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八戸に是川の遺跡があって、住居跡や土器などが出土しております。この是川遺跡に限らず、東北全体では方々に昔から集落があって、共同社会を営んでおりました。
最近の遺跡の発掘によっても、それが相当高度な文化を持っていたことが確認されております。
この村落共同体が、部族単位で幾つかの集団に分かれて暮らしておりました。しかし、まだ国家といえる段階には達していなかったように思われます。
このような原始共同社会に対して、いち早く国家組織を作った大和朝廷が、独立した軍隊を編成して、攻撃をしかけてきたのです。
大和武尊(倭建)が九州・東国に遠征に出かけた頃は、まだ、北日本の住民は安逸な生活を送っておりました。しかし。東国を制覇した後、攻撃が開始されます。
658年、斉明4年安倍比羅夫が日本海岸沿いに武力偵察を試みてから、879年・元慶(がんぎょう)3年、元慶の乱が終息した後、小野春風が軍を解散するまでの221年間(もっと後まで?)、北日本の住民の生活は根底から崩されてしまいました。
朝廷は前進基地として柵を作りました。(この柵が後には城となり、政庁舎となっていきます。)
柵の周りに柵戸(きのへ)として南から倭人を集め、住民を追い払って、その後に入植するようになります。
そして、戦いをしかけ、その戦いに勝ったときには、また北の方に柵を作ります。そして同じ事を繰り返していきます。
戦争捕虜とか、自分の土地を奪われるのに抵抗した人々を捕まえ、俘囚として全国35カ国に配流しております。
これは組織的な住民の入れ替えが古代に行われたことを示しております。
住民の入れ替え(おだやかな表現を使っておりますが)が行われた記録が、僅かではありますが、残っておりますので、これからそれを列記していきます。
(注1) "俘囚"・"夷俘"は朝廷側に降伏した蝦夷(えみし)のこと。
(注2) 以下の年表内の太字は、朝廷の捕虜として各地に流配された奥州の住民(俘囚)の動き。
◇ 714年(和銅7年):尾張・上野・信濃・越後の国民200戸、出羽柵に入る。
◇ 715年(霊亀元年):相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野から富民1000戸、陸奥へ入る。
◇ 716年(霊亀2年):信濃・上野・越前・越後から各100戸、出羽に入る。
◇ 717年(養老元年):信濃・上野・越前・越後4国から各100戸、出羽柵戸に入る。
◇ 719年(養老3年):東海・東山・北陸から200戸、出羽柵に入る。
◇ 722年(養老6年):陸奥鎮所へ、柵戸100人入る。
◇ 725年(神亀2年):陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配せられた。
◇ 738年(天平10年):陸奥国の俘囚115人を摂津職に送った。
俘囚62人、筑後国に居住している。
◇ 757年(天平宝字元年):不孝・不恭・不友・不順の者、桃生・雄勝へ送られる。
◇ 758年(天平宝字2年):浮浪人、桃生柵へ送られる。
◇ 759年(天平宝字3年):同年の符で浮浪1000人、桃生の柵戸に送られる。
左京人、出羽柵戸へ送られる。
板東・北陸の浮浪人2000人、雄勝柵に送られる。
◇ 760年(天平宝字4年):殺人犯桃生柵に送られる。
没官奴233人・女卑277人、雄勝柵戸へ送られる。
◇ 762年(天平宝字6年):乞索児100人、陸奥へ送られる。
◇ 767年(神護景雲元年):私金寿銭人王清麻呂ら40人、出羽国へ送られる。
◇ 769年(神護景雲3年):百姓が桃生・伊治城へ送られた。
浮宕百姓2500余を伊治村に置いた。
◇ 772年(宝亀3年):下野国から{課役}を逃れるため、870人が陸奥へ逃げ込んだ。
◇ 776年(宝亀7年):陸奥国の俘囚395人、太宰府管内諸国に配す。
出羽国の俘囚358人を太宰府管内諸国、および讃岐国に配す。
その78人は、諸司および参議以上に斑賜して賤とする。
◇ 795年(延暦14年):俘囚、大伴部阿て良(アテラ)らの妻子・親族66人を日向国に配す。
◇ 796年(延暦15年):相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後等の国民 9000人、伊治城に入る。
◇ 800年(延暦19年):出雲国に60人の俘囚が到着した。
◇ 802年(延暦21年):鶴河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の浪人、4000人が胆沢城に送られた。
◇ 806年(大同元年):近江国の夷俘640人、太宰府に送って防人とする。
◇ 847年(承和14年):日向国{俘囚死に尽くし、存するもの少なし}
俘囚郷のあった所:上野国 碓氷郡・多胡郡・緑野郡、周防国 吉敷郡。
夷俘郷のあった所:播磨国 賀茂郡・美嚢郡。
35ヶ国に俘囚料または夷俘料があった。
日高見国(または蝦夷)は大和律令国家に敗れて、国土を奪われてしまいました。
一部は奥地に逃れ、一部は俘囚として被占領国民の立場を甘んじて受け、一部は捕虜として大和の各国に流配されて夷俘・俘囚といわれて監視下に置かれてしまいました。
胆沢地方や秋田地方の肥沃な地帯は、倭人の入植地になってしまいました。
もともと住んでいた住民(蝦夷)は、山間部に追い払われてしまいました。
各地に流された奥州の住民(倭人は蝦夷・俘囚・夷俘といいますが)は、35ヶ国に分配されたといいますから、上の記録は氷山の一角で、実際は相当の人数ではなかったかと想像されます。
そして、この流配された人たちに対する倭人の待遇は劣悪を極めたようです。
流配後に各地で叛乱を起こしているのを見れば、それを裏書きしているものと思われます。
ことに、847年の日向国においての{俘囚死に尽くし}とは、誠に哀れを感じさせます。