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(回答先: 日本のとるべき戦略 2 投稿者 岩住達郎 日時 2004 年 5 月 17 日 06:44:47)
3.教育改革は制度や科目を変える事では無く、教育責任者に権限を与える事に在る。
教育改革を行うに当たって先ず認識すべき事は、学校教育の内容は制度と殆ど関係が無いという事だ。アメリカでも日本でも、制度をいじれば内容も良くなるだろう、という前提で議論をしている人が多いがそれは間違いだ。アメリカの学校は制度的に極めて自由で、6−3−3制や4−4−4制或いは全くの家庭教育など各学校区で自由に選択出来るが、その様な多様な制度下でも学生の質は親と教師の質だけで決る。特に重要なのは学校区の教育委員長の力量である。優れた指導者に強い権限を与える事が最も効果的で、制度をいくら弄っても、いくら法律を沢山作っても、教育問題は解決出来ない。
無能不適格教師の問題は日本だけでは無く、何処の国でも同じである。日本と違って、アメリカでは学校行政は地方の権限が強く連邦政府から補助金を貰はない限り自由にやれるようになっているが、それでも教員組合に入っている無能不適格の教師を首にするのは非常に難しい。教員組合が無能不適格の教師をかばって首に出来ないようにしており学校行政の最大の障害になっている。良い教師を集める為に給料を高くせよ、というのは教員組合のおきまりのスローガンだが、実際はそうでは無く、駄目教師をどんどん首にするのが最も効果がある事が実証されている。給料を高くすると、無能な教師ほど職場にしがみつこうとする。他の職業では給料が下がる事を知っているからだ。だから地区の教育委員長に大きい権限を与える事が良い学校を作る第一条件である。即ち、教育委員長には問題児童の親を告訴し損害を弁償させる権限と無能不適格教師を免職する権限を与えねばならない。
第二条件は、学生の質を適格に評価する方法である。即ち、どういう客観的指標を使って学生の質を判定するかと云うことだ。アメリカで良く使われる指標はSAT等の学力テストの点数だが、これは抜け道が沢山ありあまり有効では無い。例えば、生徒の質が落ちるに従って問題をどんどん優しくするとか、学校の平均点を上げるため先生が出来の悪い生徒に正解を前もって教えておくといった事が実際に起こった。一番妥当な指標は日本の予備校のように、何%の生徒がどこのどの学校に進学したか、という成果主義であろう。それでは学校は予備校化するので良くない、という意見もあるだろうが、進学組と就職組に分ける事で無駄な努力は回避できる。高校生の年頃には生徒の持つ才能も大体見えてくるから、勉強の嫌いな子に大学に行かせるべきでない。大学で使いもしない知識を高いお金を払って勉強するよりも、才能に応じた技を授けた方が余程将来の為になる。
現在の日本の教育危機のもう一つの原因は子供を指導する能力に欠けた親が多くなったという事だ。これはアメリカでも同じで、物質文明が進むにつれ多くの親は動物本来の使命である、子供を将来の生存競争に備えて訓練してやる、という義務を放棄してしまった。その原因は色々あるだろうが、根本的には親の利己的な欲と無知から来る恐怖心である。即ち、物質文明が一部の親の動物的本能を台無しにしたと言える。解決法としては法律で親の本来の使命を強制する他無い。つまり問題を起こした成人前の児童とその親に共同責任を取らせる事だ。その為に地区の教育委員会に問題を起こした児童の親に対して懲罰を加える権限を与えると共に、強制的に親子共に再教育する必要がある。
色々な科目を教え論理的に考えさせるのが学校の全てでは無い。人間としての倫理や作法を教えるのも科目以上に重要な事だ。これは敗戦後、日本に間違った民主主義と自由主義の解釈が蔓延した時、政治家達が声を大にして正しい解釈を国民に教えなかった事が原因だ。勿論、政治家すら正しい民主主義とは何かが分かっていなかったかも知れない。最近やっと義務と権利はコインの表裏の様に分割出来ない物だという意見が聞かれる様になったが、まだまだ何が民主主義とか自由主義の根元なのかを理解している人は少ない。これは思想の基本となる哲学とその論理体系を教えていないからだ。
