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(回答先: 有事が来るぞ(8) 武力に頼らず暮らしを守る 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 20 日 10:13:17)
【世相百断 第59話】
憲法はどう改正されるか
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sesou59.html
憲法改正論議が政界でさかんになってきた。
もともと絶対平和主義を謳った前文と戦争放棄の9条を削除したい保守勢力は、押しつけ憲法などと称して数十年前から憲法改正を虎視眈々とねらってきたが、最近は民主党も政権担当能力を誇示するために、改正議論を行なうようになってきた。現行憲法を死守しようとする共産党や社民党は前回の選挙で議席を大幅に失い、選挙結果からは民意もまた憲法改正に理解を示しているようにみえる。
この流れがつづけば、いずれ国会で憲法改正は政治の議題となるだろう。
その後、国の基本法である憲法の改正は国民の議論にならねばならないが、いまのところ国民の議論になるまでに高まってはいない。
こうした憲法改正をめぐる状況を見ていて、ふと気になってきた。現実に憲法改正が政治の議題になり、改正草案が国会で検討されるような事態にまで進んだら、その先、改正の手続はどう進められるのだろうか。
そこでまず、憲法は改正手続をどう定めているのか、確かめてみた。こう書かれている。
第九十六条【憲法改正の手続】
1. この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2. 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
ご覧のように現行憲法の改正要件はかなり厳しく定められている。衆参両議院において、各議員の「三分の二以上の賛成」がなければ国会は国民に改憲の発議ができない。
この改正手続は非常にハードルが高く、国家や社会の状況変化に応じて改正が必要になっても、容易に改正できないという指摘がある。憲法改正に反対する勢力が国会議員の三分の一以上を占めれば、改憲の発議そのものが不可能である。
ハードルが高いこと自体は、プラスの面もあるしマイナスの面もあるだろう。現行憲法の絶対平和の精神が非現実的であり、民主主義の規定が"過度"だと考えるもの、あるいは政権をもっているものにとっては、自分たちの都合にあわせてもっと簡単に憲法が改正できればいいと考えるだろう。現行憲法の精神に高い理念と精神性を認めているものは、社会の変化や政権党の都合に合わせてそんなに簡単に憲法は改定しない方がいいと考えるだろう。
こうした賛成派・反対派それぞれの立場や思惑を離れても、国の基本法である憲法が必要に応じて改正できなければ、社会の状況に対応できなくなる可能性は否定できないし、かといってときどきの政治の都合で安易に改正ができれば、憲法が基本法として機能しなくなるおそれも出てくる。
だからこれまでの憲法論議でも、憲法の内容もさることながら、このハードルの高さをどう考えるかという議論も改正賛成派・反対派・学者などの間でなされてきた。
たとえば改正のためには後ろに国民投票による過半数の賛成が必要とされているのだから、国会の発議の要件を緩めて、各議院の過半数にしてはどうかという意見がかなりある。これは自民党や財界に多い。
これに対して、憲法は基本法なので改正がしにくいのは当たり前で、過半数ならば普通の法律と同じで、憲法の地位が下がってしまう、という意見もある。
国会で三分の二以上の賛成を得るためには、国民を納得させられるだけの議論をきちんとしなければならない。国民にほんとうに憲法改正は必要だと納得してもらえるだけの議論を尽くすためにも、「三分の二以上」のハードルは必要だとの意見もある。
この意見には私も同感だ。これまでの国会を見れば、立法府として、また言論の府として、国家の方向を左右する重大な議題についてきちんと議論ができてこなかったことは明らかだからだ。政府は秘密主義や詭弁を駆使して説明責任を果たさず、野党は政権を目指す責任政党たるべき理念を掲げて与党の政策の是非を問うことよりも、政府の揚げ足取りに熱心で、議会制民主主義は制度としては存在しているが運用上は政党の政争の場と堕落しているのが現実だ。挙句に、ことが重大になればなるほど、最後は民主主義は数だとばかりに与党の単独審議や単独採決で強引にものが決められてきた。
憲法改正の発議がもし国会議員の過半数の賛成で可能になれば、過半数の議員を擁する与党は強引な政局運営・議会運営で、単独審議を視野に改正発議に漕ぎつける誘惑に駆られるだろう。
憲法改正の国会論議の場でこんな無様なことを絶対に実現させてはならない。
これまでの議論では国民投票は必要かという意見も出されたらしいが、これはおおむね否定されているようだ。現行憲法の基本原理は国民主権であり、国民投票制は国民主権の原理を改正手続に原則化したものなので、変えやすく手続を変えてしまうことは憲法の原則を踏みにじることになる、という意見は説得力をもっている。実際、国民投票を廃止してしまったら、主権者である国民の憲法改正に対する判断と意思表示を充分表現することができなくなってしまう。我が国の場合、一国の総理大臣も国民の信を問わずに政権与党の総裁交代で変わってしまうのだから、憲法改正ではこうした国民の直接関与なしの改正手続は絶対に実現させてはならない。
