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(回答先: 戦いに敗れて蝦夷社会崩壊→流浪の旅【北東北の歴史散歩】悲惨だった奈良〜平安時代の東北住民、都の反映の陰で。 投稿者 処方箋 日時 2004 年 3 月 28 日 20:07:43)
岩手県の岩手郡に源を発する北上川は北上盆地真ん中を突っ切り、仙台平野を南下し、石巻市で太平洋に注ぐ大河であります。
この北上川の流れる流域は、昔は日高見国といわれ、水と太陽に恵まれた肥沃な大地でした。北上川は日高見川の訛ったもので、今に昔の名前を残しております。
この日高見国の中心地は仙台平野でしたが、大和朝廷の度重なる軍事的な侵攻によって、胆沢地方(岩手県の水沢を中心とした北上盆地)に最後の拠点を残すだけになりました。この最後の拠点も802年の坂上田村麻呂によって阿弖流為(あてるい)が降伏して、陥落してしまいます。
これをもって、実質的な奥州の日高見国は滅亡したのです。
日高見国は日本書紀のなかに、大臣武内宿禰の東国巡視の報告として、次のことが述べられております。
{東の夷の中、日高見国がある。其の国の人は男も女もともに身に入れ墨をし、人となりは勇敢である。すべて蝦夷という。また、土地は肥沃で広大である。征服して取るべきだ。}。
また、632年貞観6年の中国の{新唐書}にも大和朝廷の使者が訪れた際、蝦夷の使者も一緒に唐を訪れたとの記載もあります。
これらのことより、奥州・陸奥には大和朝廷とは全く別個の王国の存在を確認できるわけです。
大和朝廷の勢力範囲は、3〜4世紀の日本武尊(倭建)の頃は、新潟から栃木・千葉を結ぶ付近まで達していたようですが、4〜5世紀には新潟から福島のラインへと北上し、さらに、8世紀の多賀城時代には秋田県中部から宮城県北に至っております。
さらに、9世紀にはいると秋田北部から岩手県南部まで達しております。
大和朝廷は蝦夷地との国境線沿いに城柵を作り、兵担地として侵略の策を練り、領土を広げた時には、また前進基地として城柵を作っていきました。
そして、柵の周りに柵戸といって倭人を移住させ、抵抗する蝦夷は北方に追い出し、捕虜となった蝦夷は夷俘として全国の収容施設へと収容していったのです。
そして、後期になるとその統冶を政府に帰順した蝦夷(倭人との混血?)に任せるようになります。この蝦夷を朝廷側では俘囚と呼びました。
蝦夷地に移住していった倭人は最初の頃は一般人(富農)でしたが、8世紀の後半から9世紀に入る頃には、犯罪者や浮浪人を送り出すようになります。
日高見国が滅んだあとは蝦夷地は俘囚長(いやな言葉ですが)の時代に入ります。
安倍・清原・平泉藤原の時代とはこの時代のことです。
さて、安倍比羅夫の遠征の後の話に戻ります。
◇ 709年(和銅2年)、出羽柵(山形県最上川河口)を作り、巨勢麻呂(陸奥鎮東将軍)等が蝦夷征討に出る。
◇ 720年(養老4年)、按察使・上毛野元人が蝦夷に殺される。そのため、多冶比真人県守(持節征夷将軍)等が半年間軍事行動をしている。この時、多賀の鎮所の配備を強化する。既に、宮城県の中部に朝廷の出城ができていたようだ。
◇ 724年(神亀元年)、桃生・牡鹿の蝦夷が佐伯児屋麻呂を殺害。この時も朝廷は藤原宇合を持節大将軍に任命して、蝦夷征討に出る。
この時、反乱の首謀者1696人を伊予国に、578人を筑紫に配流。朝廷の有無を言わせぬ蝦夷に対する弾圧の程度がよく分る。
◇ 大野東人が多賀柵をさらに強化して、今後は多賀城と呼ぶことになる。
◇ 749年(天平21年)、今の黄金山神社(宮城県)の場所から金が産出。
大伴家持は慶んで
{天皇(スメロギ)の御代栄えむと東なる陸奥(ミチノク)山に金(クガネ)咲く}
と詠む。
◇ 758年(天平宝字2年)、桃生柵・雄勝柵を造営。
◇ 767年(神護景雲元年)、伊治柵(宮城県築舘町)を作る。
◇ 774年(宝亀5年)、桃生柵を蝦夷(海道)が襲う。朝廷は板東八国に兵の動員を命ずる。
3月後、遠山村の蝦夷が反乱を起こしたため、按察使・大伴駿河麻呂が出陣し、これを鎮圧。
◇ 775年(宝亀6年)、出羽の国に相模・武蔵・上野・下野から兵を送る。
◇ 776年、宝亀7年)、出羽の志波郡の蝦夷が反乱。この時も、大伴駿河麻呂が下総・常陸の兵を集めて出陣するが、まもなく急死。
◇ 777年(宝亀8年)、後任の按察使に紀広純が就任。この頃は、蝦夷の俘囚長伊治公呰麻呂(あざまろ)が伊治柵を守護していた。
◇ 780年(宝亀9年)、この伊治公呰麻呂(あざまろ)が反乱を起こし、紀広純を殺す。あざ麻呂は反乱後姿を消す。朝廷は藤原継縄を征東大使に任命し、板東より数万の兵を集めて蝦夷を攻撃。
◇ 782年(延暦元年)、大伴家持が按察使として多賀柵へ赴任。(延暦四年家持死去)
◇ 788年(延暦7年)、多賀柵(城)で軍備を整えて新たな侵攻の準備を始める。紀古佐美(紀広純のいとこ)が征東大使に任命される。
◇ 789年(延暦8年)3月、紀古佐美が5万の大軍を率いて、日高見国の最後の拠点・胆沢に向けて攻撃を開始。これを迎え撃つのは、蝦夷の大将阿弖流為。
朝廷は蝦夷の反乱を口実に自分の版図を着実に広げ、柵(城)を作って倭人を入植させてきました。
大野東人が多賀城(柵)を作ってからは、日高見国の範図は縮小してきて、その命運は尽きようとしていました。