学者や官僚に掛かると、権威を示す為に、何でも難しい定義付けをしたがるが、小学校の生徒でも分かる様な平易な民主主義と自由主義の解説が必要だ。絶対に昔の教育勅語みたいな物を恭しく聞かせる様な事をしてはならない。日本には昔から伝わる良い諺が沢山あり、その中から民主主義、自由主義の神髄にふれるものを集めて生徒に毎朝暗唱させるのが良い。アメリカの義務教育の学校で毎朝国家に対する忠誠を胸に手を当てて誓わせる様な偽善と欺瞞に比べれば、良い諺を暗唱する方が遙かにましである。
次にどの様な先生を無能不適格と判定するかが問題になる。例えば、日教組に属する先生のように、特定の思想を生徒に押しつけて洗脳しょうとする人は不適格であるから学校から追放するに十分な理由となる。これは、生徒には色々な思想を学んでから自分の頭で最も正しいと考える物を選択する権利があるからだ。一つの思想のみが正しいと云う強制は独裁制以外の何物でもない。先生が無能であると判定するのは学生と親に毎学期末に採点させる事で十分可能であろう。この様な解雇規範を文部省が制定し、地方の教育委員会に教員の解雇権を与え、その判定に対し教員組合が不服ならば一回の控訴を認めるのが公平であろう。
教育問題を考えるにあたって一番重要な事は、先ず何の為に教育をするのかという目的を決めることだ。文部省の官僚が書いた教育基本法に書いてあるような空虚な文章は何の役にも立ないから即刻破棄すべきである。昔は教育勅語があり当時の教育の価値判断が述べられていたが、教育勅語の内容は、今の教育目的に適さないとはいえ、価値判断に基づいて教育目的を明確にするという意味では正しいやり方だった。戦後の教育が沢山の問題を起こしたのは国家の教育目的が、アメリカの意向を受け入れようとして、日本固有の価値判断を斬り捨てたからだ。
日本の教育に必要なのは文部省の官僚が出す細々した法律や通達ではなく、小学生でも意味の分かる様に書かれた数行の教育目的宣言である。教育勅語は小学生にはお経の様にしか聞こえないから何の役にも立たなかった。教育目的には民主主義だの高尚な理念だのを仰々しく並べる必要は無い。そんな物は小学生には理解できず唯の念仏に過ぎない。
では児童を教育する真の目的は何か。それは彼らが成長し世の中に出る迄に生存競争に耐えられる手段を授ける事、唯これ一つである。ここで注意して頂きたいのは、生存競争に耐える為であって勝つ為では無い事だ。つまり防御法を先ず教える事が重要で、攻撃法は大学に入ってからで良い。全ては子供が如何にこれからの人生を戦っていくかにあり、子供が学ぶべき事は国の為でも、親の為でも無い、子供自身が生存競争に耐える準備をする為である。この事を明確に教育目的として宣言すべきである。
それには子供各人の持つて生まれた才能を最大限に伸ばしてやるのが生存競争に最も有利になる事は自明の理であろう。固有の才能を伸ばしてやると同時に社会で生活する為に、必要最低限の意志通信能力と計算能力を授ければ十分だ。大人の勝手な欲望や理想、或いは国家の都合や政治的理念に応じて子供の将来を決めるのは教育の目的では無い。
殆どの学生は自分の才能を見つける努力をしない。これは世界中何処でも同じである。才能とは他人には難しい事を自分は簡単に出来ると云う事で、自分の才能を知るには常に自分と他人を比べる努力が必要である。それには自分は他人と違うんだという認識と自信が必要で、どんな些細な事でも自分が他人より上手くできる事を発見すれば、あとは猪突猛進すれば良い。学生にこの才能発見法を熟知させねばならない。日本人に多い、他人と違う事をするのを避ける傾向を、学生時代に完全に払拭する必要がある。
自分の才能を見つけ、それを磨くときに苦労するのは当然である事を理解させねばならない。例えば、世の中が不況だから、とか、誰もかまって呉れない、とか考えるのは既に生存競争の戦いに負けた言い訳に過ぎない。生存競争に負けたくなければ先ず勝つ戦略を立てる事だ。戦うには自分の最も得意な事をするのが最も勝算が高い、という論理を学生の頭に叩き込むのが教育である。親と先生の仕事は学生の隠れた才能を引き出す事にあり、細々とした本に書いてある知識を暗記させるのは教育では無い。
何処の国でも極端な平和主義、無競争主義の人達がいる。こういう人達は、運動会とか試験は勝ち負けをはっきりさせる、従って負けた人達が「可哀相」で「悲しい」、だから皆に「優しく」して「甘え」させる為に全ての競争を廃止しょうと言う。こういう主義の人達は論理よりも感情に囚われているからだ。