しかし仔細に考えてみると、ここまでの手続についてもわからないことがいろいろ出てくる。
96条にある「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」の「総議員」とは在籍議員なのか、定数なのか。改正発議に必要な議員数が三分の二になるかならないかのきわどい状況になれば、ここをどう定義するかはかなり重要になってくるが、現状ではどちらとも決まっていない。
また96条第1項は「国会が、これを発議し」と書かれているが、ということは内閣には提案権がないということだろうか。「国会が」というのは、具体的には「政党」が改正案を国会に提案するということなのだろうか。
内閣法制局は、「内閣も原案を国会に示すことはできる」と一貫して主張しているようで、「内閣が憲法改正原案を仮に国会に示したとしても、そのことによって、発議のための国会の憲法改正に係る自由な審議が妨げられる性格のものではない」という理由をあげている。しかしこれはかなり無理な論理で、国会に発議権を限った憲法の条文をこの理屈で曲げることは客観的にみて筋が通らないだろう。
一方で、憲法改正の発議権を内閣には付与せずに議会に限定しているのは、採択を国民みずからが行うことを定めているのであって、国民が憲法をつくるという原理を表明したものにほかならないから内閣には提案権がない、という意見もある。
ここも明文規定がないので、いざ改正案が現実に政治の議題になったときには、改正賛成派と反対派の対立点になるかもしれない。
また、どのような内容の改正案が提案されるかによって、国会や国民の議論もかなり様相が変わってくると思われる。
第一の改正パターンは、現行憲法成立時と現在の状況変化の違いを反映させて、前文ないし本文の個別的条項について、必要な削除、修正、追加を行なうというものだ。これは改正個所の規模によっては現行憲法の理念の変質につながる全面改憲に近いものになる可能性も出てくる。すなわちそれは、日本がこれまでとはまるで違う国家や社会になってしまう可能性が出てくるということだ。前文や9条の削除あるいは大幅改憲をしたい自民党や財界の一部はこの方式をとりたいだろう。
第二のパターンは、新たな条項を加えて憲法典を増補する、いわゆる増補方式だ。アメリカの憲法改正は「アメンドメント方式」と呼ばれるこのパターンだ。
なぜアメリカがアメンドメント方式を採っているかというと、憲法成立時の本文は歴史的産物であって、歴史に責任を持つという意味からも、後の時代に出てきた知恵は後ろに足していくという考え方によるようだ。
実際、日本国憲法の第96条に出てくる「改正」という語の英訳は「アメンドメント(Amendment)」であり、もともと日本国憲法はアメリカ型の改憲を考えていたようである。
また、96条2項の「天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」という「一体を成すもの」とは、「前のものが全部残っていて後から継ぎ足すから一体であるという意味」だとの解釈もある。現行憲法がその原型をとどめぬ規模で、理念を変質された改正がなされるようなことになれば、「この憲法と一体を成す」という文言は意味をなさなくなり、改正は憲法の精神そのものを踏みにじることになる。「増補方式は憲法のすべての条文、前文及び本文を残すことになり、この憲法が制定された当時の精神を後代に残すのに役立ち、日本国憲法の改正条項の精神ないし趣旨に適合する」という説には頷かされる。
憲法をどのように変えたいか、その思想と目的によって、採るべき改憲の形もまったく変わってくる。憲法改正が現実の政治議題になったときには、まずこの点が大きな争点になるのではないだろうか。どちらの改正パターンを採るかは、われわれが現行憲法のどのような理念を後世に残し、どの点を社会の変化に合わせて変えていくかと不可分につながっている。ここは国民一人一人も、政治まかせにせず、あるべき憲法と改正のあり方をよく考えておくべきところだろう。
また、自民党や財界の大勢が望むような本文の個別的条項についてのかなり大幅な削除、修正、追加を行なう第一のパターンの改憲に進むとなれば、各個別条項の賛否が錯綜し、たぶん改憲の議論は混乱に混乱を重ね、最終的に国会の発議まで辿り着くのは容易なことではないだろうし、国民投票においても国民は改憲案に全面賛成乃至は全面反対の意思表示ができなくなるのではないだろうか。
こう考えると、もしほんとうに改憲が必要であるなら、第二のパターンの増補方式が現実的だと思われるが、個々の条文の何を残し、何を削除・修正・追加したいかによって、どのような改憲のやり方になるかが変わってくる。個別条文の検討と絡んで、これは国民を二分する大議論になるかもしれない。
こうした議論に国民的な合意が得られて、さて、憲法改正草案が国会で議論されたとしよう。当然のことながら、各改正条文ごとの議論がなされるのだろうが、議論は多岐にわたり、かつ改正条文に関わる関連法律への影響まで慎重に検討することになり、改正案の個別条項に対する修正また修正などということにもなりかねず、一国会の議論では発議にまで漕ぎつけられないかもしれない。
その場合は継続審議になるのだろうか。そうこうしている間に選挙があり、議席の勢力地図が変わってしまった場合はどうなるのだろうか。
