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(回答先: 有事が来るぞ(6) 有事法制が戦争を生む 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 20 日 09:58:13)
【世相百断 第57話】
有事が来るぞ(7) 終りなき有事体制
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sesou57.html
世論の8割が自衛隊のイラク派遣に反対または疑問であるのに、この声に耳傾けようともせず、小泉政権はイラク特措法に基づき戦乱やまぬイラクに自衛隊を派遣すべく、12月9日には「陸上自衛隊員600人以内、車両200両以内、派遣期間平成 15年12月15日から平成16年12月14日までの間」と明記した基本計画を閣議決定し、これに基づいて防衛庁による実施要領も18日に決定された。しかもこの実施要領のうち、国民に公表されたのは概要のみ。この概要では派遣時期も派遣場所も明確にはされていないが、明らかになった陸上自衛隊の部隊構成は警備担当要員が130人、医療や給水、施設整備など、人道復興支援活動を直接担当する隊員数を上回っており、しかも給水活動などはテロを恐れて駐屯地の鉄条網の中から行なうという異常さだ。
なんで今、戦後初めて自衛隊に戦死者が出る可能性の高い現在のイラクに、こういう形で自衛隊が出ていかなければならないのかについては、小泉首相・福田官房長官を中心に、世界の平和に資するためだとかイラクの復興のためだとか耳あたりのいいことを言っているが、そんなことは誰にも見え見えの大嘘。アメリカ・ブッシュ政権に約束してしまったため、同政権に忠誠を尽くすためだということは公然の秘密だ。
こういう後ろめたい思いがあるから、基本計画の策定も、情勢が流動的で決定できないなどとなかなか閣議決定をせず、それでいて、自衛隊の装備調達は前倒しで進めてきた。
あまつさえ、総選挙後の特別国会も3日のみの開催とし、上記の基本計画はその後に閣議決定し、イラクに自衛隊を派遣(正確に言えば派兵だ)したあとの来年開催の通常国会で国会の承認を求めるつもりらしい。
白昼こそこそと悪さをするようなこんな姑息な方法をなぜとるかといえば、選挙で大幅に議席を増やして意気あがる民主党と国会でまともな論戦をしたくないからだ。おそらく国会での論戦となれば、現在のイラクがイラク特措法第2条3項に書かれた「現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域」に該当するかどうかがまず問われ、政府は答弁に苦慮することになるだろう。おかしな答弁をすれば、次の参院選挙にも響きかねない。彼らにとっての危ういものには当面蓋をして、国民の選挙と政治への熱がいくらかなりとも冷め、派遣を既成事実化した段階でなんとか乗り切ってしまおうという筋書きなのだろう。
今回、特措法の運用を政府がどう行なうかに注目しているが、というのも、同じように自衛隊を運用する有事法制が発動される時にも、やはりこうした姑息な運用テクニックが駆使されるのではないかと危惧しているからだ。イラク特措法はイラクの復興支援のための法律だということになっているが、有事法制と同じく、自衛隊を動かしてある目的を達成しようと国家が重大な意思決定をする点ではまったくかわりがない。政府が有事法制をどんな理由、どんな手順で発動するかのある意味ではテストケースだ。たぶん有事体制への移行の場合も、今回のイラク特措法の実施と同じく、国会の関与をできるだけ小さくして、自分たちの思う方向で有事法制を発動しようとするだろう。
