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(回答先: Re: 社会の成員が互いの差異を認め合うようになるための方策とは? 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 05 日 18:04:43)
あっしら様。いろいろ煩わせてしまってすみません。
なんとなくお考えを理解できたような感じです。
いろいろ不躾な質問にも丁寧に答えてくださり、ありがとうございました。
今回、もうちょっと、簡単な確認だけよろしくおねがいします。
あっしら様*****************
権力的判断や公的強制力もあるので国家です。
現在の国家と較べたとき機能・役割が極めて少ないというだけで、公的権力で統合を維持するということでは本質的に変わらない存在性です。
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これは「夜警国家」といわれるような国家のありかたとはどう違うのでしょうか?
あっしら様*****************
ゼミや仲良しクラブではなく、力もお金もないものが“彼ら”に対抗して現実世界をなんとか変えようという過酷な試みなのですから、罵倒を浴びせられたことでひねくれるような人はその任に向いていないと思っています。
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ということは、この試みは、その過酷さに耐えられる一部の人間だけが行っていくことになりますか?
あっしら様*************
>世界の動きについては勉強中であり、しかも勉強不足であり、十分にはわかりません
>が、とりあえず今の段階で明確な疑問や反論はないので、この点は了解です。
疑問を提示していただいたり、反論をしかけてくれなければ、書き込みをしている意味はないんですけどね(笑)
我々の生存様式がどのような論理で規定されているのか、その生存様式はどのように変わろうとしているのか、などがわからないで、何が主張でき、どうやって“彼ら”に対抗して世界を“我らが物”にできるというのでしょうか?
*********************:
すみません(汗)。ほんとうに通りいっぺんの知識しかないので、適切なことがいえそうにもないんです。これから改めて勉強していきます。
ずいぶん長いことぼけっと暮らしていたのですが、やっと最近になって、もっと世の中のことを知らなきゃまずいんじゃないか、という焦りに似た気持ちを持ち始め、いろいろ調べているところです。自分なりの立場や「世界」の見方を見つけたいという気持ちもあります。
あっしら様のお考えについては、バルタン星人様などほかの方とのやり取りを読ませていただくなかから学ばせていただきます。
あっしら様******************
主体的に世界を変えていくためには、まず、我々の生存様式がどのような論理で規定されているのか、その生存様式はどのように変わろうとしているのかについて、みんなが認識をぶつけ合ってより精緻な共通認識に高めていく必要があります。
そのような共通認識が確立すれば、そのための政治権力をどうやって握るかは別として、問題の解決方法は自然と出てきます。
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生存様式の論理をできるだけリアルに把握することさえ、「共通認識」に高めるというプロセスは、なんだかとても遠い道のりのように思えます。
あっしら様のプランを実現に近づける第一段階としては、「認識をぶつけ合う場」の創出が必要なのでしょうか。それとも、特にプランというのはないのでしょうか。
あっしら様******************
「悪」は徹底的に叩かねば、“彼ら”にいいように利用されるだけで、目的は達成できません。
(中略)
それを考えれば、罵倒されるのは愛撫を受けているようなものです(笑)
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あっしら様の愛のムチですか(笑)。
ということは、「善」を主張する=「悪」という図式なのでしょうか。
なんだか関係が複雑ですね。
あと、「すべからず」(悪)がはっきりしていることは良いですが、「すべし」(善)が不明確だと、人の行動がうまく方向付けられないような気もします。二分法的発想は非常に短絡的だけど、わかりやすいので採用されやすいですし、「悪」が(公的に)明らかになれば、「善」も(公的に)主張されてしまうのではないかとも思われます。
あっしら様****************
我々の生存様式がどのような論理で規定されているのか、その生存様式はどのように変わろうとしているのかを、できるだけ豊か(リアル)に知ることは、合理的な知見であり、思想とは言いがたいものです。
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私には「合理性」というものもある種の「思想」(あるいは価値)を背景としている理念に思えます。
あっしら様の考える「合理性」とはどのようなものなのでしょうか。
(ああ、なんだかちょっと厄介な質問をしてしまいました)
あっしら様****************
私が「善」を言い募ることに反対しているのは、思想が「理念」化ないし「理想」化されがちである現実を忌み嫌っているからです。
「善」は個々人の問題で公的に掲げるものではない、公的に掲げるものは「悪」に限定すべきだと思っています。
こういう考えも一つの思想ですから、“最後”の一大イデオロギー(政治)闘争が不可欠だとは思っています。
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“最後”のというのは、どういう意味なのでしょうか?
