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(回答先: 有事が来るぞ(7) 終りなき有事体制 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 20 日 10:01:17)
【世相百断 第58話】
有事が来るぞ(8) 武力に頼らず暮らしを守る
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sesou58.html
有事法制が国民を守るためのものでなく、国民を戦争に巻き込むものであることをこれまで7回の連載で詳しくみてきた。
有事法制があろうとなかろうと、もともと自衛隊は(軍隊だと小泉首相は断言しているが、まさに然り)国家体制を守るものではあっても、市民を守るものではないことにもうここらへんで市民ははっきりと気がついた方がいい。石破防衛庁長官は「有事で自衛隊は国民を助けられない。自衛隊は敵と戦うことに専念すべきで、災害時のように住民を救助する余裕はない」と明快に述べている。
これが現在の自衛隊を貫く思想だし、自衛隊の限界だ。
自衛隊法でも、第3条1項で、自衛隊の任務を「自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする」と規定しているが、ご覧のとおり、この条文の中に国民の安全を守ることは定めていない。この事実からも、自衛隊は国民の安全を守ることを目的とした軍事組織ではないことがおわかりいただけると思う。
だから自衛隊は戦闘に勝つための訓練はしているが、国民の安全を守るための訓練はしていない。これまで有事法制の中身をみてきておわかりのとおり、国民の命と暮らしを守るどころか、いざ有事となれば、自衛隊が円滑に行動するために法的強制力で国民に協力と犠牲を強いてくる。
そして万一日本の国土が武力侵略されて国民の居住地近くで戦闘状態に入ったらどうなるか。戦闘集団である自衛隊にとっては自己の損耗率を最小にし、敵に打撃を与えることが唯一の行動目的になる。非戦闘員の存在は邪魔にこそなれ、守るべき対象にはならない。
旧帝国軍隊は、サイパンでは足手まといの非戦闘員に集団自殺を強要した。沖縄では、自らの安全確保のために住民を安全地帯から追い出し、米軍の砲火にさらした。満州の関東軍は、ソ連の攻撃を食い止めて民間人を安全地帯に逃がすどころか、なんと数十万人の日本人を置き去りにして本土に逃げ帰ってしまった。
旧帝国軍隊と自衛隊は違うと思いたいところだ。だがアメリカ軍に協力するために有事法制を発動させ、国民を否応なしに戦争に協力させようとしているこの国の政府が操る自衛隊は、国民を守る対象と考えているか利用する対象と考えているかという本質的な点で、旧帝国軍隊と体質を一にしている。国民に協力と犠牲を強制的に要求する有事法制はまさに旧帝国軍隊の体質を継承するものだ。自衛隊もまた、国民の安全よりも自己保存を優先する。それが軍隊というものの宿命だ。
たとえば有事法制では、「予測事態」の段階で自衛隊は国内で武器を使用できることになっているが、まだ自国領土内に敵もいない段階でいったい誰に武器を向けるというのだろうか。こんな事態が現実になったときのことを想像すると、身震いがする。
自衛隊に限らず、そもそも軍隊という組織は国民を守るためのものではない。軍隊は、国民を保護しないばかりでなく、自己の安全を最大価値として、危機に追い込まれれば国民を平然と自らの手で犠牲にすることを厭わない組織である。
また、仮に国民を守ろうとしても、守りきれるものではない。9・11事件を契機に「テロへの終わりなき戦争」を叫んで正気の沙汰とは思えぬアフガニスタンやイラクへの軍事侵略に踏み切ったアメリカ合州国のその後を見れば、たとえ敵国政府を軍事力で倒すことはできても、その後のテロ攻撃による国民の安全の確保が不可能なことは理解できるだろう。