では、「事態が緊迫し、武力攻撃が予測される」と総理大臣が判断し、有事法制の発動が必要と決断した場合、実際どんな手順で平時から戦時へと移行していくのだろうか。
まず総理大臣は「武力攻撃事態」の認定を含めた対処基本方針案を安全保障会議に諮問し、同会議の答申を受けてこれを閣議決定する仕組になっている。
しかし安全保障会議の議長は総理大臣。閣議を司るのも総理大臣。つまり有事に至ったと判断するのも、それに基づいて対処基本方針案をつくるのも、その基本方針案の諮問に対する答申を行なうのも、答申に基づいて閣議決定するのも、すべて意思決定者は総理大臣なのである。さらに対処基本方針案の閣議決定に基づいて内閣に設置される「武力攻撃事態対策本部」の本部長もやはり総理大臣だ。なんのことはない、あれこれ手順は定めてあるが、有事の認定と実施が同一人物の手に握られて、政府による迅速な戦時内閣の成立がいとも簡単に行われるだけでなく、この戦時内閣は有事体制への移行によって絶対的な権限を掌握する。
この有事法制の仕組から見えてくるのは、政府の独断で「有事」が認定され、絶対権限をもった政府が実質的な憲法停止状態を作って有事体制が動き出してしまう恐ろしい仕組だということである。
さらに恐ろしいのは、有事法制が動き出すそもそもの発端は「事態が緊迫し、武力攻撃が予測される」との総理大臣の判断だが、この「予測」事態は、前回の「有事が来るぞ(6)有事法制が戦争を生む」で述べたように、ある日突然X国が日本を武力侵略することによってなされるものではない。まずほとんどはアメリカ軍の行動によって生じる周辺事態がらみで発生する我が国への「武力攻撃のおそれ」ないしは「予想」だ。ということは、このおそれの判断はまずアメリカ合州国によってなされ、それに基づいて日本の総理大臣が判断するということで、有事体制に移行するかの事態判断は限りなくアメリカ政府の判断に日本が従う、ということにほかならない。
もうひとつ恐ろしいことは、安全保障会議が今回の設置法改正で"強化"され、この会議の補佐機関として事態対処専門委員会が設置されたことだ。この専門委員会の構成はまだ明らかにされていないが、自衛隊の統幕会議議長や自衛隊情報本部、警察庁公安部などの専門家がメンバーが入る可能性が高い。文民には軍事的判断は不可能だから、この事態対処専門委員会での判断は、日米の緊密な軍事情報の一体化の中で米軍から得た軍事情報に基づいて制服組がイニシアチブをとって行なわれることになるだろう。いったん事あれば、この事態対処専門委員会が実質的な軍事作戦本部になる。この制服組の判断を、文民である安全保障会議のメンバーの国務大臣がくつがえすことなどとてもできないだろう。
諮問・答申によって自衛隊を動かす体制を整えるというのは表向きの法律の上でのことにすぎず、諮問検討の段階から実質的には軍事判断は自衛隊制服組によってなされる可能性が非常に高い。
こんな仕組で戦時体制への移行か否かという国家の重大事項の判断が主体的かつ的確になされるとはとても思えない。
三権分立の日本の政治システムでは、行政府の判断・行動を立法府である国会がチェックすることによって民主主義からの逸脱を防ぐ仕組になっている。こういう国家にとっての重大事態になったときこそ、チェックシステムがしっかり機能し、日本をおかしな方向に向かわせない仕組が動かなければならない。
だが有事法制についていえば、運用以前に、制度がそうはなっていない。