それ以降はイデオロギーは対立しないのですか?なにを公的に「悪」とするかで、価値観の変容などが起こって闘争が生まれるってことはありそうですが。
ついでにこちらの件も。
「疑義を感じられている点について少し補足させていただきます。」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/616.html
あっしら様*************************
まず、現段階で「支配−被支配関係構造」の解消が直接の課題になるとは考えていません。
今の課題は、“国民経済主義”的政策転換です。それでも、その政策転換が、将来的な「支配−被支配関係構造」の解消を準備するものにはなると思っています。
自分をエリートと錯誤したたいした能力もない私欲に走る「カス」どもが統治できているのに、「支配−被支配関係構造」を崩せないと判断してしまうのは“思考怠惰”です。
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その政策転換は「差異を認め合う」状態を導くのに役立つのですか?
「差異を認め合う」状態の実現が困難なように思えたので、「支配−被支配関係構造」の解消も困難ではないかと感じていました。
あっしら様***********************
このような「指導−被指導関係」は、人の世からはなくならないものだと思っています。
「互いの差異を認め合う」ことは現実をそのまま受け容れることでもあるのですから、平等を受け容れるよりもスムーズなはずです。困難なのは、差異を認め合った上で議論を通じて合意を形成することだと思っています。
「支配−被支配関係構造」がなくても人々は生きていける、「支配−被支配関係構造」がないほうがより良く生けていけると多数の人が考えるようになることが出発点です。
困難は、その後に、どうやったらそれが実現できるかを詳細に詰め合意を形成することです。
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私は「支配−被支配関係構造」の枠組みに毒されているのか、「互いの差異を認め合うこと」「現実をそのまま受け入れること」は、「平等を受け入れる」と同様に困難なように思えています。「認め合えない」のではないかと・・・・・自分(たち)と違ったものは「劣ったもの」「秀でたもの」あるいは「正常なもの」「異常なもの」、「正しいもの」「間違ったもの」として分類されて(意味づけられて)しまうのではなかろうかと。このような意味づけは「支配−被支配」に結びつきやすいのではないでしょうか。
多数の人が「支配−被支配関係構造」がなくても生きていける、と思うようになるまでにも困難がありそうに思えます。なぜなら、ずっとその枠組みで世界を見てきた人が多数いるからです。すくなくとも時間がかかるだろうし、なんども行きつ戻りつしそうです。
そのような状態を考えることが、無意味だといっているのではなくて、どうしたら可能?ということなんですが。
生存様式へのリアルな理解ということなんでしょうけど・・・・全く詳しくないですが、合理的に判断して導き出されているはずの経済理論にも多種多様なものがあって、「合意」には至っていないんですよね(一定の共通認識はあるでしょうけれど)。それともこれらは「エリート」の考えだからまっとうではないのかしら。
あっしら様************
(何が「善」かを決めようとしたり、人々の生活ぶりや価値観に規制を加えようとしたら、議論は泥沼になります)
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最終的にはここに行き当たって、少なからぬ人が「善」を主張したがる気がしています。だから、なんだか非常に泥沼に陥りやすい予感がしているんです・・・・それを防ぐ手立てってあるんだろうかと。
簡単な確認と言ったのにそうでもないところもあり、すみません。
最後のほうなどは以前よりの質問の繰り返しになっていて申し訳ない限りです。この辺のビジョンがどうしても見えてこないのです。