可哀相とか悲しいとか優しいとか甘えると云った感情は人間だけで無く殆どの動物達も持っている。それにも関わらず、全ての動物達は地球の開闢以来生存競争をしてきた。即ち、生存競争とは生き物が地球上に現れてから以来連綿として全ての生物に課せられた摂理なのである。摂理は物理法則の様に人間の感情や思惑に無関係に執行される。人間だけが摂理を破る権利を与えられたと思うのは人間の傲慢な思い上がりに過ぎない。
では摂理を破るとどうなるか。相応の代価を払わねばならない。その代価を払っている典型的な例は現在の日本の学生なのだ。日本人は敗戦後アメリカに押しつけられた民主主義、自由主義を誤って解釈し子供達を甘やかし、躾を教えず、生存競争を出来るだけ避ける様にした。その代価を今払っているのだ。
生存競争を不可避の摂理として受け入れたとして、次に問題になるのは人口の半分位の敗者をどうするか、という事だ。ほんの100年位前までは敗者は政府からうち捨てられ、援助の手を差し伸べたのは一部の宗教団体とか慈善家達だけだった。しかし負けた人を可哀相だからと政府が保護する事は摂理に反し結局高い代価を払わなければならなくなる。今どこの国でも福祉が政府の財政破綻の原因になっており、しかも助けて貰っている人達は不平たらたらで一向に社会は良くならないのは、摂理が執行されている証明だ。
どうしてこんな事になったのか。その理由は、現在のやり方では敗者が生存競争を避けるのを助長しているからである。では、どうすれば全ての人が生存競争に喜んで参加するように出来るか?それにはスポーツやゲームで使われるハンデキャップ(与点)の原理を使う事だ。与点制の良いところは、弱い人でも頑張れば強い人を負かす事が出来るので生存競争が苦にならなくなり、自己改善の原動力になる事だ。
与点制度では、例えば試験で30点の子は70の与点を貰う。次の試験で40点取れば100点の子に勝ち、与点は60に下げられるわけである。この様にすると成績の悪い子でも努力すれば何度も試験で勝つ事が出来、表彰状がもらえ激励される。勿論、成績表は与点がゼロの子から順に並ぶ事になるので才能のある子は正当に評価されるから心配ない。そして成績は悪くとも努力した生徒は沢山表彰状をもらった記録がつく。学生だけでなく、与点制は社会制度にも適用出来るが、この議論は長いので別に後述したい。
責任を負う能力の無い人が社長になった会社がいずれ潰れるのと同様に、今の日本の無責任制度を維持すれば、例え将来日本経済が世界一になっても、国際社会での日本の政治的指導力は無視されてしまう。昔の武士は責任の取り方を知っていた。今の様な無責任制度を発生させた間接の原因は敗戦後の連合軍占領政策にあるとは言える。しかし、占領終了後それを正そうともしなかった歴代の日本の政治家がその全責任を負わねばならない。
以下に文部省が取るべき政策を列挙する。基本方針は文部省は監督責任のみを負い、教育実施責任は全部地方政府と教育委員会が負う。今のように日本の政治と教育が無様な事態に陥っている最大の原因は責任の所在を明確にせず関係者全員が責任回避出来る様な制度になっているからである。だから関係者各自が明確な責任を負い、責任を果たせない無能者をどんどん淘汰していく制度に切り替える。これが自然の摂理である生存競争に最もかなったやり方で、従って最も安定で効率の良い結果をもたらす。
1。小、中、高校までは個別の学校の運営について地区の教育委員会が全責任を負う。教育委員会は区内の学校で使う教材、科目、学期の日数、学年制、等全ての決定権を持ち、又教員と職員の人事権を持つ。
2。子供が成人するまでの親の監督責任を明確に法文化し、親に子供の行為による損害に対して賠償の全責任を負わせる。地区教育委員会は無責任な親を告発する義務をもつ。
3。大学は各大学の学長が学校運営の全責任を負う。
4。教育委員会及び学長は教師の評価方法を文部省に提出し認可を受ける義務を負う。文部省は評価が所定の方法に従って行われている事を年一回検査する義務を負う。
5。犯罪を犯した教師と同様に無能不適格な教師を学校から追放する為、地域教育委員会及び学長に教員罷免権を与える。
6。情実から無能不適格教師を解任出来ない地域教育委員会または学長は文部省がその地域教育委員会の解散または学長の解任を命じる事が出来る。
7。文部省は有能教師の福祉を守る事を目的とする教員組合を奨励するが、無能教師を保護する事を目的とするものは解散を強制する。教員組合は正当な手続きによる罷免に反対する権利を持たない。
(続く)