武力攻撃等事態法では、「有事」の認定を含めた対処基本方針を閣議決定した後で、政府は国会の承認を求めればいいことになっている。つまり、国会の事前承認なしに有事が発動されてしまう。また、この閣議決定による自衛隊の出動命令は、「有事が来るぞ(1)備えれば憂い生む」で述べたとおり、特に緊急の必要がある場合には、国会の承認すら得ないで総理大臣が出動を命ずることができる。
つまり戦時に移行するかどうかの国家の一大事に、国会の関与はあまりにも軽い。有事法制についていえば、国会の政府に対するチェック機能はないに等しい。
こうして内閣の独走状態で有事体制が発動されると、われわれの身のまわりに何が起きるかはこれまで詳しくみてきた。
いったん対処基本方針が閣議決定されてしまえば、事後に国会で議論が行われても、そもそも総理大臣の「有事」の認定が正しかったかどうかも明確には検証できなくなる。判断を行なうにあたっての野党の資料提出要求を、政府は「国益」に反するという理由で拒否するだろう。政府と野党では、「有事」移行の判断を検証する情報の保有量が圧倒的に異なる。武力攻撃事態の認定が正当なものであったかどうか、発動された対処措置が適切なものであったかどうか、自衛隊の武力行使は合理的必要最小限度のものであったか等を野党が判断する材料はもたらされないだろう。政府の圧倒的な情報優位の論戦の中で、総理大臣の判断もその後の対処の妥当性も、結局はうやむやにならざるをえない。事後承認では、国会でまともな議論などできはしない。
国会外でも同じ事が起きる。政府は「国益」を名分に情報を秘匿するだろうし、メディアは政府が提供する情報しか国民に報道することができない。間接的な報道統制と世論操作が行なわれ、国民も政府の判断と対処が正しいかどうかの情報がないなかで有事体制に「必要な協力」を求められて、国民の権利と自由に制限が加えられていく。
ベトナム戦争でジョンソン政権が北爆に踏み切るために「トンキン湾事件」をでっち上げたり、ブッシュ政権がありもしない大量破壊兵器を口実にイラクを武力侵略したり、とにかく戦時体制になると政府はいつにもまして国民を騙すものだ。これを前提に、国の進路を誤らないチェックシステムをきちんと有事法制に組み込んでおかなければならないが、これがまったくできていない。
現在の有事法制では、ほとんどノーチェックで絶対的な権限を握った政府が、国民や地方自治体や公共機関の上に君臨する。
たとえば武力攻撃等事態法第3条4項では、国民の自由と権利に制限が加えられる場合は武力攻撃等の事態に対処するために必要最小限のものに限られる、とされているが、どれだけの制限が「必要最小限」かの判断は、政府が行なう。政府の判断によって、国民の自由と権利の制限はいかようにも可能だということだ。
また武力攻撃等事態法第15条では、「国民の生命、身体もしくは財産の保護」だけでなく、「武力攻撃の排除に支障がある」場合にも、地方公共団体の長に対して総理大臣に指示権や代執行権を認めている。本来の地方自治とは異なる「武力攻撃の排除」に関連する業務も、地方自治体は自衛隊の手足となって行なわなければならない。
武力攻撃等事態法第6条は、指定公共機関に、「武力攻撃事態等への対処に関し、その業務について、必要な措置を実施する責務を有する。」としているが、何が「必要な措置」かもやはり政府の判断次第だ。
さらに怖いのは、いったん有事体制に移行したら、もう簡単に平時には戻れない。
有事法制って有事のときだけのものじゃないの? だから有事体制の中で自由や権利が制限されるのも、有事のあいだだけのことじゃないの?
