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社会の成員が互いの差異を認め合うようになるための方策とは?
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/588.html
投稿者 律 日時 2004 年 7 月 04 日 16:10:44:yVvnimQRLLslo
 

(回答先: 差異を認め合うとは、「自分も誰もが、絶対に他とは取替えができない唯一者」と実感し認め合うこと。 【律さんへ】 投稿者 あっしら 日時 2004 年 7 月 04 日 03:22:51)

あっしら様、本当にお忙しいところ恐縮です。ご教示頂きまして、感謝致します。

あっしら様をこれ以上わずらわせないため、今回の質問で最後になるようにしたいと思いますが、いくつかの点について、確認させてください。

律→あっしら様***********************
>ところで、段階として「開かれた地域社会」→「地域共同体連合としての国家」とい
>うレベルを考えておられるなら、「国家」をある程度包括的な概念と考えているので
>はないでしょうか。「大きい」という言い方が「実体化」というなら、この状態はど
>のように表現されるのでしょうか。
「開かれた地域共同体」は相当部分が自足的な社会です。しかし、そこに人々は固定化されるわけではありませんし、地域共同体の必要度を超える有用物の生産が行われたり必要があるのに生産しない有用物もあります。
「地域共同体連合としての国家」は、実体があるわけではなく、そのような有用物の生産・配分の調整機関であり、地域共同体をまたぐ人々の移動や生活をサポートしたりするものです。
現在の政治国家に較べれば、地域共同体や人々に対する規定性や強制性はごく小さいものになります。
*******************************


「国家」というより、共同体の必要度を超える生産物、必要なのに共同体内では生産され得ないものを、他の共同体の間で配分(交換も含まれる?)するための調整ルール・制度という解釈でいいですか?


あっしら様********************************
超個人的な普遍の価値や意味があると信じ、それを人々に説くことはその人の個人的な価値や意味ですから、それ自体は問題にしていません。
また、ある個人ないしその集合体の考え方を信じる人も、その個人の価値や意味ですからそれも問題にしていません。
(私自身は、人生に普遍的な価値や意味があるとは思っていません)
逆説的になりますが、自分の生や国家社会そして世界になんらかの価値や意味を掴みとっている人は、ただ今が楽しけりゃあいいじゃん死んだらそれまでよと思っている人よりも尊重し期待もしています。
(阿修羅にアクセスしたり投稿している人たちも、なんらかの価値や意味を持っているからそうしているのだと思っています)
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やっぱりそうなんですよねえ。あっしら様自身も社会のことをなにより考えておられる方だとお見受けしておりますし、他の個人や国家、世界に価値を見いだしている人についても肯定的に思っていらっしゃるのでは、と感じていたので、不思議に思っていました。

あっしら様**************************
持論を「善」とは思っていません。
それがいいんじゃん楽しそうじゃんという話なのです。
「カス」や「危険思想」とは言っていますが、切り捨てはできるだけ(こりゃあもうムダだと判断しない限り)避けているつもりです。
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「善」には「強制力」が含まれているということでしょうか。
あっしら様としては、「強制」するつもりはない、ということなのですね。
また、できるだけ「切り捨て」はしないようにしているとのこと、了解しました。
しかし、もしそうならもうちょっと・・・・なんというか・・・・相手からあっしら様の考えを受け入れようという姿勢を引き出すような戦略をとってもいいのではないかと・・・・・(無理なものは仕方ないにせよ)


あっしら様*************
ざっくばらんに言うと、左翼やリベラルの人たちがたぶん思っている「あるべき社会」と私の構想はそれほど大きな違いがあるわけではないだろうと思っています。
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そうですよね!そう思って不思議だったのです。


あっしら様*********************
ところが、そのような方々は、現実問題にどう対処すればいいのか?と問うと、反対運動をしようとかどっかの政党に投票しようといったレベルを超える答えは返してこないことが多い。
私の勝手な判断ですが、そのような方々は、今の世の中は悪いと判断しているがどうしてそのような悪い社会になっているのかほとんど見えていないまま、自分と近い善悪判断を持つ政治組織にすがっているだけだからそうなっていると思っています。
「カス」や「危険思想」と罵倒を浴びせる相手は、その判断力や思考力を評価しているときにしか使いません。
それだけ物事を考え物事の理非を判断できているのなら、自分が正しいと思っていることにしがみつくのではなく、もう一度、自分の頭のなかにある「世界」を疑ったり、イメージが固定化されている概念を考え直せるはずだと思っているからこそ、能力ではなく思考怠惰(もう世の中はわかっているという態度)の人を「カス」と呼んでいます。
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「思想」や既存の「組織」により頼む安易さや危険性は、身近な信仰者などの方々の様子などから直感的に感じています(十分にはわかっていないと思いますが)。一方で、ある一定の「枠組み」によって世の中すべてを見ることができるようになれば、物事を処理する上での「効率」はよいのかなとも感じております(それが「思考怠惰」といわれるゆえん?)。
けれども、罵倒を浴びせられたから、自分の「思考怠惰」に気がつく、という人はあまり多くはないのではないかという予感もしているのですが・・・・・・。

また、このようにおっしゃられるからには、あっしら様は常にご自分のお考えを精査し、問い直しをなさっておられるのでしょうね。そのようにできることは何よりだと思います。私もできるなら、そうしていきたいと思います。


