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(回答先: 市場を司る者は神になる 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 03 日 06:33:32)
バルタン星人さん、どうもです。
>仏教は「偶像肯定」ですが神道は「偶像否定」(伊勢神宮のご神体は「バリ島の掘っ
>立て小屋」みたいなものですね)で気味が悪いほど日本では相補的な関係だとつくづ
>く思いました。
仏教は偶像否定です。(ぎりぎり言っても、方便として偶像を拝ませるというものです)
神道は、“場”を尊重する宗教だと思っています。
>生産協同組合は自足的に完結したものではなく社会的分業の一部であり、そもそも
>「原料」をどう入手するかという時点で「外部」=「交換」の問題が生じます。「市
>場」と「貨幣」のない交換=交換価値を現象形態としない交換がありえるのかという
>ことです。石炭を掘る「労働生産性」とナイフを作る「労働生産性」は比較しようが
>ないのですが、そのためには個々の労働が「総労働」の一部とならなければならない
>というトートロジーに陥ってしまうわけです。
説明されている「協同組合」は近代概念のもので、マルクスは、全生産(労働者)者が加わるものとして「生産協同組合」を持ち出したと思いますよ。(そうでなければ、「交換はしない」という文言は出てこないはずです)
ですから、バルタン星人さんが言われるように、個々の労働(力)が「総労働」の一部になるような社会を構想したのだと思います。(それが可能かどうかは別の話です(笑))
>神学論争になるのを恐れずに言えば「はじめに交換ありき」ではないかと考えています。
>実証的に演繹したわけではなく、「ブツ(実証的知識)はないがコンセプトはある」
>(上野千鶴子)レベルですが。
>始源にぼうぼうの野っ原に18世紀イギリスのような「交通の場」(柄谷のいう「原都
>市」)があり互いにどこの誰かわからない人間が集まりモノや「道具」、情報が交換
>されたのではないか、貨幣としては黒曜石や貝殻のような希少物が使用されたのかも
>しれない。あるいは頭の中で貨幣を数えていただけかもしれませんが。すくなくとも
>「他者」に対して贈与はありえない。
異種共同体間に関しては、「はじめに相互贈与ありき」や「はじめに略奪ありき」で、その後に「交換」だろうと思っています。
余剰生産物が贈与や交換の基礎にあるのですから、腐敗するものは贈与しても損はなく、よその共同体が不足のためにそれを求めればくれてやっただろうと思っています。
そして、気候条件などから常にどちからが余剰生産物を保有していると決まっているわけではないので、それが「情けはひとのためならず」でもあったはずです。
貨幣意識は、“古代”において、商人や支配層以外にはあまり醸成されなかったと考えています。
生産者は、余剰の生産物を買いに来て不足の財を売ってくれる存在として商人を捉えていたはずで、貨幣そのものや“等価交換性”をほとんど意識しなかったと思っています。(別の商人の値付けで「俺のワインはもっと高く売れる」とか「あいつ小麦粉を高く売りやがって」と思うくらいもの)
余剰生産物があるから買いに来た商人に売る、そうすれば商人が運んできた財を手に入れることができる、というのが実情だったと見ています。
ここからは、商人を媒介とした「交換」と言えます。
>分配の基準は「社会的必要労働」=時間であったわけですが「労働生産性」の個体差
>や前述の分業間の「労働生産性」の問題は解決できないわけです。
熟練労働から単純労働になったことで「労働生産性」の個体差は減少し、大工場の大規模協業になったことで個体差は全体に影響を与えても独立的に取り出せるものではなくなりました。
分業間の「労働生産性」の問題は、違う財を生産しているのですから問題になりません。(同じ財の「労働生産性」の違いは問題になるが、別の財の「労働生産性」の違いは無関係)
資本の高度化が進んだ社会では、たんなる「労働時間」を分配の基準にしてもほとんど問題がありません。
>もちろんマルクスやレーニンを免罪するつもりはありませんがソビエト経済の本当の
>父親はワルラスだった、つまり「市場」を司るものは必ず「神」になり、政治的には
>神が「良き行い」=欲望を決める神聖政治になるということです。
マルクスが言うところの剰余価値を貨幣形態として手に入れる舞台である市場(交換)をなくそうとしたのがソビエト経済です。
論理的には市場(交換)がありながら、それをないものとして運営しようとしたから、党官僚が「良き行い」=欲望を決める神聖政治をめざしたと思っています。
ところが、「市場」をないものと考えうまく利用しないのですから、生産も欲望も決めることができない官僚どたばた政治になってしまった。
>ユダヤ教の場合のように神が勝手に民を選んでしまうというのは他にないのでは。
民はいっこうに神の言うことをきかないものだというのが「旧約聖書」の基調です(笑)
(祭祀階級ではない民は、神に選ばれたということさえ迷惑で、放っておいてくれだったのです。ユダヤの民に選民思想が主体的に根付くのは古代イスラエル崩壊後です)