こんな誤解は一日も早く正さないと、とんでもないことになりますよ。
繰り返すが、日本が戦争に巻き込まれるケースとは、日本が直接軍事侵略を受ける、つまり日本の国土にまず敵国の軍事組織が侵入してくることによって起きるのではない。我が国の周辺あるいは遠く離れた地域の米軍の行動と日本の支援乃至は参戦によって有事と認定される事態が生じてくる。しかも総理大臣の「おそれ」によって、充分なチェックなしに有事と判断される。こんな状況の中では、「戦時」と「平時」の明確な区別などもう不可能になっていく。
そもそも戦争と平和の明確な区別がついたのは、第2次世界大戦までのことで、その後の冷戦時代は、平和でもなければ戦争でもない、いうなれば「準戦時」の時代がずっとつづいた。今はもっと事態は悪化し、世界のいたるところでテロやゲリラ戦が頻発し、その多くに米軍が関わっている。そしてブッシュ政権は対テロ戦争は「終わりなき永久戦争」だと叫んでいる。つまりアメリカが関わるテロもゲリラもなくならない限り、「平時」は到来せず、「戦時」がつづく。こんな状況の中でアメリカに足並みをそろえて対テロ戦に参戦(支援活動――すなわち兵站活動は紛れもなく参戦だ)し、いったん有事体制に移行すれば、復帰すべき「平時」は見えなくなり、「非常時」は終わらなくなるだろう。
世界を覆い尽くしている新ナショナリズムと民族紛争多発の時代に、グローバル化の成果である自国の多国籍企業の権益を守ろうとするアメリカにかぎりなく寄り添って有事に移行するとは、終わりなき「戦時」の泥沼にのめりこむということにほかならない。復帰すべき「平時」が判然としない以上、「平時」は「戦時」となり、「戦時」が「平時」となっていく。
もし有事体制に移行した日本がこういう国になったらわれわれの運命はどういうことになるのか。
恒常的な「戦時」のなかで、軍事合理性の実現が最優先の国家課題とされていくだろう。軍事合理性とは、武力によって敵を打ち負かすことが至上命題とされ、そのためには人権よりも軍事的な必要性が優先されるということである。
もしこんな事態になれば、この国は間違いなく60年前に終わった歴史を再び体験することになり、国民にとっては途端の苦しみの始まりとなるだろう。なぜなら、政治も社会も常に軍事合理性の実現を至上命題とする終わりなき体制に切り替わっていけば、「戦時」における基本的人権の制約が解除されることはなくなるからだ。
その社会では、自衛隊やアメリカ軍の軍事行動が円滑に進められるための措置を採ることが絶対かつ最優先とされ、軍事的要請の実現が社会の最優先の公共性とされ、いわゆる「軍事的公共性」なるものが前面に押し出されてくる。この「軍事的公共性」なる新しい概念が大手を振って歩き出せば、基本的人権の制約は常態化していかざるをえない。いや、それは基本的人権という概念が消滅してしまったに等しい社会と成り果てる。そこでは、国家の生命が個人の生命に優先する。個人は国家の従属物になる。ここでいう「国家の生命」とは、現体制の存続ということだ。
これは日本の軍事大国化を目指す小泉首相などタカ派政治家をはじめとする勢力にとってはまことに好都合なことだろうが、こんな事態をほんとうにこの国の人々は良しとし、事態をあるがままに認めてしまうのだろうか。
このところこうした勢力が声高に憲法改正の必要性を叫んでいるが、そもそも現行憲法に基本的人権が極めて重い位置づけで明確に規定されたのは、この「軍事的公共性」の論理にひきづられて明治以来の戦前の国家体制が軍国主義を押し進め、他国を侵略してついには世界大戦までをも引き起こした教訓に深く学び、その防波堤として基本的人権を位置づけたためである。いわばこの平和志向の憲法にこそ、アジアと日本の戦争犠牲者の悲惨な運命と生き残ったこの国の人たちの深い反省が篭められている。そもそも基本的人権を尊重する思想や制度と「軍事的公共性」の論理は両立しない。
60年前の戦争の悲惨とそれを生み出した深い反省の上に生まれた現行憲法が今ほど軽んじられた時代はない。憲法尊重擁護義務を課されている国務大臣も国会議員もそんなことは忘れたとばかりに、90%の圧倒的多数で憲法違反の有事法制を成立させた。その流れを受けて、憲法改正を経ずに、国外で日本の軍隊が戦争のできる「あたりまえな国」にするための法律が牙を研いでいる実質的な憲法改悪状態が現出しつつあるのに気がつかず、なおこの政権を国民の半数近くが支持している。
有事法制は間違いなく恐怖政治をこの国にもたらす。その兆候はすでに国旗国歌法の制定や国民皆背番号制をねらった住基ネットワークの遮二無二な推進、教育基本法の改悪などの動きで着々とわれわれの足元に迫っている。
そうした動きに気がつかず、あいかわらず小泉政権を支持しているこの国の人々は、私の目には地獄の鬼に手を振っているお人好しに見える。
(2003年12月27日)