ましてや日本の国土には、原子力発電所や化学コンビナートなど恰好の攻撃対象が市民の居住地に隣接している。鉄道・高速道路・通信施設などのライフラインが網の目のように張りめぐらされている。これらが敵の武力侵略乃至はテロの攻撃対象になれば、たちまち市民の住む広範な地域が危険地帯に一変し、市民生活は大混乱に陥る。軍事力によっては、国民の命と暮らしは守れない。
だが現に、国会議員の圧倒的多数の賛成により、有事関連三法は成立してしまった。政府はこれに勢いを得て、次には国民保護のための法律を整備しようと、昨年6月に国民保護法制整備本部を設置し、同月の第1回会議開催を皮切りに昨年末までにすでに3回の会議を重ねた。
いま政府が足早に進めようとしている国民保護のための法制の整備は、ほんとうに国民の保護、つまり国民の暮らしと安全を守ってくれるものなのだろうか。
この国民保護法制なるもの、もともとが国民の保護が置き去りにされているとの批判を受け、有事関連三法施行後1年以内の整備を目標に法案準備がなされてきたものだが、昨年11月に明らかになった「国民の保護のための法制の〈要旨〉」を見てみると、たしかに国民保護に関する事項として、避難に関する措置(警報の発令、避難の指示、避難住民の誘導他)、救援に関する措置(収容施設の供与、食品の供与、生活必需品の供与、医療の提供等)等が盛り込まれている。その他武力攻撃災害への対処、電機・ガス等のライフラインの適切な供給等々が書かれていて、国土が武力侵略された場合の対応策を定めることが目的であるようだ。
しかしよく読んでみれば、この「要旨」の冒頭には、「武力攻撃事態等における国、地方公共団体等の責務、国民の協力等に関する事項を定めることにより、国全体としての万全の体制を整備し、国民の保護のための措置を総合的に推進」することがこの法制の「目的」だと書かれていて、この法制が国民の保護そのものよりも、保護のための体制の整備と地方自治体の責務や国民の協力に関する事項を定めることに重点が置かれていることがわかる。
また、「国民の保護のための法制の〈要旨〉」では「国民の保護」のための体制はどのように進められていくかというと、「政府は、武力攻撃事態に備え、あらかじめ、国民の保護に関する基本指針を作成」することになる。この基本指針は安全保障会議に諮問し、閣議決定することになっているが、国会の承認は不要で、報告するだけでいいことになっている。有事体制の策定手順とほぼ同じである。
しかも、「武力攻撃事態に備え、あらかじめ」基本方針を作成し、この基本方針に則って体制整備を進める。つまり国民保護法制の場合は、有事の認定の有無以前に、平時から有事に備えて、自衛隊が守れない国民の「保護」を、政府の号令一下、地方公共団体や国民を巻き込んで行なおうとしている。そして「保護」の内容は、繰り返すが、警報の発令や避難の指示・非難住民の救援だけでなく、武力攻撃災害の防除や拡大の防止など「武力攻撃災害」そのものの対処が含まれる。
なんのことはない、自衛隊は国民を守れないから、自分たちに降りかかる武力災害は自分たちで守れ、つまりこれは平時から民間防衛体制を整備するということにほかならない。
しかも安全保障会議の実質的なリードの下に、武力攻撃に備えた地方自治体や国民の責務・協力を法律で定めた防衛体制を構築するということで、もしこの「国民保護法制」が成立すれば、平時から軍民一体となった周辺事態がらみの国防体制を進めることが可能になってくる。
国民を戦争から守る法律ができると思っていたら、平時から国民を有事体制に巻き込む法律ができて、国民は戦争が起ころうが起こるまいが戦時体制に協力させられていくことになり、またまた国民は見事に騙されることになる。
ほんとうに、もういいかげんで目を覚まさないと、みんなとんでもないことになりますよ。こんなことで、ほんとうにわれわれの命と暮らしが守れるんですか?