あっしら様************************
もう一つは、世界支配層は産業資本主義の終焉を見通しており、それを自分たちに有利なかたちでソフトランディングさせるために「産業国有化」という社会主義的(左翼)政策を持ち込むと判断しているからです。(「産業国有化」以外に産業資本主義終焉後の先進諸国をうまく統治する方法はありません)
“彼ら”は社会主義政策も巧妙に持ち込むはずなので、「カス」の左翼はそれを自分たちの理想に近づく第一歩だと判断して歓迎すると予想しています。
“彼ら”による「産業国有化」国家社会は、「開かれた地域共同体」の対極にあるもので、人々は無自覚な奴隷の度合いをさらに深めることになります。
「カス」の左翼は、このような意味で極めて危険な思想だと判断しています。
「できるだけ楽にパンを得られる状況をみんなで知恵と活動力を出しあってつくる社会状態」が、学園祭や体育祭のようにみんなの智恵と活動力でできるのなら、「カス」の左翼もウェルカムです。
しかし、世界の経済のみならず世界の政治権力を支配し、メディアを通じて狡猾かつ恥知らずの情報操作で人々を誘導している“彼ら”とせめぎあいながら、みんなの智恵と活動力でつくっていかなければならないものです。
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世界の動きについては勉強中であり、しかも勉強不足であり、十分にはわかりませんが、とりあえず今の段階で明確な疑問や反論はないので、この点は了解です。


あっしら様******************
「カス」は「カス」であるとはっきり指差し、危険思想は危険だとはっきり指摘しなければ、みんなの智恵と活動力でいいものをつくった気になったら、それは、自分たちが入る“監獄”だったということになりかねません。
(「カス」は、始末が悪いことに、それが“監獄”であることさえ気がつかないのです。みんなほぼ平等(“彼ら”や一部支配層を除きみんなが零落する結果で生活レベルはそこそこ)はいいことだ、生活困窮者にはきちんと手当てがされている(貧乏人の相互扶助でしかないが)はすばらしい、民主主義も行われているし言論の自由もある、ノープブレムと判断するカスなのです)
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しかし、なんだかこの部分を読みますと、たとえば、創価学会の機関誌である聖教新聞紙上において、日蓮正宗やら山崎正友やらをほとんど名誉毀損じゃないかと思われるような罵詈雑言をならべたてて批判している状態について、外部者(たとえば私)に「これはちょっとやりすぎじゃないか」とか突っ込まれたときに、「悪は徹底的にたたかねば、善を否定することになる」とか何とか言って正当化するやり方を思い出させられます。
同次元にするなと怒られそうですけど、ふっと頭をよぎってしまいます。
もちろん、おっしゃることはわかりますがなんというか、方法として。

律→あっしら様**********************
>差異を認める視点は重要です。みなフラットだと考えることが欺瞞です。
>おっしゃることはわかります。そりゃそうでしょう。
>しかし、「差異=差別」とされていますけどそれを保持しながら「支配−被支配関係
>構造」から抜け出すというのはどういうことなのですか?
差異を認め合うことは、平等か不平等かという次元とは異質のものです。
差異を認め合うことは、“私は唯一者”や“私の絶対性”を相互に認め合うことでり、「支配−被支配関係構造」を解消するもっとも重要な考え方だと思っています。
多くの人が「自分も誰もが、絶対に他とは取替えができない唯一者」であると実感することで、「支配−被支配関係構造」を解消する道を開くことができると思っています。
********************************


大筋として、了解です。よく(客観的に見てそうかどうかは自信はないけど)わかります。基本的に同意します。
これを根源的に社会成員みながそう思えるようになれば、実質的に性差、人種、民族、障害、階層、身分などなどのカテゴリーに基づいた差異、それに基づいて生じてくる差別は解消されるものと思います。

しかし、同時に、バルタン星人様が(ジェンダー、共同体、自由主義 >律さんへhttp://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/586.html)でおっしゃっていたように、「あっしらさんの「経済的改善」について他人の私が推測するのは僭越至極ですが、「宗教ももちろんもろもろを含み込んだ意味での、何か非常に深い思想の力が必要」(by 網野善彦)であろう」とも感じています。

つまり、地球上に住む人間の多くの人が、そういう風に考えられるようになるためには、具体的にどういう方法があり得るのかがわかりません。あっしら様もご存じないのなら、それはそれで仕方ないのですが、なにかアイディアがおありでしたら教えてください。社会運動や政治活動、思想の布教ではなく、このような方向へ社会を動かすことが果たして可能なのでしょうか?

そして、これが実現するには多くの人が同様の「思想」を持たなければならないということになり、それを進めようとすると、結果として、上記の「超個人的な普遍の価値や意味があると信じ、それを人々に説くことはその人の個人的な価値や意味ですから、それ自体は問題にしていません」等の態度が、裏切られることになってしまうのではないかという危惧もあります。この点についてはどうお考えなのでしょうか?


あと、些末なことですが、あっしら様は、前回、御自分のことを「差異主義者(差別主義者)」とおっしゃっていたけれども、これまで問題として位置づけられてきた「差別」は不平等と関係あると思うので、差異と同列に書かない方が適切なのではないでしょうか。


はなはだ恐縮ではありますが、最後の点(表題の質問)について教えて頂けると幸いです。

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