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(回答先: 日高見国_滅び行く奥州蝦夷帝国【北東北の歴史散歩】北上川は日高見川が訛った。 投稿者 処方箋 日時 2004 年 3 月 28 日 20:10:32)
▽ 東北地方への大和朝廷あるいは時の中央政府の進攻は、6〜7世紀から、奥州藤原氏が滅びる1189年までの長期に渡りますが、それを支えたエネルギーはどこにあったのでしょうか?
▽ 5〜6世紀の頃は、大和朝廷の支配地は西日本だけだったのですが、それを東へ東へと領土を広げていったのはどうしてでしょうか?
▽ 日本書紀には日本武尊が九州の熊襲を征伐した話や東国・吾妻へ遠征した話が出ておりますが、このようにして朝廷の基盤ができあがっていったのでしょうか?
ここに大きな歴史上のおおきな出来事があります。
▽ 一つ目は、552年に百済の聖明王が日本に仏教を伝えたことです。これは、後に国家仏教となって東大寺に廬舎那仏を作るまでになります。
▽ 二つ目は、562年、半島の日本の基地でもあった任那が新羅に滅ぼされたことです。
これは663年白村江の戦いで百済と日本の連合軍が敗れて、日本の半島への足がかりが全く無くなってしまったことで完結します。
それは大和朝廷がこの九州・四国・本州の西半分だけで生きていかなくてはならなくなったことを意味します。
ここに至って、強烈な国家意識が芽生えてきました。
と同時に、唐と新羅の日本への進攻を防ぐために、沿岸の防備を強化する必要が出てきました。
673年、壬申の乱で勝利した天武天皇は、兵制を整備し、律令を制定し、国史を編纂し、日本を一つの独立国家として形作ることに努力しております。
国史は、720年に日本書紀として完成しております。
▽ 三つ目は、ちょっと時代が下りますが、749年、小田郡(宮城県)から黄金が産出されたことです。それが、東大寺の大仏を始め、仏像建立の時期と丁度重なりました。それまでは大陸から輸入していたのですから、朝廷の喜び様は一方ではなかったようです。
その後、奥州では金山が次々に発見されております。そうすると、その金山を自分の管理下に置きたいとする欲望が出てきます。
唐と新羅の日本への進攻の可能性が消え失せると、今度は夜郎自大的に、自らを世界の中心と見る考え、即ち中華思想に影響されてきます。
大陸への対抗上そのように振る舞ったのでしょうが、今度は自分を日の本として、周辺を野蛮とみる風潮がはびこってきました。日本を大陸からは倭とか東夷とか言われたのを真似したのでしょうか、東の勢力範囲外の地を「化外の地」といい、そこに住む人を「蝦夷」と言い、そのうち朝廷に恭順した蝦夷を「浮囚」と言うようになります。
そして、この地は征伐する地となっていきます。
殊に、金山が発見されてからの朝廷の奥州に対する攻撃は熾烈を極めております。
▽ 武士階級が形成されてくると、その役目を武士に任せるようになってきます。「征夷大将軍」とは、奥州攻撃の総大将の名称が幕府の統領の名前になったものです。
不思議なのは現代でも「蝦夷」という言葉が大手を振って罷り通っていることです。そろそろ、「日高見国人」とかなんとか、奥州が独立国だった頃に使っていた自分達を表す言葉に代える時期ではないでしょうか?(蛇足?)
やっと、阿倍比羅夫の話になります。
7世紀の中頃には、朝廷の勢力範囲は日本海岸沿いでは新潟まで達しておりました。そこから北は蝦夷地です。この頃、阿倍比羅夫は北陸の越国の国司をしておりました。
658年(斉明4年)4月、阿倍比羅夫は、船180艘を連ねて日本海岸を北上しております。武力偵察としては規模が大きすぎます。
半島で百済と新羅とが戦火を交えている時にしては、よくもこんな大軍を奥州に派遣できたものです。
今の秋田県の雄物川の河口のアギタ浦(今の秋田市)に着いた時、アギタ蝦夷の首長の恩荷(オガ)は安倍比羅夫に恭順しました。阿倍比羅夫はこの恩荷に、小乙上という官位を与えております。
その後、阿倍比羅夫は更に北ヘ行き、ヌシロ(能代)・ツガル(津軽)の蝦夷の頭領を郡領に任命しております。
そして、有間浜(岩木川の河口?)に渡島の蝦夷を集めて饗応をしております。
さらに、肉入籠(シシリコ)(今の北海道?)に至って、後方羊蹄(シリベシ)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いております。武力を背景に、有無を言わせないで、蝦夷を朝廷の政治機構に組み入れようとした様が分ると思います。
同年7月には、200余人の蝦夷が飛鳥の朝廷に朝貢に来ております。
660年(斉明6年)三月には、阿倍比羅夫は第二次遠征に出発しております。この時は200艘の大船団を引き連れております。
ある大河の河口に来ると、渡島(ワタリシマ)の蝦夷が1000人ほど集まっておりました。この中から二人の蝦夷が走り出してきて、「ここに突然粛慎(ミセハシ)の船が襲ってきたので助けて欲しい。」と、安倍比羅夫に懇願しました。
阿倍比羅夫は粛慎と接触しようと思って、浜辺に布・武器・鉄などを置きましたが、粛慎は逆に攻撃してきたので、両軍は矛を交えることになりました。
粛慎の内49名を捕虜としましたが、比羅夫の側も能登臣馬身竜が戦死しております。
この粛慎という部族は、大陸から来たのか、北海道・樺太から来たのかは分っておりません。少なくとも、この地方に住んでいる蝦夷とは違った種族だったようです。
彼ら捕虜は、生きた熊2頭と熊の皮70枚と一緒に朝廷に献上されております。
この3年後、663年(天智二年)8月13日、半島での戦いで、唐・新羅連合軍の水軍(劉仁軌指揮)に日本水軍が敗れ、400艘が焼かれております。
8月28日には、残った日本水軍が周留(チル)城の囲みを解こうと攻撃を仕掛けますが、ここでも惨敗しております。これで、日本の水軍は壊滅状態になったわけです。
この白村江の戦いで敗れた日本は、国内の経営にかかりっきりで、それ以後豊臣秀吉の時代まで、大陸に対して日本の方からの軍事的な攻撃は無くなりました。
このためでしょうか、大規模な船団を組んでの蝦夷地攻略の記録はしばらく途絶えております。
今度は、陸地に柵戸を作って徐々に北進を開始していくのです。
何れにしても、この阿倍比羅夫の後、8世紀になっても蝦夷の騒動が続き、709年、720年、724年、・・・と蝦夷征討の軍を次から次と繰り出しております。
記録に残っている初期の頃の蝦夷征討の将軍として、阿倍比羅夫はその名を現代に残しているのです。