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(回答先: 羊=貨幣をめぐる冒険(脇道レス) 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 01 日 01:41:56)
「マルクスの逆説」 岩井克人X今村仁司
参考 今村仁司「労働のオントロギー」 ワルラスについては下記URL
http://www.otaru-uc.ac.jp/~egashira/lecuture/gakushi2004/2-1%20Walrus.pdf
岩井:たとえばロバート・オーエンには貨幣はあらゆる害悪の根源であるとして、「貨幣という媒介をなくす社会」を実際に作り上げようとする意識がありました。全国衡平労働交換所をいうものを開いて労働貨幣をつくろうとした。マルクスも究極的には「貨幣のない社会」という理想的な共同体を目標にしてひとつの経済理論を打ち立てるために「資本論」を書いたわけですね。ところが「価値形態論」を書いているうちに、これはおそらくマルクスの意図に反してだと思うのですが、かれは貨幣の必然性、つまり「<貨幣>を抜きにした社会はありえない」ということを証明してしまった。じつは「貨幣」というのはこの世にあまねく存在している「媒介」というものの一つの形態だと思うのですが、その媒体を抜きにして人間社会はありえないということを、意図せずに証明してしまったということになります。それがわたしはマルクスにかんする最大の逆説だと思っているんです。初期社会主義者とくらべて、逆に「貨幣の必然性」を証明してしまった。つまり本当は貨幣のない社会を望んでいるのに貨幣の必然性を証明してしまった。だから、わたし自身は、いまさらのように初期社会主義の復活を画策するよりも、かえってマルクスについてこだわってみたいと思っているのです。マルクスの「価値形態論」が証明してしまった貨幣の必然性という認識は、後のマルクス主義者がまったく理解しなかったところだろうと思うんです。それが後期社会主義の問題とも、さらには東欧やソ連の社会主義国家の破綻の問題とも絡み合っているのではないか。
−−中略−−
今村:フーリエは別として、大勢いる初期社会主義者たちの中で経済について思索をこらした人をあげるとすれば、フランスあるいは大陸ではプルードンとかワルラスがいます。ワルラスというのは社会主義者とは思われていないようですが、私には彼は社会主義者だと思うんです。プルードンもそういう意味では市場社会主義者だと思います。両者は、実は論争もしていますが、もっと広い観点からいうと、基本的には18世紀のアダム・スミスの線上において二人は並んでいるのではないかというような気がするのです。アダム・スミスは経済的市民社会だけで十分で、国家はいらないということの最初の主唱者なんですね。そのへんが、プルードンなどにある種の共感を持たせたところです。プルードンというのは結構スミスが好きで、彼に経済学的には依存している。一方ワルラスはというと、かれは理論上の立場は違うんですが、社会に対するイメージが似ています。そういう意味で、初期社会主義者のかなり多くの部分は、18世紀啓蒙主義の市民社会主義な思想の系譜につながっています。市民社会主義というのは、基本的に商品関係、スミスの言葉でいうとcommercial-societyが基本的な土台としてあるし、このなかで初めて自由にして独立の人間の社会関係が維持されるといいます。その観点からするとマルクスというのは極めて異例だと思うんです。マルクスの経済理論上の卓越した貢献を現在でも認めなくてはならないとしても市民社会的人間の洞察の問題に関しては初期社会主義者たちの洞察力というのはあまり過小評価してはいけないんじゃないかという気もしています。
岩井:わたしもワルラスが一種の市場社会主義者だというのには全く賛成です。じつは私自身はそういうことを、ワルラス批判の立場ですが、書いたことがあるんです。ワルラスの一般均衡理論というのはわれわれの生きている「市場経済」のモデルだというふうに考えられているわけですね。そして、それをもとに現代のいわゆる新古典派経済学が成立したわけです。ワルラスは、膨大な数の商品を売り買いしているたくさんの市場を同時に均衡させるような価格システムが存在し、しかもそれはある意味で安定的であることを示すことで、市場経済の自己完結性を証明しようとしたんだと思うんです。それを後世の人はワルラスの言葉とおり受け取ってワルラスが実際の分権的な市場経済の自己完結性を証明したんだというふうに捉えてしまった。しかしワルラスのモデルをくわしく読んでみると、あれは「市場経済」のモデルではなくて、まさに「市場社会主義」のモデルですよね。具体的にはどういうことかというと、ワルラスは一応市場にいる個々の人間−生産者とか消費者など−は分権的に行動していると想定しているわけです。生産者や消費者はそれぞれの市場で決定された価格を与件として、じぶんの利潤を最大化し、自分の効用を最大化するように需要や供給を決定していると想定されているわけです。そこでハタと行き当たる問題というのは「では、いったい価格はだれが決定するのか」ということなんです。この問題において結局ワルラスはアダム・スミスの思想を徹底化しえなかったんだと思います。つまり、彼は価格の決定にかんしては分権的にそれを決定する経済主体をモデルの中に組み込めなかった。そのかわり、有名な「市場競り人」(オークショニア)というフィクショナルな存在を導入して、公平無私にそれぞれの市場で価格を調整する役割をはたさせることで、価格の決定という問題を解決、いや解消してしまおうとしたわけです。でも、それは本当の意味での分権的な経済モデルではない。どこか裏側のドアから「市場競り人」という中央集権的な超越者というものをこっそり導入してはじめて分権的市場の自己完結性というのを示しているにすぎない。「市場競り人」というのは、まさに社会主義国における価格管理局と同じ役割をしているにすぎないんです。後世の人々はこのワルラス・モデルを「分権的市場経済のモデル」として考えているんだけれども、それは「市場社会主義」のモデルでしかないと私自身は批判しているわけです。実はまさにこれが私の『不均衡動学』の出発点だったんです。
−−中略−−
岩井:それから、アダム・スミスの「道徳感情論」ですがそのなかに今村さんが言われたように「内にある公平な観察者としての正義の観念を持っている市民がおたがいに取引をし合って市民社会が生まれてくる」という発想があります。しかし「公平な観察者」が個人の中に生まれてくるような社会というものが、はたして市場社会として維持可能なのかどうか、わたしはいつも疑問に思っています。非常に小さなコミュニティ−−互いが互いをよく知り合っている共同体−−であれば、おたがい同士暮らしていくうちに、たがいの内に「公平な観察者」が生まれてくることはあるだろうし、それをきっかけとして市場社会ができるかもしれません。しかしひとたび市場社会が出来たときに、それが公平な観察者の維持を可能にするような構造になっているかどうか、やはりおたがいが知り合っていないとうまくいかない。どこか、くりかえしおなじ人間同士が交渉しあう共同体的な社会の狭さというべきところがないと、抜け駆け的な行動が出たりはしないのか。ですからその場合、「社会の緊密さ」というのがどうしても必要となってくるのではないかと、わたしは考えるんです。これが、アダム・スミスの「道徳感情論」と「国富論」のなかの市場経済論のあいだの逆説だと思います。
−−後略−−