事に対する「悪」の判断をめぐる対立はなくならないと思っています。
(それはイデオロギーの対立とは考えていません。抽象的な価値観体系や世界観体系のぶつかり合いをイデオロギー対立と見ています)
>その政策転換は「差異を認め合う」状態を導くのに役立つのですか?
>「差異を認め合う」状態の実現が困難なように思えたので、「支配−被支配関係構
>造」の解消も困難ではないかと感じていました。
現状で「国民経済主義」に転換するためには、国家社会とは何か?人々はどういう関係性を持つべきかという議論が必須になると思っています。
そして、それは、「差異を認め合う」ことの合理性認識も醸成すると予測しています。
困難であることは認めていますが、できないとは思っていません。
>私は「支配−被支配関係構造」の枠組みに毒されているのか、「互いの差異を認め合
>うこと」「現実をそのまま受け入れること」は、「平等を受け入れる」と同様に困難
>なように思えています。「認め合えない」のではないかと・・・・・自分(たち)と
>違ったものは「劣ったもの」「秀でたもの」あるいは「正常なもの」「異常なもの」、
>「正しいもの」「間違ったもの」として分類されて(意味づけられて)しまうのでは
>なかろうかと。このような意味づけは「支配−被支配」に結びつきやすいのではない
>でしょうか。
あなたは、ほんとうに、ヒューマニズムや悪魔崇拝に毒されているようですね。
「人間とはこういう存在である」というヒューマニズムが、「劣ったもの」と「秀でたもの」、「正常なもの」と「異常なもの」という識別意識を生み出すと思っています。
(人間という存在はないのです。生まれつき目が見えない人、バカっ速く走れる人、ネチネチ思考するのが得意な人、手先が器用な人、などなど個々のあのような人が存在するだけなのです。そして、抽象思考に劣っていることはその人の存在意義や価値性をなんら左右することでもありません。その人は、しなければならないことをすれば、あとはダラダラ生きていてもかまわないのです。このような「社会」を受け容れるのがそんなに困難ですか?)
>多数の人が「支配−被支配関係構造」がなくても生きていける、と思うようになるま
>でにも困難がありそうに思えます。なぜなら、ずっとその枠組みで世界を見てきた人
>が多数いるからです。すくなくとも時間がかかるだろうし、なんども行きつ戻りつし
>そうです。
そういう人たちは、より楽で心地よい生をあきらめ、過酷な奴隷の日々をおくる道を選択すればいいのです。
私はそういう選択をする人を「悪」だとは思っていません。
民主主義をすばらしいとは思っていませんが、民主主義を制度として認めていますし活用もできると考えているので、多数派が過酷な奴隷の道を選択するのなら、それはそれで仕方がないことだと思っています。
私自身はそういう選択を「悪」だと思っているので、そう思わない人をひとりでも増やしていきたいと思っています。
>生存様式へのリアルな理解ということなんでしょうけど・・・・全く詳しくないです
>が、合理的に判断して導き出されているはずの経済理論にも多種多様なものがあって、
>「合意」には至っていないんですよね(一定の共通認識はあるでしょうけれど)。そ
>れともこれらは「エリート」の考えだからまっとうではないのかしら。
何を寝ぼけたことを言っているのですか。
“彼ら”やエリートたちのほとんどは、自分たちの利益のために、経済理論や社会観などを流布させているのですよ。
経済理論は、合理的に判断して導き出されているわけではなく、現在の諸条件において“彼ら”が最大の利益を得られる枠組を正当化するためにあれこれ理屈を付けているものです。(ほとんどの学者や評論家は、それ以下のたんなる受け売りや提灯持ちです)
「近代経済システム」は、個々の企業や家計が儲けるか損をするのかは解き明かせないとしても、国民経済や世界経済が大枠でどのように動くかについては合理的に理解できるものです。
(経済活動が、個々人の思惑で自由に動かせるものではなく、否応なく論理的規定性を受けるものになったからこそ、自然科学的な「経済学」が成り立つのです)
>最終的にはここに行き当たって、少なからぬ人が「善」を主張したがる気がしていま
>す。だから、なんだか非常に泥沼に陥りやすい予感がしているんです・・・・それを
>防ぐ手立てってあるんだろうかと。
少なからぬ人が「善」を主張したがることは否定しません。
そう思っているからこそ、私も、「善」を言い募る危険性を声高に叫んでいるのです。
別に、「善」を言い募る人を強制的に黙らせるとか抹殺すると言っているわけではありません。
議論を通じて、多数派が「善」を言い募る人に権力(支配権)を移譲しないよう踏ん張るだけの話です。