それとも、国会に提案される前に、憲法改正の特別委員会とでもいうものが設置されて、本国会に提案される段階では賛成か反対かが議論されるだけという手順になるのだろうか。
衆議院で賛成多数で発議された改正案が、もし参議院で一部修正されて可決された場合、つまり衆議院と参議院で改正内容に差異が出てきた場合はどうなるのだろうか。「衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。」(第五十九条【法律案の議決、衆議院の優越】の第2項)の規定が適用されるのだろうか。
また、参議院の審議に手間取り、「衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しない」(第五十九条第4項)事態に至ったときは、同項に定める「衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる」という規定を適用することになるのだろうか。
こうした国会審議の手続の詳細についても、現在は何も定められていない。
それでもなお、首尾よく改憲案が国会を通過したとしよう。この発議を受けて、次には国民が改憲案を承認するかどうかを決定することになるが、門外漢の私はここでまたひっかかってしまう。疑問がつぎつぎに出てくる。
第一に、憲法96条がいう「その過半数の賛成」の分母は何であるのだろうか。「特別の国民投票又は国会の定める選挙」と書かれているから、分母は有権者であるのだろうが、それは有権者総数のことなのか、投票者総数のことなのか、それとも有効投票総数のことなのか。
そもそも「特別の国民投票」とはどういう方法で行われるのだろうか。そのための法律も制定されていない。
改正案の一部のみ賛成できないという場合、国民はどの段階でどういう意思表示の仕方ができるのだろうか。各個別条項ごとに国民の賛否を問うという方法はありうるのだろうか。もしあるとすれば、ある条項は賛成され、ある条項は反対されたことによって、憲法全体の条文構成の整合がとれなくなる可能性が大きくなる。
国会発議の前段階で、国民(の代表として識者等)がなんらかの意思表示をできる機会が与えられるのだろうか。その意思表示はどんな方法で国会の改憲議論に反映されるのだろうか。
こうしていろいろ考えてくると、憲法改正のための個別条項の検討を行なう前に、やっておかねばならない大きなことが二つあることに気づく。
第一は、改憲の手続をきちんとルール化すべき時にきているということだ。つまり、改憲の具体的な検討の前に、改憲手続きそのものの法制化を検討すべきだ。憲法改正のための環境整備をまずきちんとやっておかないと、この手続論と具体的な改憲の内容がごっちゃに議論され、いたずらに混乱を招くだけだ。
憲法改正手続の議論に入るということは、改憲を前提にした発想で、これも反対だという考えが現行憲法死守派にはあるようだが、これはおかしい。もともと現行憲法に改正条項があること自体、現行憲法は時代の変化に応じた改正を前提にして存在しているということだろう。憲法といえどもルールである。どんな状況になっても改定されないルールなどというものは、およそこの世に存在しない。そんな頑ななことばかりいっていては、変化する社会状況にもついていかれないし、国民の支持も得られまい。
この改正手続法案の検討をまずじっくり時間をかけてやるべきだろう。この検討では、憲法改正国民投票制度の法制化だけでなく、上述したようなさまざまな疑問点についての議論を煮詰め、いざ改憲議論に入ったときに手続論で混乱しないよう、定義すべきことは想定できるもの全てを定義しておくべきだろう。改正項目が複数に渡る場合は、どのような方法で国民が意思表示ができるかも是非きちんと詰めておかねばならない。
この検討と国民のコンセンサスの形成だけで数年を要するのではないだろうか。社会の無用な亀裂を避けるためにも、これは拙速にことを進めるべきではない。
第二にやっておかねばならないことは、現行憲法の個々の条文をどうするか以前に、これからのわれわれの国家・社会をどういうものにしていくべきかの全体的な検討だろう。
上述したように、憲法は歴史の産物である。60年前に日本が引き起こし、アジアをはじめとする国々と国民を戦争の惨禍に巻き込み、日本の敗戦で終わった戦前戦中の歴史と、我が国とひとりひとりの国民の(もう二度と戦争は引き起こさないという)痛切な反省を反映して現行憲法は生まれ、これまで国民にその理念が尊重されてきた。
この憲法がどう運用され、現在の現実と理念のあいだにどう活かされ、乖離が生まれたかをまず検証することが必要だろう。この作業を国民ひとりひとりがしっかりやらないと、政権党の嘘と詭弁の積み重ねの上に現在の軍隊と呼ばない世界有数の軍隊をもつに至ったという奇怪な歴史を踏襲して、保守勢力や財界の言うがままに現状追認の憲法改正に国民が乗せられてしまう危険性が出てくる。
憲法改正がほんとうに今必要だとして、その理念・精神のどこを継承し、どこを変える必要があるのか、つまりわれわれは今この現在をどのように生き、どういう社会を後世の世代に引き渡すべきなのか、上記の検証作業を通してこの点を政治も国民ひとりひとりもじっくりと考えておくべきだろう。つまり憲法改正を言うなら、われわれが過去をどう反省し、現在をどう生きようとし、未来をどう作り上げていこうとしているのか、その総括をしっかりと行なっておかなければいけない。
そのために、まずは憲法を全文しっかりと読み込むことをひとりでも多くの国民が今から始めることを提唱したい。
(2004年3月6日)