近い将来日本が武力侵略される現実的な可能性などほとんどないなかで、こうして有事(=軍事)体制が着々と進められていけば、周辺国にどのような影響が出るだろうか。
アジア最強の軍隊といわれる自衛隊は、これまで憲法の制約で海外派兵ができなかった。しかし有事法制が成立し、法制面で自衛隊はいつでも海外で戦える軍隊に変身した。国土を武力侵略されないなかで、自衛隊が米軍と歩調を合わせて海外で戦いをはじめるとすれば、それは限りなく侵略に近い戦闘行動になるだろう。過去に軍事侵略の歴史をもつ日本の軍隊のこの変身に、アジア諸国はいやでも警戒心を高めざるをえない。日本への不信感は高まり、日本のアジア外交も、経済や文化の交流も、困難になるばかりだろう。「もし攻められたら」を前提にした軍民一体となったこうした国防体制の性急な「整備」は、侵略の歴史を忘れた日本の身勝手な振舞い、アジアへの脅威と、アジア諸国には受け取られるだろう。
そればかりか、これまで繰り返し述べてきたように、自衛隊がこんな行動に走れば、間違いなくテロの報復を誘うことになる。われわれの社会がいかにテロに脆弱かは、前述したとおりだ。
つまりいま性急かつ強引に進められている有事体制は、時代錯誤の国家防衛観に基づくもので、武力で国家を守ろうとすればするほど、市民の命や暮らしを守ることが難しくなる。兵器の高度な進歩と世界的な不安定化によって、軍事力で国を守ることなどもう不可能になってしまったのに、政治はいまだにこの現実に適応する適切な戦略転換を行なおうとしない。いや、小泉政権はそれを承知で有事体制を構築しようとしているのかもしれない。ひたすらアメリカにつき従うことが日本にとって最大の利益と信じているために。
そもそも国家を守るために国民を危険にさらすことが、民主主義体制の防衛思想なのか。何を守るのか、守るべき対象によって守る手段も異なってくる。
もし守るべき対象が国民の命と暮らしであるなら、それを最優先の国防の理念とするなら、軍事力で国民の命と暮らしを守ることがほとんど不可能な現代においては、武力以外の手段による「攻められない条件」をいかに作り出すかに国防の重点が移されなければならない。軍事的な手段によって国民の命と暮らしを守ることができなければ、実効性のある命と暮らしを守る行動とは非軍事的な手段によるものにならざるをえない。
現代という時代は、安全保障という課題において、根本的な思想転換の時代を迎えている。
まず、各国の政治・経済・文化が複雑に絡み合い、世界的な相互依存関係のネットワークが現出したこのグローバルな時代には、どの国においても一国では自国の安全保障は実現できない。アメリカ合州国においてすら、然りである。それは自国だけが攻められなければいい、自国だけが平和の中で繁栄できればいいという思想が現実性をもたなくなったということだ。現代の戦争やテロは、もはや国家単位では対応が不可能になったということだ。戦争やテロの根源にある貧困や差別の問題は、一国では解決できない。それは国家を超えた広がりのなかで、国際協調のシステムを作り上げ、そのシステムを実効あるものとするために国内の対応システムを整備していくことでなければならない。
このような国家を超えた安全保障の構築は、「国を守る」思想から「人間を守る」思想に転換することによってしか実現できない。つまり「国家安全保障」から、「人間の安全保障」への転換、もっと具体的に言えば、「国境を越えた民衆のための安全保障」をこそ、現代は最優先すべきだろう。この思想こそが、まさにわれわれの命と暮らしを守るものであり、紛争を終結させて平和をつくりだす唯一のものだろう。
有事法制に象徴される「国を守る思想」はこの新しい思潮に背を向けている。いまわれわれが目指すべきものは、アメリカの戦争に参加することではなく、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において名誉ある地位」(憲法前文)を占めるために、日本国憲法の精神を活かして平和をつくり出していくことである。
一国平和主義、武力による平和思想から脱却するために、では、われわれ戦争に巻き込まれる側は何をしなければならないのか。それは市民が受身に立って、国家の武力によって安全を守ってもらうことではないだろう。
国境を越えた連帯によってお互いの平和と安全をつくり出すために、また政府をそのような方向に動かすために、市民が自ら考え、動こくとによってしか、われわれの命と暮らしは守れないことにこの国の多くの人たちはまず気がつかなければならない。
(2004年1月25日)