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羊=貨幣をめぐる冒険(脇道レス)
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/487.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 01 日 01:41:56:akCNZ5gcyRMTo
 

参照スレ
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/458.html
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あっしらさん バルタンです。あっしらさんの投稿やレスも沢山あり
トレースしきれないので前言を翻しての逐次レス...

外かけついでに京都で途中下車して猛ダッシュで興福寺に行って
修学旅行以来ン十年ぶりに阿修羅像を拝観しました。
ashu-ra(生命・与えるもの)創造
a-shura(非・天)     破壊  のいずれも解釈可能とは。

>的場昭弘氏は勘所がいいようですね。
そう言って頂けると意は伝わったと勝手に解釈いたします。

>顔写真も出ていましたが、三十年以上も会っていないのでまるで別人に
>見えました(笑)
えっ.....いやぁ......うーん...詮索無用ということで。

>ラテン語はまったく無知なので、pecuniary(貨幣的)がpecu(羊)から来て
>いることは知りませんでした。
意の通らぬ文章でしたが他の読者の方のために蛇足を加えますと
pecu(財)-->家畜-->羊 と転意したということです。

>家畜が貨幣である限り、金属貨幣や紙幣(アカウント)のようなかたちで蓄財が
>できないので健全ですね(笑)
貨幣=羊で私が考えていたのは「ヨブ記」のことです。(ヨブ記については下記URL)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0487.html

毎度柄谷ネタですいませんが、ヨブは「無垢で信仰深い正しい人」にもかかわらず家族を
亡くし財産(家畜)も失い、自らも病に倒れる神の試練を受けます。「子どもを贄に捧げ
る寸前に『わかった、その辺にしとき』という神の声」が聞こえる予定調和などないわけ
です。怒ったり、恨んだりしながらヨブは最後に神の臨在という奇跡に打たれ信仰を守り
ます。(このへんはあっしらさんには釈迦に説法ですが)
そこまではいいのですが、「家畜が倍になり失った子どもを上回る7人の息子と3人の娘
をもうけ、幸福にくらしましたとさ、どっとはらい」で終わっています。
柄谷は「ちょっと待ってくれよ、死んだ子どもはどうなるんだ」と問うわけです。柄谷が
良く引用しますが小林秀雄が「歴史とは母親が死んだ子を思うようなものだ」と言うのは
「ありふれているが二度と生まれることがあり得ない子ども」、生の「一回性」に関わる
話と理解しています。つまり「前と同じ数あるいは前より増えたからいいだろう」では
すまない問題があるはずです。
ここから先は柄谷の論旨(「単独性と個別性」)とずれてくるのですが、逆に言えば
ここには「子どもを家畜と同じに見る眼」があるのではないかということです。そんな
「眼」があり得るのか、少なくとも「偽善」といわれようが私には内在化不能です。よく
読むとヨブの家族(新たに生まれた子も含め)で名前で語られるのはヨブ一人です。唯名
論と実念論ではありませんが、妻とか息子とか娘としか語られない。「固有名」が消去さ
れているわけです。つまり(前振りが長いわりに簡単な話ですが)
あるもの(関係でもよい)から「固有名」を剥ぎ取ったものが「貨幣」ではないかと。
たとえば   信用−「固有名」=貨幣  ではないのかということです。
本来、「信用」は「この私を信じてくれ」「あの人なら信用できる」といった「固有名」
と不可分なもののはずです。これは「もの」に関しても言えることです。

「この様式のもとでの諸使用価値の直接的把握は、時間の永続性という形式を持ってい
た。ものは永続性という形式をもっていた。物は永続を目的としてつくられる。家も家具
も道具も織物もみなそうである。この永続性は単に生産力が低いからあまりひんぱんな新
調が不可能であるという消極的な理由だけにもとづくものではない。むしろ、物が真の意
味で使用価値であるためには、そうした永続性の形式が必要になるのである。物と慣れ親
しみ、物を愛し、それらを単に機能性においてみるのではなく、時間の永続性の次元で物
のうちにかくされたすべての側面を発見すること、それが物の使用価値の実現・把握なの
である。この永続性の追及は、物質としての物の製作と使用だけに加えられるのではな
い。思想にも感情にも、そしてそれらを支える物質にも同じように加えられる。寺院や大
聖堂は永遠を目指して建てられる。それは確かに、特殊宗教的な疎外の反映物ではある
が、同時にそれら記念物の永続性は、後代にそれらが持つ多面的な富を享受させるものな
のである。」(サミール・アミン『帝国主義と不均等発展』     ちなみにアミンは
シャリ・アティ(イラン人)らと並ぶ非西欧マルクス主義者(エジプト人)の一人。)

ここで言う「もの」とは祖父や曽祖父が水を飲み腰掛けた「この壷」であり「あの椅子」
であり、物との濃密な関係は他で代替不能なものであるわけです。従って先ほどの式は
使用価値 −「固有名」=貨幣 とも言い換えることが可能かもしれません。

>貨幣は数字でいいところまできていますから、蓄蔵できるかたちであれば、
>なんでもいいんだと思います。
いまや磁気情報(しみ)でしかない....

>貨幣は形態で成立するのではなく、貨幣が貨幣として存続するための必要条件は、
>人々が自存できる経済条件から切り離されていること、他者依存的な産業連関が
>確立していることに尽きます。
マルクスは未来について語ることに禁欲的であったわけですが「ゴーダ綱領批判」で生産
者の連合体としての「生産協同組合」を構想し「彼らは交換をしない」と言っていたと思
います。「交換をしない」とは何なのか未だ考え続けていますが全く判りません。
プルードンの政治思想はともかく経済思想に関してはアダム・スミスそのままであり(貨
幣道具論)貨幣を「労働証書」で簡単に置換できるとしていたわけですが、マルクスは
「哲学の貧困」で「商品は欲しいが貨幣はいらない」という「妄想」を激烈に批判して
いたと思います。つまり「交換」がある限り貨幣は不可避ではないかというのが前レスの
文脈です。岩井克人が言うように「物々交換などというのは神話」にすぎないのであり、その始源からすでに貨幣に媒介されていたのではないかということです。「自存できる経
済条件」というのはイメージが掴めませんが「他者依存的な産業連関」が社会的分業であ
るとすれば貨幣に媒介されない交換というのは何かと考えてしまいます。ただ私はシュ
ティルナーの「唯一者」=「この私」は絶対にはずせないのでコミュタリアニズムは
受け入れられません。もしかしたらその辺があっしらさんとの「差異」になるのかもしれ
ませんが。(勝手な推測で申し訳ありません。)

興福寺で六十代とおぼしき杖をついた二人連れのおばちゃんが「1500年も皆が拝んできた
んや、仏さん見るとな、魂っちゅんはあると思うねん」と言っているのを聞くともなしに
聞いたせいか抹香臭い話になりました。
いつものことですが尻切れレスですいませんが長くなりましたので....

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